雄図半ば 〜カイロ ネイア以後〜
カイロネイアの戦いに勝利した後、フィリッポス2世はテーバイ、アテナイへの戦後処理やペロポネソス
半島へ入ってペロポネソス半島の諸ポリスに土地を分配するなどの処理を行った後、前338年の晩秋〜冬頃に、
スパルタを除く各ポリスの代表をコリントスに集めて会議を開いた。そこで議論されたこととして、ポリス
内部でのスタシス(党争)やポリス間の争いを禁じること、普遍平和達成のための評議会設置などが話し合
われた。各ポリスにおいて、冬の間ポリスの内部でこれに関して様々な議論が交わされたという。
そ
して前337年春に再びコリントスに各ポリスの代表が集まり、スパルタを除くギリシアの全ポリスを対象とす
る「コリントス同盟」が結成された。コリントス同盟は一方では普遍平和(koine eirene)としての性格を
持っていた。ポリス間の争いや、内部のスタシスを禁じ国制は現状を維持すると言うことも含まれていた。
また、フィリッポスとその後継者の王権に対して挑戦し、これを転覆せしめんとする試みは禁止されたほか、
この同盟を侵犯する者があれば、それは処罰され、そのための機関も存在したという。
一方でこの同盟は軍事同盟としての性格も持っていた。同盟に設置された評議会における諸ポリスの票数は テッサリアに10票、ロクリスに3票と言った具合に様々であるが、これは参加しているポリスの軍事力に比例 して票数も決められていたようである。この同盟はギリシア諸国間の同盟でもあるとともにギリシア諸国と マケドニアの間の同盟でもあり、フィリッポス2世はコリントス同盟の評議会には参加していないが総帥と して君臨した。そしてコリントス同盟の評議会はフィリッポスを対ペルシア遠征軍の総司令官として任命し、 マケドニア王主導の対ペルシア遠征軍が組織されることになる。
コリントス同盟から対ペルシア遠征軍の総司令官に任ぜられたフィリッポス2世であるが、彼はいつ頃からペルシア 遠征を考えるようになったのであろうか?フィリッポスとペルシアの接触として史料などから分かるもっとも古い事例は 前353年の出来事が関連する。この年にパンメネス率いるテーバイの重装歩兵5000人の協力を得たペルシアの太守アルタバゾス はペルシア王に対して反乱を起こした。しかしアルタバゾスは敗北し、反乱は失敗に終わり、彼はマケドニアへと亡命し、 フィリッポスは彼および彼に付いてきた人々をむかえ入れた。この時の亡命者の中には後にアレクサンドロスの東征序盤で ギリシア・マケドニア連合軍を苦しめたメムノンもいた。アルタバゾスたちはしばらくマケドニアに滞在し、結局ペルシア王 に許され帰国したという(帰国の年代を巡っては、前349、前340年代半ば、前343、前342年など諸説ある)。
その後、前342年頃に真偽のほどは定かではないが、マケドニアとペルシアの間で不可侵条約が結ばれたともいわれている。
このような史料に見られるマケドニア=ペルシア関係のみならず、マケドニアの軍制にみられる索敵部隊の創出などには
ペルシアの影響も見られるという。その後マケドニアとペルシアが対立する事態が発生する。
前340年のペリントス包囲戦において、ペルシアはペリントスを支援しマケドニアと対立した。マケドニアが
エーゲ海北岸で強大化し、やがてペルシア領の小アジアにも影響を及ぼしてくる可能性を想定しての動きで
あったいう。そしてカイロネイアの戦いの後、コリントス同盟総帥となったフィリッポスはペルシア遠征軍
の司令官となったが、最初の作戦行動はその小アジアに橋頭堡を築くことから始められたのである。
