カイロネイアへの道(後編)


  • フィリッポスとギリシア
  • 前346年以後、フィリッポスはデルフォイのアンフィクテュオニアを通じてギリシア世界に影響力を及ぼすこと が可能となった。結局フォキスは報復的処置がとられ、多額の賠償金の支払いや投票権の譲渡を余儀なくされた。 このような状況下で、小規模なポリスはスパルタやテーバイ、アテナイといった大ポリスの支配を脱したいとも 考えていたようである。前346年にフィリッポス2世がアンフィクティオニアのメンバーとなり、ギリシアに影響 力を及ぼすことが出来るようになる過程で、小ポリスは自らを保護してくれる存在としてマケドニアに目をつけ る一方、マケドニアとアテナイの和平交渉に対しては大国間の秘密交渉となる危惧を抱いていたという。前346年 に小ポリスからもマケドニアに使者が送られ、個別にフィリッポスと交渉しているのは、そう言ったことに対する 備えであろう。

    そしてその後もギリシア世界の小ポリスはマケドニアと提携して自国の安全を図ろうとしていったという。そうし た意向も影響してか、フィリッポスはペロポネソス半島のポリス間の争いをきっかけにそこに進出し、親マケドニ ア派を増やしていったほか、各地にマケドニアの勢力を広げていったのである。資料の偏りから、あたかも全ギリ シアが結集してマケドニアに対して抵抗したような印象を持ってしまうが、小ポリスにとってはマケドニアは新た な保護者となりうる存在であった。フィリッポスの方でも各地に親マケドニア派の勢力を築くことには余念が無く、 そのための工作資金として国内の鉱山で取れた金や銀で造られた貨幣が用いられたとも言われている。

  • 主戦派の台頭
  • 前346年以降、フィリッポスはイリュリア、トラキア、テッサリアへの支配強化、軍事活動をおこないつつギリシア 世界でも影響力を強めていったが、それに対して快く思わなかった勢力も当然存在した。特にアテナイではそのよ うな傾向が強く、反マケドニア派がデモステネスを中心に結集していった。前343年後半頃より反マケドニア派が力を 持ちはじめ、度々和平を維持しようとする努力も続けられたが、結局フィロクラテスの和約も破棄されてしまうので ある。当初はアテナイでも和平支持派が多かったのだが、デモステネスら反マケドニア派が和平派をフィリッポスから 買収された人々として批判する動きが強まっていた。前344/3年にマケドニアからピュトンが使者として派遣され、 フィロクラテスの和約の修正を提案し、これに対してアテナイはヘゲシッポスをフィリッポスへの使者として派遣し、 アンフィポリスやハロネッソス島の返還要求をだしたため、結局和約修正は失敗した。そのような状況下で、和約締結 に重要な役割をはたしたフィロクラテスが裁判で死刑を宣告され、また、かろうじて無罪となったがアイスキネスも告 発された。

    このような動きが起こる過程でアテナイ国内では和平派は力を失い、主戦派がアテナイの政界を牛耳るようになった。 さらに彼らは同盟国の獲得に力を注ぎ、前340年までにはアテナイを中心とした反フィリッポス同盟が作られていった。 海を隔ててアテナイと向かい合うエウボイア島では、前343年頃より親マケドニア派と反マケドニア派の争いが内部で 発生していたが、前341年頃にはアテナイ側についたという。またアテナイに隣接するメガラでも都市の内部で抗争が あり、アテナイを支持する勢力が権力を握ったという。

  • 戦争再開
  • そして、アテナイとフィリッポスの対立が決定的となり、戦争状態に再び突入した のは前340年のことであった。アテナイにとりケルソネソス半島を押さえることが食糧供給のためにも重要であったが、隣 のトラキアがマケドニアの支配下に入ったことは彼らにとり脅威であった。そしてアテナイ植民市はマケドニアの盟邦 カルディアとのあいだに衝突を起こしていた。

