王国の発展 〜西へ東へ〜


フィリッポス2世は即位以来、西部のイリュリア人、モロッソイ人、上部マケドニア東部のエーゲ海沿岸部のギリシア人都市、 カルキディケー半島、トラキア、アテナイと互していかねばならなかった。そしてこれらの勢力と争いながらマケドニアの領土 を拡大し、外的の脅威を取り除いた。そして長年にわたりマケドニアを脅かしてきた勢力を打ち破ることによってマケドニア王 国の国境線の安定が実現され、王国の領土は大幅に拡大した。ここでは、王国西部と東部におけるフィリッポスの活動を見てい くことにする。


  • 王国東部への拡大(1):即位直後
  • 王国東部への拡大に関しては、アテナイが支配下におこうとしたり、支配下においているエーゲ海北岸のギリシア人諸都市の存在 はフィリッポスに取り王国の安定のために障害となっていた。また、カルキディケー半島にはオリュントスを中心とするカルキデ ィケー同盟が存在し、フィリッポスの父アミュンタスの時代からマケドニアに取り脅威となっていた。そして、さらに東には長年 にわたりマケドニアを脅かし続けてきた、オドリュサイ王国などのトラキア人の国家が存在した。

    エーゲ海北岸のギリシア人諸都市のなかで、メトーネー、ピュドナはアテナイの勢力範囲に入っていた。そしてアンフィポリスを 手に入れようとしてアテナイは紀元前5世紀の終わり頃から様々な活動を展開した。一方マケドニアもペルディッカス3世が アンフィポリスに守備隊を置くなど、アテナイとの対抗上この都市の存在は無視できぬものであった。即位当初のフィリッポス の当初取った行動はアンフィポリスに駐留させていた守備隊を引き払うことであった。

    当時即位間もないフィリッポスにとり、 王位僭称者アルガイオスを支援するアテナイとの対立は極力避けたいものであり、アンフィポリスの守備隊を撤退させることですこ しでも危険を減少させるねらいがあったようである(ちなみに当時アテナイはメトーネーを拠点として利用し、ここに軍隊を率いて上陸 すると王位を狙うアルガイオスに軍隊をつけ出発させている。ピュドナとともにメトーネーはアテナイの拠点として利用されていたため である)。

  • 王国東部への拡大(2):アテナイとの対立開始
  • その後フィリッポスはアンフィポリスと対立するようになり、前357年にアンフィポリス攻略戦が開始された。 なぜ対立したのかは不明であるが、即位直後の混乱を乗り切り当面の危機が去り、再びアンフィポリスに軍を駐留させようとしたた めだとも言われている。この包囲攻撃中にフィリッポスはアテナイとの間に攻略した後にアンフィポリスをアテナイに譲渡する代わ りにアテナイの同盟国ピュドナを譲ってもらうという密約を交わしたというが、これもアンフィポリス攻撃を正当化する理由のひと つになったのであろう。アンフィポリス市民のなかにはフィリッポス派の市民と反フィリッポス派の市民がいて都市内で対立し、ア テナイに支援を求める使者も送られていたが、アテナイとフィリッポスの間にはこのような密約が結ばれていたのであった。結局ア ンフィポリスは陥落し、フィリッポスは都市の自治は認めたものの反フィリッポス派市民は追放し財産を没収した。そしてマケドニ アから人を入植し、土地を分与した。

    フィリッポスはアンフィポリス陥落後、今度はピュドナを攻略し、これを奪取した。ピュドナも占領後はアンフィポリス と同様の扱いになったようである。アンフィポリス、ピュドナと立て続けに沿岸部の都市を攻略した様を見て、アテナイはフィリッポ スに対し宣戦を布告したが、有効な手は打てなかった。こうしてエーゲ海北岸を舞台とするフィリッポスとアテナイの対立が始まって いく。

    さらに前355年にはアテナイのエーゲ海北岸の拠点メトーネーを攻撃、翌年にメトーネーは陥落した。なお、フィリッポス 2世はその人生を通じて数々の傷を負っているが、メトーネー包囲戦の最中に攻城兵器を視察しているところを弓で右目を射られて 右目を失ったという。 フィリッポスは沿岸部のギリシア人諸都市を征服し、マケドニアから人を入植して発展させていったのであった。入植者が アレクサンドロス大王の東征軍に従軍していたことが、これらの都市とその周辺地域から集められた騎兵隊の存在から窺える。 メトーネーについては、こちらも参照。

  • 王国東部への拡大(3):トラキアへ
  • こうしたギリシア人諸都市の他にフィリッポスの脅威となっていたものにはオリュントスを中心とするカルキディケー同盟とトラキア のオドリュサイ王国がある。オリュントスは紀元前5世紀にペルディッカス2世が支援して作ったといっても過言でない都市だが、 やがてマケドニア王国に取り大きな障害となってくる。前4世紀にはフィリッポスの父アミュンタス3世を度々苦しめ、土地を奪 ったあげく内陸にまで侵攻し、アミュンタスは一時国外へと逃げ出している。

