王国の再建

  • 即位直後の状況
  • フィリッポス2世が紀元前359年夏に即位した当時、マケドニア王国は周辺に様々な敵を抱えていた。まず、 兄のペルディッカス3世を敗死させたバルデュリス率いるイリュリア人は余勢を駆ってマケドニアに侵攻し、 西部の上部マケドニアを占領していた。また北方ではバルカン半島に存在した民族の一つパイオニア人が領土を 窺っていた。さらに王位を狙う僭称者も現れた。長年にわたりアンフィポリスを奪回しようと試みるアテナイは かつてマケドニア王位を狙った王族アルガイオスを支援し、紀元前367年にマケドニア王位を狙って侵攻した王族 のパウサニアスがトラキアの支援を受けて王位を狙った。このように当時のマケドニアはきわめて危険な状況に あったのである。では、フィリッポスはこの状況をいかにして乗り切ったのであろうか。

    まず、イリュリア人に敗北して意気消沈しているマケドニア人たちを前にして彼らを鼓舞する演説を行いい、 さらに軍制改革に着手し編成を強固なものとし、適切な武器を兵士に装備し、軍の訓練を行うことにより、マケド ニア軍を強化していった。王位を狙う僭称者たちに対してはそれを背後から支援するアテナイとトラキアに手を 引かせるべく手を打った。

    まず兄ペルディッカスが駐留させていたアンフィポリスの守備隊を撤退させ自治を与え、 パイオニア人とトラキアに対しては使者を派遣し贈り物や寛大な約束で説得して和平を維持したり僭称者への支持 をやめさせた。さらにアテナイの支援を受けて侵攻してきたアルガイオスとアテナイの軍隊を打ち破った。その後 アテナイ人の捕虜を返還し、アテナイとの間にアンフィポリスの帰属をフィリッポスが要求しないことを条件に和 平を結んだ。こうしてアテナイとの戦争を回避した後、フィリッポスは脅威となっていたパイオニア人、イリュリ ア人に対し戦いを挑むことになる。


    マ ケドニア王国西部
    上部マケドニア諸国はこの地において低地の
    王国から半ば自立した国家として存在した。
  • 北方諸民族との戦い
  • ちょうどそのころパイオニア人の王が死んだ時、それを好機ととらえたフィリッポスはパイオニア人と戦って 勝利し、彼らをマケドニアに服属させた。そして残る強敵イリュリア人に対しても戦争を仕掛けた。この時に彼が 率いた軍勢は歩兵10,000人、騎兵600騎という陣容であった。当初イリュリア人の王バルデュリスはフィリッポスに 現状維持での和平を提案してきたがフィリッポスはそれを拒否し、イリュリア人との戦闘に突入した。イリュリア人 の軍勢は歩兵10,000人、騎兵500騎でありマケドニア軍とイリュリア軍の戦闘は熾烈を極めた。

    フィリッポス自身は 右翼を指揮していたが、騎兵に側面攻撃を命じ自らは正面から敵を攻撃した。騎兵を側面へ回り込ませて正面の重装 歩兵で敵を討つというマケドニア軍の基本的な戦い方はこの段階から見られるようになっていたのであった。結局、 イリュリア人は7000人の死者を出して敗北、マケドニアのすべての都市から撤退して和平を結んだ。こうしてフィリ ッポスは長年西部国境地帯を脅かしていたイリュリア人を破り、さらにリュクニティス湖(現在のオフリト湖)の 付近までを領土とした。これにより、長年自立していた上部マケドニアの諸国がフィリッポスの支配下に入ったので あった。


  • 王国の拡大へ
  • イリュリア人を打ち破り、彼らの占領していた王国西部地域を奪回したフィリッポスはこれらの地域の安定と開発 に乗り出すことになる。まず上部マケドニアのエリメイアの王族との政略結婚で関係を強化した。またこの地域を王国 に編入し、そこに暮らす牧畜民を都市へと移住させていった。上部マケドニアの住民をこれ以後マケドニア軍の人的資源 として活用すべくそのようなことを行ったという。

    また、フィリッポスの領土拡大の動きは西方にとどまらず東部、中央部にも及んでいる。まず東部では長年独立した 都市であったアンフィポリスを征服した。前357年にアテナイが同盟市戦争を戦っている最中にアンフィポリスに攻撃を 仕掛けこれを攻略した。攻撃中にフィリッポスとアテナイの間で密約が交わされアンフィポリスをアテナイに譲渡する かわりにピュドナをフィリポスに譲ることが取り決められたとも言われているアンフィポリス攻略によりマケドニアは 東方への拡大の拠点を手に入れた。さらに前360年代にアテナイが占領していたピュドナを前357年末に攻略し、支配下 に置いた。これらの都市は支配体制は残されたが没収された土地財産はマケドニア人の間で分配された。

    さらにカルキディケー半島にあったオリュントスと同盟を結び、ポテイダイアという町を攻略することに同意した。 オリュントスにとり、フィリッポスとアテナイのどちらにつくかということはきわめて微妙な問題をはらむものであり、 以後このポリスは周辺事態への対応を巡って苦慮することになる。ポテイダイアは包囲戦の末に前356年に陥落し、アテ ナイの守備隊や植民者は本国へ返されたが住民や財産はオリュントスに譲り渡した。一方、ポテイダイア包囲中にイリュ リア人、パイオニア人、トラキア人が連合を組みフィリッポスを脅かしたがフィリッポスに派遣されたパルメニオンの 軍勢により打ち破られた。

    また、同じ頃にタソスの対岸にあるクレニデスの町がトラキアに脅かされ、フィリッポスに 救援を求めた。フィリッポスはそれに応じてクレニデス救援に向かい、トラキア東部オドリュサイ王国のケルセブレプテス のトラキアの軍勢を打ち破った。その後ポテイダイア陥落後にこの年の名前をフィリッポイに改めた。フィリッポイの 背後にはパンガイオン鉱山があり、そこでとれる鉱物資源はマケドニアの重要な収入源となっていった。またフィリッポイ 周辺の沼沢地の感慨や鉱山の生産力増大、植民者の扶養、都市の建設が進められ、これは国内開発の一つのモデルとなって いったという。

    そして紀元前355年にアテナイのエーゲ海北岸の拠点の一つとなっていたメトネの包囲を開始し、翌年にこれを陥落 させた。メトネの町は破壊され、土地はマケドニア人の間で分割された。こうしてフィリッポスは即位してから数年のうちに 周辺の脅威となるものを取り除き、領土を拡大し、後の王国発展の基礎を築き上げていったのである。一方、このような 領土拡大の過程で周辺諸勢力との争いも増えてゆき、とくにアンフィポリス、ピュドナ奪取によりアテナイはフィリッポスに 宣戦、以後長きにわたりアテナイとフィリッポスがエーゲ海北岸で対立していくことになる。


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