ギリシア世界との交流

  • ペルシアからギリシアへ 〜アレクサンドロス1世〜
  • 紀元前6世紀末頃には領土をかなり拡大していったマケドニア王国であるが、やがて外部の世界との交流を様々な形で持つ ようになる。紀元前5世紀初頭のペルシア戦争の時にはマケドニアはペルシアに臣従し、王自ら軍を率いてギリシアに攻め 込んでいる。マケドニアがいつの時代にペルシアに臣従したのかということに関しては、ヘロドトス「歴史」が参考になる。 ヘロドトスがマケドニア王国を訪れ、そこでアレクサンドロス1世と直接か意見する機会があったことはほぼ間違いない事実と され、彼の「歴史」のマケドニアに関する記述の情報源はアレクサンドロス1世であると考えられている。では、どのような ことが書かれているのか。

    まず、ペルシアの臣従要求に国王アミュンタス1世が応じたことに対して送られてきたペルシアの使節の無礼な振る舞いに 怒った王子アレクサンドロス(のちのアレクサンドロス1世)が使節を皆殺しにしてしまった話(「歴史」5巻17〜22節)、 第一次ペルシア戦争に際して行われた将軍マルドニオスの遠征の記述(「歴史」6巻44節)、第二次ペルシア戦争のクセルクセ スの遠征に関する記述(「歴史」7巻108節)、アレクサンドロスの妹に関する記述(「歴史」8巻136巻)である。

    これらの記 述から、アミュンタス1世の時代にペルシアの有力者に娘を嫁がせるなど友好関係を早くから作っていたが、アレクサンドロス 1世の時代にペルシアの遠征を受けて臣従するようになったと考えられている。ペルシア使節殺害事件の記事の内容をそのまま とるとアミュンタスの段階で臣従したような印象を受けるが、上記に掲げた他の記述と照らし合わせると極めておかしな内容で あり、この部分はおそらく創作がかなり含まれていると考えられる。第一次ペルシア戦争でペルシアの遠征軍が来るまでマケ ドニアはペルシアと友好関係を築いているが、ペルシアに臣従していなかったようである。しかしアレクサンドロス1世はペ ルシアに臣従し、ペルシア戦争では自ら軍を率いて遠征軍に参加した。

    しかしペルシア戦争はペルシアをギリシアが撃退し、ギリシアの勝利に終わった。そしてそれとともにアテナイを代表とする ギリシアのポリス世界の力が強まっていく。このような状況の中で、マケドニアはギリシアとの友好関係を重視する方向へと方針 を変更していった。ペルシア戦争当時からマケドニアはペルシアに臣従しつつも、アレクサンドロス1世がアテナイのプロクセノ スをつとめていたように、ギリシア世界との関わりはある程度存在していた。そしてペルシア戦争後にギリシア世界、特にア テナイが力を強めてくると、ギリシア世界と以前以上に密接な関係を築いていくことが必要になったためであろう。そして、ギリ シア重視への方針変更もアレクサンドロス1世の時代に起こったことである。

    ヘロドトスにはペルシア戦争中のアレクサンドロス1世の行動を記録した箇所がいくつか見られ、ペルシア、ギリシア双方との 関係を損なわぬように注意を払って独自の行動を取っている様子が書かれている。テンペ峡谷でのギリシアへの警告(7巻173節) やボイオティア侵攻(8巻34節)の記述、ペルシアの意向を受けつつギリシアに配慮していることをアピールしたアテナイへの使節 (8巻136節、140節)の記述などはそれを示している記述である。また、プラタイアイの戦い直前にアレクサンドロス1世が単身 ギリシアの陣営にやってきて演説を行っている記述があるが、そこで彼は自分がギリシア人であるということをしきりと強調している。 さらにオリンピア競技会への参加を要求し、アルゴス出身家計であることを主張して参加を認められたという記述もある。この2つに 関しては、アレクサンドロス1世が作った物語を彼から聞いたヘロドトスがそのまま記録したものであると考えられている。

    アレクサンドロス1世が自分とギリシアのつながりを声高に主張する物語の創作を行った目的としてはギリシア世界との関係を 強めていくためであると考えられている。王家のアルゴス起源説などの様々な物語がこのころに作られ、それらの物語をおそらくアレ クサンドロス1世から聞いて「歴史」に記録していったとされるヘロドトスはそれらアレクサンドロス1世のプロパガンダをはか らずも広めてしまうことになった。紀元前5世紀前半、ペルシアとギリシアの狭間において、アレクサンドロス1世はギリシア世 界との結びつきを強めるという方針を選択し、ギリシア世界に入っていこうとしたのであった。

    ちなみに、アレクサンドロス 1世とアテナイのつながりに関してであるが、これに関してはマケドニアの森林資源が重要な役割を果たしたと考える説が出され ている。マケドニアは木材資源、鉱物資源の豊かな地であり、紀元前482〜480年頃に当時建艦のために木材を必要としていたアテ ナイにアレクサンドロス1世が木材を提供したことによりプロクセノス、善行者として扱われるようになったというものである。 ただし、ペルシア戦争の後、王国東部のストリュモン川以東およびこの川の流域へ進出しようとするアテナイとマケドニアの間で 対立が起こってくるのであるが・・・。