    フィリッポスにとり、かれらとの関係を維持することは 即位直後の状況を考えるとかなり重要であった。そのため、オリュントスに対してポテイダイア攻略を請け負い、攻略した後にはオリ ュントスに与えたのであった。こうして当初の方針としては、カルキディケー同盟と友好関係を築き、国境線を安定させるのみな らず、さらに東方のトラキア方面へ勢力を伸ばすときの障害を取り除こうとしたのであった。

    フィリッポスとトラキアの接触は、前359年のフィリッポスの即位直後に王位を狙う王族パウサニアスを支援したトラキア王の一人 ベリサデスをフィリッポスが買収して以来のことである。トラキアのオドリュサイ王国には西部を支配するベリサデス、中部を支配 するアマドコス、そして東部を支配するケルセブレプテスの3人の王がいて、その中でケルセブレステスが王国再統一にむけて他の 2人と戦っていた。フィリッポスのトラキアへの本格的な介入は前356年にトラキア王ケトリポリス(ベリサデス死後、彼の領域を 継承した)に攻撃されていたクレニデスを支援するために介入してからのことである。

    この時は介入により助けたクレニデス をフィリッポイと改称し、この都市を開発していく。この都市を獲得したことによりマケドニア王国の東の国境線はストリュモン川 からネストス川へ移り、さらに東へと領土を拡大した。また同じ年にイリュリア、パイオニアと同盟を結んでいたケトリポリスは敗北 を喫してフィリッポスに服属し、トラキア西部がフィリッポスの勢力下に入っていった。さらにトラキア王の一人ケルセブレプテス と同意に達したフィリッポスはアマドコスの支配領域にある沿岸部の都市マロネイアとアブデラを攻撃した。

    前352年にはケルセブレプテスに 対する遠征がおこなわれた。しかしトラキアのヘライオンテイコスという拠点を包囲している最中にフィリッポス自身の病気もあ りやむなく引き返すことになった。この遠征と関連すると考えられる史料として、アテナイとフィリッポスが前346年に和平を結ぶ際に アテナイからマケドニアへ使者が送られたが、ペラに到着したアテナイの使者たちの目にケルセブレプテスの息子が人質としてそこに いる様子を記した史料がある。この史料がはたしてどの程度信用できるのか難しいところであるが、遠征途上でフィリッポスが病気 になったために引き返したからといって、この遠征が何も成果ももたらさなかったと結論づけることは早計ではないかと思われる。 恐らくケルセブレプテスはマケドニアの従属的な地位におかれたのであろう。

  • 王国東部への拡大(4):オリュントス陥落
  • その後紀元前349年にフィリッポスはカルキディケー同盟の中心であるオリュントスへの攻撃を開始した。ポテイダイアを獲得 した後カルキディケー人国家も領域の拡大,経済的な発展を遂げており,自らの勢力を拡大する上でマケドニアの存在が邪魔なものと なっていったため,フィリッポス不在の折を見計らってアテナイと和平を結び,さらに同盟を結んでフィリッポスに対抗しようとした のであった。しかしフィリッポスは病から回復すると今度はオリュントスを中心とするカルキディケー同盟に対して遠征を行った。 前351年の遠征はあくまでカルキディケー同盟に対する警告の意味が強いものであった。

    この遠征の後にオリュントスにおいて政治的 な変化があったようである。フィリッポスから直接の威嚇をうけたことでフィリッポスとの同盟関係を維持するか,アテナイと同盟し てフィリッポスに対抗するかを巡って内部で政治的な混乱がおこったようである。しかし最終的には彼らはこの遠征ののち,戦争が始 まる紀元前349年の時点ではフィリッポスの亡命王族の引き渡し要求を拒否したことからも明らかなように、フィリッポスに対抗する という選択を下したのである。

    フィリッポスの父アミュンタス3世には2人の妻と6人の息子がいた。エウリュディケーから生まれた子がフィリッポスと 長兄アレクサンドロス2世,次兄ペルディッカース3世であった。もう一人の妻ギュガイアからアルケラオス,アラバイオス, メネラオスの3人の子をもうけた。ここにでてくる継母の子とはアラバイオス,メネラオスのことである。年代は不明で あるが、アルケラオスはフィリッポスに処刑され、アラバイオス、メネラオスの兄弟はカルキディケーへと亡命していた。 そしてフィリッポスは2人の引き渡しを要求し、それを拒否されたことを口実にカルキディケー半島へと侵攻したのである。

