見果てぬ夢 〜帰還、そして死〜


  • 西への帰還
  • アレクサンドロスは前325年夏にパタラに到着し、秋に出発するまでパタラに滞在し、周辺地域を押さえていった。パタラ滞在中に 河口までの探査を行い、大洋の存在を確認した彼はネアルコスに命じて外洋の探険航海を行わせることにした。ちなみに河口までの 探険航海のときにインドス川の潮の満ち引きの大きさに兵士たちは驚かされた。岸に投錨した船がいつの間にか砂地に置き去りにされ、 またしばらくすると元の水面に浮かぶ様子は、地中海しか知らないギリシア人には驚きを持って迎えられたようである。

    その年の 8月末になって、ネアルコスの探険航海に先立ってアレクサンドロスはパタラを出発して西へと進軍していった。ネアルコスの艦隊が 出発するのはその年の10月末頃であるが、それに先立ち艦隊が寄港できる場所に水や食料を用意しておくことが必要であったため、 アレクサンドロスの部隊は海沿いに西進していった。進発直後、オレイタイ人の抵抗を一月ほどで鎮圧し、艦隊補給地を設営した。

    さらにあらかたが砂漠であるガドロソイ人の土地に入っていき、艦隊の寄港地を準備しようとして努力を重ねた。しかし飢えと乾き、 さらに砂漠の過酷な自然が彼の軍隊に襲いかかってきた。ガドロシア地方はほとんどが砂漠であり、アレクサンドロスの部隊のため の食料や水を調達することも困難なところで、さらに艦隊のための水・食糧を確保しなくてはならないという困難な状況が生じて きた。そのため、艦隊用に集めた食料を盗み取る兵士たちも現れた。

    60日間にわたる砂漠の行軍によってアレクサンドロスの軍勢は かなりの損害が出たと言われている。砂漠の行軍を乗り越え、プラという町に入ってようやく一息つくことができたのであった。 そしてプラからカルマニア地方の首邑サルムースに入ったとき、アレクサンドロスの軍勢はほとんどすべての物資を捨て、武器さえも うちすて、軍についてきていた駄獣や婦女子のほとんどは砂漠の砂の中に消えていたのであった。そしてカルマニア地方において、 先に出発させていたクラテロス率いる別働隊と合流することができた。

    一方、ネアルコス率いる艦隊は、土着民の不穏な動きを警戒して、季節風を待たずに9月後半には出発し、現在のカラチにいったん うつり、そこでしばらく待った後10月末に出発した。艦隊の頼みの綱はアレクサンドロスが先に用意していてくれるであろう食料と 水、それに停泊地であった。しかしアレクサンドロスの部隊は途中から海岸を離れて内陸のマクラン砂漠横断の進路をとることに なったため、艦隊の補給はこの後困難を極めることになった。

    荒涼たる沿岸部で食料と水をさがさなくてはならないという苦しい 状況にあっても探険調査を続けていた。ゲドロシアの魚食民や、鯨の潮吹きなどの様子が資料にも書き残されている。ネアルコス の航海日誌はのちにアリアノス「インド誌」を書くときに史料として参考にされたようである。このような苦しい航海の末、12月に 休息のためにホルムズ海峡に面したハルモゼイアに停泊し、調査のために上陸し、このときに思いがけずアレクサンドロス率いる 本隊と再会した。アレクサンドロスと再会したネアルコスは再び艦隊を率いてペルシア湾を航海し、最終的にはユーフラテス川河口 に到着したのであった。

  • 帝国の再編
  • インドからの難行軍の末にカルマニア地方に戻ったアレクサンドロスであったが、このころ彼の耳には各地の太守たちの 綱紀紊乱や数々の不正にかんする情報が数多く入ってきた。ペルセポリスを発ってダレイオスを追撃し始めた前330年春以来 の王の不在は各地の太守たちの専横と、それに反発する東方人たちの自立傾向を助長した。そのため、インドから戻ってきた アレクサンドロスがやらねばならなかったことは、不在中に乱れた綱紀を粛正することであった。

    このときに東方系の太守たち の多くが解任されたり処刑され、その代わりに任命された太守たちはみなマケドニア人、ギリシア人であった。アレクサンドロス が死んだときに東方系の太守が支配していたのはメディア、パルティア、パラパミサダイのみであったという。この時に新たに 任命された太守の中にはペルシス太守ペウケスタスのように積極的にペルシアの文化・習慣を取り入れて現地人をうまく支配してい った者もいるが、きわめて例外的な存在であった。。この間に粛清された高官たちの中にはパルメニオン暗殺に関与し、 その後地位を引き継いだクレアンドロスらもいた(彼らは処罰を受けた数少ないマケドニア人である)。

    また不在中の高官たちの専横ぶりを聞いた後、高官たちが反旗を翻すことを憂慮したアレクサンドロスは、各地の太守と 将軍に対して傭兵部隊の解散を命令した。しかし彼の危惧は的中した。前331年以来バビロンにおいて帝国の財政全般を握る王の 朋友ハルパロスがアレクサンドロスの帰還と高官粛清の報を聞き、多額の公金(5000タランタ)と傭兵6000、軍艦30隻を率いて アテナイへ亡命したのであった。これによりアテナイでは「ハルパロス事件」という政治スキャンダルがおこることになる。結局 ハルパロス受け入れをアテナイが拒否し、アテナイからクレタ島へ逃走したハルパロスは部下に殺害されることになる。

