テッサリアの支配者


フィリッポス2世にとり、マケドニアの南部に広がるギリシア世界というものはどの様な意味を持っていたのであろうか。 テッサリア平原には有力ポリスを中心にしてテッサリア連邦が作られ、テッサリアからさらに南に下り、テルモピュレーを 超えるとポリスが各地に林立する世界が広がっている。紀元前337年のカイロネイアの戦いでフィリッポスは勝利し、ギリ シア世界の覇権を握ることになるが、そこにいたるまでの過程をたどっていきたい。

  • フィリッポス2世のテッサリア進出
  • フィリッポス2世がパイオニア人やイリュリア人と戦って勝利を収め、国境線を安定させた前358年、テッサリア連邦の指導 的なポリスのラリサから救援の要請がマケドニアに届いた。フェライの僭主アレクサンドロスの勢力が拡大し、それに対し 脅威を覚えたためであった。フィリッポスもそれに応じて前358年秋から冬にかけてテッサリアに入り、ラリサとともにフェ ライと争った。この時はアレクサンドロスが暗殺され、戦闘そのものは大規模なものにはならなかった。

    テッサリアとマケドニアの関係はペルシア戦争の時代にまで遡り、ペロポネソス戦争以後、より緊密な関係が生まれる。前400年 にアルケラオスがラリサを支配するアレウアダイの要請に応えてこれを助け、前393年にイリュリア人の侵攻によりマケドニアを 追われた王アミュンタス3世はテッサリアの支援により王位に復帰した。前369年にはラリサがフェライの僭主の支配に対抗する ためにアレクサンドロス2世に救援を求め、彼もそれに応じて出兵した。ただしこの時はラリサやクランノンなどの主要都市を占領 したためにテッサリアと対立、結局テーバイが介入してマケドニアは占領していた都市から退くことを余儀なくされた。伝統的に ラリサの貴族アレウアダイとマケドニアのつながりが存在し、フィリッポスに対する救援要請もそうしたつながりから行われたもの であった。戦闘終了後もフィリッポスとラリサの関係は続いているが、それはフィリッポスとアレウアダイ出身の女性フィリンナの 結婚により強化された(フィリンナはのちにアリダイオスを生む)。その後もテッサリア諸都市で何か問題があるとフィリッポス に助けを要請し、フィリッポスもそれに応えるということがしばしばあったようである。しかし本格的な介入は前356年に勃発した 第3次神聖戦争の時期まで待たねばならない。

    神聖戦争は前356年から始まった10年にわたって続いたギリシア本土の主要ポリスを巻き込んだ大戦争であった。前357 年の秋、デルフォイの隣保同盟においてスパルタとフォキスに対し涜神行為を理由に多額の罰金を課したことにフォキスとスパ ルタが従わず、逆にフォキスは将軍フィロメーロスを中心にスパルタから資金をもらって軍を集め、前356年夏にデルフォイの 神殿を占領した。フォキスのこの行動に対してテーバイとテッサリアを中心とする隣保同盟評議会は同年秋にフォキスに対する神聖 戦争を布告し、第3次神聖戦争が始まった。この戦争はやがてテーバイ、テッサリアといったデルフォイ隣保同盟側とフォキス、 アテナイ、スパルタらの勢力の争いとなり、フォキスはデルフォイの聖財を用いて大軍を養うに至った。前355年のネオンの戦いで フォキスが大敗して戦争は終わるかに思われたが、テッサリアでは前355年冬の時点でフェライの僭主政が復活し、彼らはフィロメ ーロスの後任であるフォキスの将軍オノマルコスの資金援助を受け、フェライ・フォキス同盟を成立させた。そしてテッサリア 連邦とフェライが全面対決へと向かっていった。このような中でテッサリア連邦はフィリッポスに助けを求めてきたのであった。

  • フォキスとの戦い
  • 前354年春、フィリッポスはテッサリア連邦の支援要請に応えてテッサリアに介入し、フェライ・フォキスと戦った。しかしこの ときにフィリッポスの生涯でも数少ない敗北を喫することになる。前354年夏、フォキスの将軍オノマルコスの巧みな作戦の前に 2度戦って2度敗れたという。その時の戦い方は、背後にある半月状の山地に投石機を隠しておき、わざと後退してマケドニア軍 を山地へ誘い込み、そこで攻撃を加えたという。結局その年の秋にはフィリッポスはマケドニアへと撤退し、体制の立て直しを 図らざるを得なくなった。その後フィリッポスが再び現れるのが前353年春以降のことであったという。マケドニアにおい て再び軍を立て直してフィリッポスがテッサリアへと戻るとそれまでボイオティアで軍事活動をしていたオノマルコスも急遽テッ サリアへ向かい、両者の決戦が行われた。前353年、クロッカス平原という場所でフィリッポス2世率いるマケドニア・テッサリ ア連邦の軍とオノマルコス率いるフォキス軍が激突した。この時フィリッポスはデルフォイのために戦うという大義名分をもって いたため、全軍には月桂樹の冠(アポロンの聖樹)をつけさせた。デルフォイのアポロン神の庇護があるといぅ事を示すためであ った。クロッカス平原の戦いではフィリッポスが勝利し、オノマルコスは戦死、フォキス人の死者は6000人ほどで捕虜が3000人ほ ど出たという。この時のフィリッポスの対応は苛烈な物であり、生き残ったフォキス人たちも海に投げ込まれて殺された。

    この戦いでフィリッポスが勝利したことで、フィリッポスはフェライの僭主を追放し、フォキスに与したテッサリア諸都市から僭 主を追放した。また港湾都市パガサイを手に入れ、港湾の関税を財源とするとともに西にあった都市ゴンフォイを手に入れてフィリ ッポポリスと改名し、さらにテッサリア東部のマグネシア地域と北部のペライビア地方を手に入れた。そしてなによりこの勝利 によりフィリッポスはテッサリア連邦の最高指導者であるアルコンに任期終身で就任したという。昔から関係が深いとはいえ外国 の王を最高指導者に据えたと言うことは、この勝利がそれだけの価値のあることと見なされたためであろう。こうしてフィリッポ スは王国の南隣テッサリアを自らの支配下に納め、この地域の開発を進めてゆくことになる。さらに前344〜342年の間には詳細は 不明であるがテッサリア連邦で国政改革を行い、テッサリアの支配をさらに強固な物としたという。テッサリアはその後、アレク サンドロス大王の東征の時には騎兵隊を送り出し、彼らは合戦において重要な役割を果たしていた。



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