    当時ディオペイテス率いるアテナイ派遣軍はトラキアやエーゲ海沿岸部での略奪を頻繁に行った。このためにカルディアが フィリッポスに救援を求め、フィリッポスはアテナイに抗議したがうけいれられず、ついにこの地域で戦闘が始まった。 フィリッポスはペリントスという町を大群を以て包囲、攻撃をおこなったがペリントスはビュザンティオンとペルシアの支援 を受けて持ちこたえた。するとフィリッポスはビュザンティオンに対しても攻撃を行い、さらにアテナイの穀物船170隻を捕獲 した。これに対してアテナイはフィロクラテスの和約の破棄をもって応じたのであった。またアテナイ、キオス、ロドスなど から艦隊が派遣されてビュザンティオン救援に向かい、結局フィリッポスはペリントス、ビュザンティオンからは兵を引くこ ととなった。

    ペリントス、ビュザンティオンからマケドニアを撤兵させ、さらにエウボイアも確保したアテナイでは反マケドニア派 の声望はますます高まり、戦争準備を本格的に進めた。海軍の整備をすすめ、さらにテーバイと同盟しようとした。 一方マケドニアもテーバイを同盟国としようとしていたが、テーバイのマケドニアに対する不満も募っていた。そして 前339年の夏、フィリッポスがスキタイ、トラキア遠征から帰国する少し前にニカイカにいたマケドニアの守備隊を追い 出し、軍を駐留させた。いっぽう隣保同盟ではアンフィッサという町に対して神聖戦争を決議し、その指揮官にフィリ ッポスを任命していた。そしてフィリッポスはアンフィッサ討伐の名目で進軍し、その時にフォキスの都市エラテイア を占領した。このとき、テルモピュライをさけ、ニカイア駐留のテーバイ軍の裏をかく形でギリシアへと入っていった。

    エラテイア占領は明らかに当初の命令の範囲を逸脱しており、アテナイはテーバイとの同盟を結ぶべく努めたという。 テーバイにはアテナイの使節とマケドニアの使節の両方が来たが、結局テーバイはアテナイとの同盟を選んだのであった。 隣保同盟軍司令官としてのフィリッポスはおそらくこの戦争が“神聖戦争”であることをテーバイに説き、協力を要求 したと考えられる。当時彼が率いていた軍事力を考えると、一気にボイオティア、アッティカを制圧することも可能で あったが、彼は外交手段による解決を選択した。しかしテーバイの方はマケドニアの覇権を認めることより、独立した 都市国家としての行動を選択し、テーバイはアテナイを支持したのであった

  • カイロネイアへの道
  • そして、マケドニア対アテナイ・テーバイ連合軍という構図でギリシア本土を舞台に両軍が争った。前339/8年冬からしばら くはボイオティア北部での前哨戦が続くが、やがてマケドニア側の陽動作戦にアテナイ側がひっかかり、マケドニアは アンフィッサを攻略した。これによりマケドニアにとってはボイオティア進出の道が開けた一方、アテナイ・テーバイ側 は後方を遮断されるおそれが出たために東方に後退しカイロネイアで体制の立て直しを図った。そのカイロネイアに マケドニア軍が姿を現すのは前338年夏のことであった。


    カイロネイアの合戦
    N.G.L.Hammond Philip of Macedon
    有坂純「世界戦史」を参照

    Hammondが数に入れているギリシア側の騎兵(アテナイ、ボイオティアの 騎兵2000)に関しては実際のところ
    どのように配置されていたのか不明なため、今回の図からは省略した。

