カイロネイアへの道(前編)


フィリッポス2世のギリシア征服はアテナイとの対決の連続であったように書かれている。しかし実際にはフィリッポスの ギリシア征服までの過程は東方のトラキア制圧、西方のイリュリアからの国土防衛やエペイロスとの同盟、テッサリアへの 進出など様々な出来事が関連しあい、最終的にカイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破った後にギリシア世界 の覇権を握ることになる。どうしてもアテナイが中心であったように見えるギリシア征服の過程でアテナイが特別視されて いたわけではなく、フィリッポスに関する主要史料のなかで同時代史料はデモステネスらがアテナイ民会や裁判所で行った 弁論が大半を占めているという史料上の偏りによるものである。それらの史料を見ていると、あたかもフィリッポスにとり アテナイが最大の敵であったかのように見えてくるのである。

  • フィリッポスとアテナイの対立
  • 前357年〜356年にアンフィポリス、ピュドナと立て続けに陥落した頃からアテナイとフィリッポス2世の争いは始まってい る。アテナイは長年にわたりアンフィポリスを手に入れようとしてきたが、アンフィポリス攻略戦の際にフィリッポスとア テナイは密約を結び、アンフィポリスはアテナイに譲歩するがその代わりにピュドナをフィリッポスに譲るという内容であ った。その後アンフィポリスは陥落するが、その後まもなくピュドナも攻め落とされフィリッポスの手に落ちた。アンフィ ポリス、ピュドナと立て続けにフィリッポスが攻め落として支配下においたことは今までアテナイが抱いていた幻想を打ち 砕くには十分であった。このころからアテナイとフィリッポスの戦争状態は約10年にわたり続くことになる。

    アテナイとフィリッポスの対立は、前356年に開始された神聖戦争でも見ることが出来る。フィリッポスはテッサリア連邦 の要請に基づきテッサリア連邦を支援してフォキスと戦うことになったのだが、この時にアテナイはフォキスを支持していた ためである。前353年にフィリッポスはクロッカス平原でオノマルコス率いるフォキス軍を破っているが、このころアテナイ はこの付近に艦隊を送って支援している。フィリッポスに包囲されたパガサイの町を救うべくオノマルコスから派遣を要請 されて派遣されたアテナイ艦隊であるが、結局この救援は間に合わなかった。

    フィリッポスはテッサリアを制圧し、前352年にはテルモピュライに迫るがそこから引き返した。テルモピュライを突破して一気に フォキスに攻め込み神聖戦争を終結させることも可能であった。一方アテナイもそれに備えて軍勢を送り、備えていた。結局フィリ ッポスはこの時は攻め込まず、マケドニアへと引き返していった。前352年のフィリッポスにとり、テルモピュライを突破して 戦争を続けることは彼自身にとっても損害がかなり出ることがかんがえられたこと、また新たに手に入れたテッサリアの支配を安定 させることが優先されたためであると考えられる。そうしたことを計算に入れてアテナイが守りを固めるテルモピュライ撤退し たようである。

    さらに前349年に始まったオリュントス攻略戦では、アテナイはオリュントスの救援要請に応えて3度にわたって援軍を送っ た。ただし当初送られた軍勢は主に軽装兵であり、3度目の援軍でようやく重装歩兵の派遣が決められ、送り出されたが結 局間に合わずオリュントスは陥落したのであった。

    このような紀元前350年代後半から340年代初めの時期に盛んに反マケドニアの立場から民会で演説を行ったのが政治家デモ ステネスである。前351年におこなった「フィリッポス攻撃演説(その1)」で、マケドニアに対しどの様に備えるべきかを 説いて以降、3回にわたる「オリュントス防衛論」でもオリュントス防衛を盛んに主張した。ただしこの時点ではデモステ ネス自身はそれほど政界で大きな力を持っていたわけではなかったようである。彼が大きな力を持つようになるのは、前346年 にフィロクラテスの和約が結ばれてからのことである。デモステネスについては愛国者であるという見方とともに、マケドニア の脅威を利用して自分がアテナイ政界でのし上がることを考えていたにすぎないという見方もある。そのような人物評価は さておき、アテナイの政策が紀元前340年代後半になるとデモステネスとその一派の主張に従う形で決められ、実行されていった ということは確かである。

  • 前346年 〜和約の成立〜
  • 前346年という年は神聖戦争終結、トラキア征服、フィロクラテスの和約といった出来事が重なった年であった。 前348年秋のオリュントス陥落で捕虜となったアテナイ人の身柄引き渡しを巡る交渉を契機にフィリッポスとアテナイの和 平交渉がスタートする。前347年初等に派遣された使者がアテナイに帰国し、フィリッポスが和約への意向を持っていること を伝えると、アテナイではマケドニアとの和約の世論が盛り上がった。そして前346年にフィロクラテスが10人の使節をフィ リッポスに派遣することを動議し、可決された。そしてデモステネスも10人の使節の一人に選ばれてマケドニアとの和平交 渉にあたり、和平交渉の結果マケドニアはカルキディケー半島とトラキアを獲得すること、アテナイはケルソネソス領有を 認めることが定められた。この和約が締結されるまでの間にフィリッポスによるトラキア遠征が行われてケルセブレプテス が屈服させられた。

    さらにその後フィリッポスはテルモピュライを通ってフォキスに入りこれを降伏させ、これにより神聖戦争は終結したのであった。 フォキスを降伏させて神聖戦争を終結させたことによりフィリッポスはデルフォイの隣保同盟のメンバーとなり、ギリシア世界で 影響力を及ぼすきっかけを掴んでいった。フィリッポスは治世の早い段階からデルフォイのアポロン神殿に奉納を行ったり、 オノマルコスと戦うときにマケドニア兵に月桂樹の冠をかぶせたり、クロッカス平原で勝利した後の宗教的プロパガンダのような フォキス人処刑など、デルフォイをかなり意識した行動を見せている。アポロンの擁護者としてギリシア世界に入り込むための様々 な活動は前346年に達成されるのである。


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