前336年 春にパルメニオン、アッタロス、アミュンタスの3人を指揮官として小アジアへ先遣隊が派遣された。これは ギリシア本土との連絡を維持する上で小アジアを押さえることは重要であり、小アジア沿岸部のギリシア人 諸ポリスを支配下に置き、遠征の拠点として利用する計画があったためであろう。小アジア沿岸部を制圧し たのちにペルシア遠征軍の本隊が海を渡って上陸するということを想定しての先遣隊派遣であった。しかし 当初は優勢に戦いを進め、沿岸部のギリシア人諸都市を「解放」してまわった先遣隊であったが、エフェソス 南東の都市マグネシアまで達した後、ペルシア軍を指揮するメムノンに敗北した後は小アジア西部に押し込め られていたようである。しかし小アジアで先遣隊とペルシア軍が戦闘を続けていた前336年夏、マケドニア国内 で大事件が発生し、結局フィリッポスが総司令官としてペルシアに攻め込んでくることはなくなってしまった。 なぜならこの年の夏にフィリッポスが暗殺されてしまったからである。
紀元前336年夏、マケドニアの古都アイガイの劇場においてフィリッポス2世は暗殺者の凶刃に倒れた。
この事件を巡る様々な研究によりマケドニア王家ならびにマケドニア王国内部の様々な亀裂の存在が明らかに
なった。前337年秋、フィリッポスがマケドニア貴族アッタロスの姪と結婚したことに反発したオリュンピアスと
アレクサンドロスが出奔した。
これまで後継者確保のための一夫多妻制を行ってきたマケドニア王家で国内の
貴族の娘が妻に迎えられた事例はほとんど無く、フィリッポスの妻たちも7人中6人は外国から政略結婚として
迎えられた妻たちであった。しかし7人目の妻はマケドニア貴族から迎えられた。これはどうやら恋愛結婚だった
らしく、オリュンピアスがそのことに不安と怒りを覚えたのではないかと考えられている。また王位継承に関して
も新たな後継者候補が生まれればアレクサンドロスの地位も怪しくなる。さらに舅アッタロスの野心がこうした
不安をさらにかき立てることになり、それ故に出奔したのであろう。オリュンピアスはエペイロスへ出奔し、
一時マケドニアとの関係もぎくしゃくしたようである。
フィリッポスは関係改善のため、エペイロス王アレクサンドロス と自分の娘クレオパトラ(アレクサンドロスの実の妹)を結婚させることにした。そしてその結婚式は全ギリシア から著名人を招き、饗宴や競技会も開き、大規模な祝典として行われた。その祝典の会場にはマケドニアの古都 アイガイが選ばれた。前336年夏、古都アイガイでおこなわれたアレクサンドロスとクレオパトラの婚礼と祝典の最中 にフィリッポスは暗殺されて24年の治世を終え、享年47歳であった。暗殺に関しては主犯のパウサニアスによる 単独犯行説、ペルシアの陰謀説、オリュンピアスとアレクサンドロスが裏で糸を引いていたとする説などがだされている が定かではない。
|
暗殺当日の経過は以下のようなものであった。
饗宴の翌日にアイガイの劇場での見せ物が行われた。そこでは華やかな行
列がつづき、そのなでもオリュンポスの十二神につづいて13番目にフィリッポスの像が続き、彼自身が神になったかのよ
うであった。
行列に続いて王子アレクサンドロスと婚礼の新郎アレクサンドロスの2人を伴ったフィリッポスがあらわれ、
その後ろに側近護衛官たちが続いた。フィリッポスは側近護衛官に下がるように命じたがその中の一人パウサニアスだけ
が離れず残り、入り口側に立ったままであった。
そしてフィリッポスの側にいた人々が離れ彼一人になった瞬間に、パウ サニアスは隠し持っていた短剣でフィリッポスの胸を刺し貫いた。そしてフィリッポスはその場で即死し、パウサニアス は逃亡したが途中でツタに足を取られて転倒したところを追ってきた側近護衛官たちに槍で刺されて殺害された。ギリシア 世界の覇権を握り、これからペルシア遠征を行おうとしたまさにその時にフィリッポスは一生を終えることになった。 フィリッポス2世が雄図半ばにして凶刃に倒れた後、彼のペルシア遠征計画は息子のアレクサンドロスに継承される。 そしてアレクサンドロスの東征が開始され、それはフィリッポスですら予想し得ないほどの大遠征になったのである。