  • 両軍の布陣
  • 前338年夏、カイロネイアの地にてフィリッポス2世率いるマケドニア軍(歩兵30000人、騎兵2000騎)とアテナイ・テーバイ などギリシア連合軍(歩兵35000。騎兵の存在は不明だが一説には2000騎)が激突した。世に言うカイロネイアの戦いである。 この戦いに関して、詳しい史料は残されていないが、フィリッポスはマケドニア軍右翼にて歩兵を率い、息子アレクサンドロス (後の大王)は左翼で騎兵隊を率いていた。右翼側は山地であり、騎兵を展開する余裕はなかったためであろう。そのため右翼側面 を固めるために軽装兵を備えたようである。そしておそらく斜線陣のような形で右翼側のほうが突出していたと考えられている。

    一方で同盟軍の布陣は右翼側にボイオティア軍が陣取り、アレクサンドロスの騎兵隊の対面にはテーバイの名高い神聖隊が陣取っていた。 中央にはアテナイと同盟を結んだポリスの軍、そして左翼にはアテナイ軍が布陣した。かれらは川と山地の天然の要害の間に 陣を敷いて側面から騎兵に攻められる危険性を減らすようにしていた。

  • カイロネイアの戦い
  • 戦いの進み方は残された史料が少ないため正確な記述は不明である。史料によってはいきなりアレクサンドロスが騎兵で突撃 してマケドニアが勝利したと書いてあるが、当時の騎兵の性質から言ってそれは考えにくい。おそらく、カイロネイアの戦い の展開は、まず、フィリッポス率いる右翼とアテナイ軍の左翼が激突し、フィリッポス側が意図的に後退していったという。

    アテナイ側は勢いに任せて前へと出るが、それにより戦列が乱れ始め、その乱れをマケドニア軍につかれて敗れたようで ある。アレクサンドロス率いる騎兵隊が隊列の乱れた連合軍めがけて突撃し、フィリッポスの歩兵部隊も反転して迎え撃ち、 アテナイ、テーバイ連合軍を破ったのである。有名なテーバイの神聖隊はこの戦いでアレクサンドロスの騎兵隊と 交戦し、ほぼ壊滅した。こうしてカイロネイアの戦いはマケドニアの勝利に終わった。

    この戦いは、かつてのギリシアの市民軍と、 紀元前4世紀にギリシア世界においてみられた軍事的革新の産物であるマケドニア軍の激突であり、勝利したのはマケドニア 軍であった。もはやかつてのペルシア戦争の時代のように市民団の団結と突進により戦いに勝てる時代ではなくなっていた のである。

  • 戦い済んで
  • カイロネイアの戦いに勝利し、名実ともにギリシア世界の覇者となったフィリッポスはテーバイに対しては過酷な懲罰を 加えた。ボイオティア連邦は解体され、反対者の殺害、追放、財産没収がおこなわれ、捕虜釈放に関しても身代金を取り立 てた。そして親マケドニア派でテーバイから追放されていた市民たちを復帰させて国政を運営させた。そしてマケドニアの 占領軍が駐留したのであった。


    カイロネイアの獅子
    (Livius.orgより)
    一方、テーバイとともにカイロネイアで戦ったアテナイには寛大であった。カイロネイア の敗戦後、アテナイではマケドニアの報復をおそれ、デモステネスの弾劾を試みる者たちがいた。一方、徹底抗戦を主張する 人々も存在した。このように戦後のアテナイの状況はかなり混乱していたようである。彼らは捕虜の無償釈放と和平の使者 としてアレクサンドロスを派遣することが伝えられて、ようやく平静さを取り戻した。なお、デモステネスはカイロネイア の戦死者追悼演説を任され、弾劾は退けられたという。

    結局フィリッポスからの条件はケルソネソスの割譲、海上同盟の 完全な解体、マケドニアの同盟に加わることが決められたが、レムノス、インブロス、サモス、デロスなどはアテナイの 領土として残された。この後、フィリッポスはペロポネソス半島に入り、スパルタの勢力下にあった諸都市を解放した。 そして前338年冬にコリントスにスパルタを除く全ポリスの代表者が集まり、コリントス同盟が結成されるのである。








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