    そしてカルキディケー同盟の中心であったオリュントスに対しては激しい攻撃が行われた。20世紀前半にアメリカの調査隊に よって行われたオリュントスの発掘により、遺跡からはマケドニア軍の投擲弾や鏃が多数出土し、オリュントスの家には激しく 焼けたり破壊された跡もある事が明らかになっている。また、オリュントス戦においてフィリッポスは軍事力で強引に攻め続け るのみならず、オリュントスの有力者を買収することによりオリュントスの力を落とすことも実行した。買収工作の結果 エウテュクラテスとラステネスという指導者が買収され、彼ら2人と騎兵500騎が買収されて寝返ったという。

    アテナイも弁論家デモステネスが3度にわたるオリュントス救援演説を行った結果ようやく重い腰を上げて援軍を送ろうとした。 しかし援軍は結局間に合わず、前348年にオリュントスは陥落し、町は破壊された。そしてカルキディケー半島がマケドニア領 となったことによって、マケドニアには広大な農地が手に入り、この地域にもマケドニアからの入植が行われたのであった。 アレクサンドロスの東征軍の中にはカルキディケー半島のアンテムス、アポロニアから編成されたヘタイロイ騎兵の存在がみられる し、東征軍の指揮官の一人で、のちに東征中止を促す演説をおこなうコイノスの一族がカルキディケー半島に土地を与えられて いたことを示す碑文も存在する。フィリッポスは新たに獲得した土地の開発を進め、マケドニアの国力はさらに増してゆくことに なるのである。

  • 王国東部への拡大(5):トラキア制圧、そしてさらに東へ
  • その後、フィリッポスは前346年にトラキアへの遠征を行い、ケルセブレプテスの本拠地ヒエロンホロスを攻略してケルセブレプテスを 屈服させた後もトラキア各地の要地を攻略してトラキア方面へマケドニアの勢力を拡大していった。そしてトラキア征服の総仕上げとも いうべき前342年から始められた遠征によりオドリュサイ王国はマケドニア王国に征服され、342〜40年の遠征でオドリュサイ王国 の王政は廃止され、トラキアにもマケドニアにより都市が建設されて住民の入植が行われた。この地域に関してはマケドニア人の「将軍」 の管轄下におかれたのであった。

    オドリュサイ王国征服後もフィリッポスは東方への進出を続けたが、この動きに警戒心をつよめたのがこの地域のギリシア人諸都市 の中で有力だったペリントスとビュザンティオンである。彼らはフィリッポスのトラキア征服以前は友好的であったが、フィ リッポスの支配下にはいることは自治に関しても様々な制限が加えられることになり、それを好まなかったためである。フィリッポ スはペリントスとビュザンティオンに対して前340年に遠征を行い、両市を屈服させようとした。激しい攻城戦が行われたが両市の 抵抗は頑強であり、さらにアテナイ、ペルシア、周辺のギリシア人都市の支援もあり、フィリッポスは撤退を余儀なくされた。

    なお、これらの都市はカイロネイアの合戦後はマケドニアに従うようになり、アレクサンドロスの東征にも協力しているが、この段階 ではマケドニアには従わなかったのであった。フィリッポスの野心はトラキアにとどまらず、前339年にはスキタイに対する遠征も 行われ、数多くの馬や捕虜を得たという。ただしそのほとんどは帰国途中にトラキア系トリバッロイ人との争いで失われたという。 オドリュサイの他にもトラキア系の勢力は存在し、そうしたトラキア系の人々はいまだ自治独立を維持していたのであった。


  • 王国西部への拡大(1):上部マケドニアの統合
  • 王国西部では従来は王権から自立傾向にあった上部マケドニア諸国の統合、イリュリア人との関係、エペイロスとの関係について 考察する必要がある。マケドニア王国は沿岸地方、ハリアクモン、アクシオス両河の沖積平野一帯の低地を支配する王国であった がこれに対して王国西部・西北部の山岳地帯である「上部マケドニア」はリュンケスティス、オレスティス、エリメイア、テュン パイア、エオルダイアなどの地域が存在していた。これらはそれぞれの地域名にその名を残す部族集団が支配している小王国であ った。

    これらの国々は低地のマケドニア王国の支配に対して、名目的には臣従していたがその関係はきわめて不安定であった。特 に最北端のリュンケスティスはペロポネソス戦争の時からイリュリア人と同盟してペルディッカス2世と敵対し、彼の軍勢を撃退 したこともある。これら上部マケドニア諸国とマケドニアの関係は、同盟や通婚などによる結びつきをかろうじて維持していた。