    同年の夏、 オリンピアの祭典にてニカノールが読み上げた王の書簡には亡命者を復帰させる旨の内容が含まれていた。これはギリシアに おいて、没収財産の返還などにより国内の政治不安を招きかねないという理由から、かなりの反発を招いたのであった。西方の ギリシアでは私兵解散令や追放者復帰王令により不穏な情勢が生じている頃、東方で都市に入植させられたギリシア人たちは 不満を抱き続け、隙あらば西へ戻ろうとしていた。このように、インドから帰還したアレクサンドロスの帝国は東方協調路線の 大きな後退、東西両方でギリシア人を巡る情勢はきわめて不穏になっているなど、きわめて困難な状況におちいっていた。



  • 見果てぬ夢 〜大王の死〜
  • 一方で前324年に、スサにおいて集団結婚式が行われた。アレクサンドロス自らペルシア王家の女性2人を新たに妻としたのを 筆頭に、東方系貴族の女性とマケドニア・ギリシア人の側近貴族たちが一斉に結婚した。また一般将兵も王から持参金付きで 妻をあてがわれ、その数はおよそ1万人にもおよんだという。一般兵士たちの結婚には、東征の最中、兵士達が現地妻をもつこと があったが、それを公認したという色彩が強い。しかし一般将兵たちと王の間の心のずれの問題がこの後噴出する。

     アレクサンドロスが兵士たちの借金を帳消しにするという命令を出したときも、それを口実に処罰するのではという不信があった ようである。このような心のずれはアレクサンドロスが東方から3万人の兵士を集結させ、彼らを部隊に組み込んだことでさらに 広がってしまい、前324年の夏にオピス騒擾事件として表面化するのである。ことの起こりはオピスの町に入ったときにアレク サンドロスが出した老齢や傷病により戦えなくなった兵士たち1万人に対する除隊命令であった。

    この命令にマケドニア人兵士 たちは怒りを爆発させ、アレクサンドロスに対して厳しい言葉を投げかけた。これに対しアレクサンドロスは騒擾の首謀者と おぼしき兵士たちをとらえて処刑し、その後演説を行った後、居室に閉じこもり、東方人のみからなる軍の編成を発表した。 まさか実際にすべてを東方人に取り替えるとは思っていなかった兵士たちは動揺し、王に許しを請うことになる。王もようやく 兵士たちを許すとともに、盛大な和解の饗宴を開いた。このときは王のそばにはマケドニア人が、ペルシア人はその外周、他の 種族は一番外という配置になったという。そして1万人のマケドニア人兵士たちはクラテロスに率いられて前324年秋にオピスを 出発したのであった。

    マケドニア人兵士たちを送り出した後、アレクサンドロスがエクバタナに入ったのは秋のことであった。ここで新たな遠征計画 を練り始めた。その計画はアラビア半島を征服探査しながら半島を周航し、紅海からスエズ地峡(現在は運河がある)を通って 地中海へ抜けるという計画であった。また、エクバタナ滞在中にアレクサンドロスの無二の親友ヘファイスティオンが病死した。 アレクサンドロスはその死を深く悲しみ、バビロンでの盛大な葬儀を計画した。

    また前324〜323年冬にザグロス山中にすむ コッサイオイ人に対する軍事活動を行ったが、これが彼の生涯で最後の軍事活動となるのである。前323年にバビロンへ入った アレクサンドロスは様々な土木工事や都市建設の計画を進める一方でアラビア遠征の準備を整えていた。またヘファイスティオン の陵墓の建設も進められていた。5月も末近くなるとアラビア遠征の準備はほとんど整い、その指揮官はネアルコスが任命され、 出発は6月4日に予定されていた。しかしこの遠征は行われなかった。5月末に側近たちとの宴がつづくなかでアレクサンドロスは 体調を崩し、6月1日に発病した。

    病床においてもネアルコスら艦隊指揮官に指示を出すなどの行動をとっていたが、発病から 8日目には口もきけない所にまで悪化した。多くの兵士たちが彼との面会を求めて列をなし、彼はそれに対して心もち頭をもたげ 会釈を返し、両目で頷きかえしたという。しかし発病から10日後(前323年6月10日)、アレクサンドロスはその生涯の幕を閉じた。 32歳と11ヶ月の短くも激しい生涯であった。その治世の大半を東征に費やし、これから征服地の統治やさらなる遠征について 様々な政策を進めていこうとしたときの死であった。こうしてアレクサンドロスの時代は終わり、その後彼の征服地をめぐって側近 たちが激しい闘争を繰り広げる時代が始まり、やがてヘレニズム世界が形成されていくことになる。アレクサンドロス自身が 新しいものを作った、というわけではないが、彼が新たな時代の「場」を作ったと言うことは間違いないであろう。


    古代マケドニア王国の頁へ
    前へ戻る
    トップへ戻る inserted by FC2 system