若き日のフィリッポス2世


  • フィリッポス2世の誕生
  • 紀元前336年、マケドニアの古都アイガイの劇場にて、白昼堂々一人の若者が舞台上で隻眼跛行の男の胸に短剣を突き たてた。短剣で胸を刺し貫かれた男はその場で死亡、刺した若者は逃走したが追いつかれて殺害された。これがマケドニア を強大な国家に育て上げ、さかのぼること2年前にギリシア中部カイロネイアの地でアテナイ・テーバイ連合軍に完勝し、 ギリシア世界の覇権を握った男の最期であった・・・・。

    以上が紀元前336年におこったマケドニア王フィリッポス2世暗殺の一部始終である。アイガイで暗殺者の凶刃に倒れた 時フィリッポスは王国を24年統治し、享年は47歳であった。「ヨーロッパは未だかつてこのような人物を生み出したことは なかった」と当時の史家をして言わしめたフィリッポス2世は紀元前382年にマケドニア王アミュンタス3世とその妻エウ リュディケーの3番目の息子として生を受けた。エウリュディケーの出自は上部マケドニアのリュンケスティス王家とする 説もあればイリュリア人であるとする説もあり、はっきりとしたことは不明である。しかしいずれにせよアミュンタス3世 が王国の西方・北方を守るためには必要な結婚であった。

    そしてエウリュディケーからはアレクサンドロス、ペルディッカス、 フィリッポスの3人の息子が生まれた。アミュンタス3世の時代はマケドニア王国は極めて不安定な時代であり、苦しい国家 運営を強いられていた。エウリュディケーについては、夫のアミュンタスを暗殺しようとしたという伝承や自分の息子である アレクサンドロス、ペルディッカスを暗殺したという伝承まで残されているが、これは極めて疑わしい伝承である。

    しかし 彼女はマケドニアの歴史で名前以外の事柄も様々に伝えられている最初の女性であり、独立した人格と意志を持った女性と して現れている。彼女が老いてから子供のために学問をしてムーサイの女神に捧げる立派な詩まで作ったという伝承があるが、 アイガイの発掘で出土した神像の台座に彼女が奉納したことを示す銘文がのこされている。また、王族パウサニアスが王位に 挑戦してきたときにアテナイの将軍イフィクラテスに援助を求めてこれを撃退したという。

  • 人質として
  • 少々話がそれてしまったが、このような母親の元に生まれたフィリッポスであるが、彼の少年時代はきわめて困難な状況 にあった。紀元前368年にマケドニアからテーバイに人質が送られているが、その中にはフィリッポスもいたという。テーバイ での人質生活は3年に及び、紀元前365年まで当時ギリシア世界の覇権を握っていたテーバイにいたことがこれ以後のフィリッポス に大きな影響を与えた。

    人質生活中、フィリッポスはおそらくテーバイで厚遇されたと考えられる。もしマケドニアで何かあった 場合には、彼を王とすることでテーバイはマケドニアに影響力を及ぼすことも出来たであろう。当時のテーバイは名将として 名高いエパメイノンダス、ペロピダスの指導下にありギリシアで強大な力を誇っていた。伝承によってはエパメイノンダスと ともに教育を受けたというものもあるが、年齢的にみてそれはかなり無理がある話である。しかしフィリッポスの戦術には彼 の影響が強く見られるということから、それなりの影響は受けたのであろう。

    多感な少年時代をテーバイという当時最盛期を 迎えていた都市でパンメネスという政治家の家に預けられて過ごしたことで、政治や外交の実態を見、テーバイの軍事技術や 戦術を学び取っていったのであった。

    フィリッポスの人質生活は3年間にわたり、紀元前365年、兄のペルディッカス3世が 王として権力を確立したマケドニアへと帰ってきた。そして紀元前359年夏、ペルディッカス3世がイリュリア人相手に戦争を 仕掛けて大敗し、自らも戦死したのちにフィリッポスは弱冠23歳で王となるのである。


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