    これらの地域がマケドニア王国に統合されたのはフィリッポス2世の時代である。フィリッポスがマケドニア王国を発展させるた めには上部マケドニア諸国を王国に統合する必要があったのである。この地域の王国への統合は前358年にフィリッポスがバルデ ュリスを打ち破り、さらに余勢を駆ってリュクニティス湖(いまのオフリト湖)まで進出した頃にマケドニア王国に統合された。 ただし、上部マケドニアからアテナイに亡命した人々もいたように統合の歳には抵抗もあったらしく、そのため、王国への統合は かなり強権的なやり方を取らざるを得なかったようである。

    王国への統合後、上部マケドニアにも都市が多数建設されそこに今ま で牧畜に従事していた人々を移住させた。都市を建設してこの地域の開発を進めていったのである。これにより上部マケドニアも マケドニア王国の一部として発展していくことになる。また辺境地域の防衛にも力を注ぎ、辺境に砦を築くなどして備えていった。 こうして王国に組み込まれた上部マケドニアの出身者はアレクサンドロスの部将や取り巻きに多数見られるほか、密集歩兵部隊と しても多数集められた。

  • 王国西部への拡大(2):イリュリア人との絶え間なき戦い
  • 一方上部マケドニアを王国へ統合する過程でフィリッポスはイリュリア人と激しく争った。イリュリア人は紀元前4世紀前半 よりマケドニア王国を脅かす存在であり、フィリッポスの父アミュンタス3世は彼らにより一時王国を追われ、帰国後もこれに貢納せ ざるを得なかったという。また兄アレクサンドロス2世もイリュリア人に対しては貢納により平和を維持しようとした。そして次 兄ペルディッカス3世はイリュリア人と戦って戦死した。

    このような難敵イリュリア人に対してフィリッポスは戦いを挑み、イリ ュリア人の指導者バルデュリスを打ち破り、彼らに占領されていた地域を奪回した。その後も前356年にイリュリア人のグラボスが パイオニアやトラキアと同盟を結んで対抗した時にも打ち破った(このときにイリュリア人と戦った指揮官はパルメニオンであり、 フィリッポス自身はポテイダイアを攻めていたといわれている。アレクサンドロス誕生の情報とイリュリア人に対する戦勝の知らせ がほぼ同じに来たとプルタルコスは伝える)

    さらに前350年前後にもマケドニアとイリュリア人との間での争いが発生したといわれ、前345年にはバルデュリスの息子クレイトス と戦いこれに大勝、その後前344/3年にはプレウラトス王率いるアルディアイ人(イリュリア系?)を破った。後者との戦いではヘタイ ロイ騎兵150が負傷しフィリッポスも右ふくらはぎを負傷したという。ただしこの時の遠征で勝利して多くの都市を征服し、戦利品を獲たという。

    このような遠征を行う一方で、国境線に砦を築いて防衛に努めたということも知られている。王国の国境線地域の安全確保はマケド ニア王権の安定にとっても重要だったためである。しかし度重なる遠征の後もイリュリア人との争いは続いたという。前337年には プレウリアス王と戦っており、さらにイリュリア人との争いはフィリッポスの死後もみられ、前335年にはアレクサンドロスがクレイトス 王に対し遠征を行いこれを屈服させている。

  • 王国西部への拡大(3):エペイロスとマケドニア
  • このような西方の脅威に対する対抗策の一つとして、エペイロスとの同盟、衛星国化があげられる。エペイロスとマケドニア にとり共通の脅威はイリュリア人であった。これに対抗するためにも同盟が必要だったのである。前357年、王アリュバスが自分の 姪オリュンピアスをフィリッポスに嫁がせた。マケドニアにとってイリュリア人の牽制、エペイロスと関係の深い上部マケドニア諸国 の懐柔のために必要なことであった。

    その後フィリッポスの勢力は拡大していくが、それに不安を覚えたアリュバスがフィリッポス がテッサリア、トラキアへの遠征を行っている頃にアテナイに接近しようとした。これに対して前350年代末にエペイロスに軍事介入 し、オリュンピアスの弟アレクサンドロスがこのころに人質としてマケドニアにつれてこられた。そして前343/2年にエペイロスに遠 征してアリュバスを追放し、アレクサンドロスを王に据えたのであった。こうしてフィリッポスはマケドニアとエペイロスの関係を 強化した。その後フィリッポスとオリュンピアス、アレクサンドロス(後の大王)が不和になったときにオリュンピアス・アレ クサンドロス母子がエペイロスに引きこもるなどの動きも見られた。

    このようにしてフィリッポスは王国西部を安定させていった。上部マケドニアは王国の一部として統合し、国土の開発を進め、国境 の防衛を強化してイリュリア人に対抗し、エペイロスを自らの勢力圏の中に納めていった。これにより王国西部の情勢はフィリッポス 以前の時代と比べると格段に安定し、発展していった。フィリッポスにより領土に組み込まれた上部マケドニアは以後マケドニアの 人的資源の供給源として重要な役割を果たしていくのである。


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