    このようなギリシア世界とのつながりを強化していったことの他に、アレクサンドロス1世の時代にはクレストニアの鉱山から とれる銀で銀貨の製造を開始したこと、領域を拡大し、エーゲ海北岸の一大勢力としてマケドニアを確立させたことなどが取り上 げられる。アレクサンドロス1世はペルシアとギリシアの狭間という難しい立場にありながら、王国発展の進路をギリシアとの結 びつきの中に見いだし関係を強めつつ、領域拡大、貨幣鋳造などの事業をすすめてマケドニアを発展させていったのであった。

  • 荒波に耐えて 〜ペルディッカス2世〜
  • アレクサンドロス1世がいつなくなったのかはよく分かっていない。ヘロドトスもアレクサンドロス1世の治世のすべてを扱って いるわけではなく、トゥキュディデスもそう言ったことは書き残していない。その死に関しての記録は疑わしいものしか残されて いないが、紀元前454年頃にアレクサンドロス1世が亡くなったとする説が有力なようである。彼には王子が何人かおり、その中の 一人がペルディッカス2世であった。彼の治世は紀元前454年から414年頃とされる。この時代のマケドニアの様子については詳し いことは史料状の問題から分からぬ事が多く、断片的な史料から推測するしかないようである。

    彼が王になる前後の時代、エーゲ海北岸ではアテナイの力が強まってきていた。デロス同盟加盟ポリスはアテナイに貢納を 行っており、そのリストが残されているが、その中にエーゲ海北岸のポリスの名前がいくつも見られる。アテナイはすでにア レクサンドロス1世が生きている時代からエーゲ海北岸のタソスはエイオンといった都市を勢力下に置いていたが、紀元前450年代 後半になると、テルマイ湾の北岸・東岸を押さえていった。そしてこの地域をに進出したアテナイはマケドニアにも圧力をかけて いった。さらに紀元前440年代半ばにはマケドニア東部のストリュモン川流域にも勢力を伸ばしていった。

    アテナイがこの地域 に進出できたのは、マケドニアの同地域に対する支配権が弱かったことと関係してくる。この時代のマケドニアは後の時代と 比べると未だ国力は低かった。そして紀元前437/6年、アテナイはストリュモン川下流の交通の要地エンネア=ホドイ(9の道) のそばにアンフィポリスを築いた。アテナイは紀元前460年代にエンネア=ホドイを押さえようとして失敗したことがあったが、 今回の試みは成功した。そしてアテナイが交通の要所を押さえて以降アンフィポリスは発展していった。

    マケドニアがこれにどう反応したのかということははっきりとしたことは分からないが、おそらくアンフィポリス建設を自国に対する 脅威と見なしたのではないかと思われる。ペルディッカス2世とアテナイの関係は、紀元前446/5を境に関係は悪化していったと 考えられる。この年、アテナイに反乱を起こし、圧迫されたエウボイアからの亡命者をマケドニアに受け入れたことやアンフィポリス 建設で両者の関係は友好関係から敵対関係へと変わっていった。

    ペルディッカスとアテナイが敵対するようになったとき、アテナイはペルディッカス2世の兄弟フィリッポスとエリメイア(上部 マケドニア)のデルダスを支援した。マケドニアには王位継承に関するルールは特に定められておらず、王位継承を巡り争いが起こる こともしばしばあった(後の時代の出来事を考えてみよ)。アテナイはそれを起こしたわけではないが、それを利用していったので ある。

    アテナイはフィリッポスを支援し、さらにトラキアとも友好関係を築きながらストリュモン川流域など、エーゲ海北岸地域で 勢力を広げようとしたようである。エーゲ海北岸で勢力拡大を図るアテナイに対し、マケドニアの領域と自らの王位を守らなくて はいけなくなったペルディッカス2世はこの後複雑な外交を展開することになる。


    マ ケドニア東部、カルキディケー半島

    そして、ペルディッカス2世の複雑な外交はペロポネソス戦争の間を通じて展開されていく。まず、ペロポネソス戦争の 発端となるコリントスの植民市ポテイダイアをめぐるコリントスとアテナイの争いが起きたときペルディッカスはポテイダイアを攻 めるアテナイと戦うことになった。ポテイダイアおよびカルキディケ半島の諸ポリスを支援したのである。

    その際、海岸の住民を オリュントスへと移住させ、その守りを固めることにした。その後オリュントスはマケドニア最大の脅威となるが、その発展 にマケドニア王国の協力があったことは皮肉である。その後紀元前432年にアテナイがピュドナを包囲中に一時和解するが、その直後 に再びアテナイから離れポテイダイア・カルキディケー半島側についた。

    翌年の前431年にペルデッィカスは再びアテナイと和解し、アテナイに奪われていたテルメの町を返還され、かわりにカルキディケを 攻撃している。紀元前431年のアテナイはトラキアと同盟し、マケドニアと和解することでエーゲ海北方の2大勢力を味方につける ことに成功した。

    しかしトラキアとマケドニアの間でこの後何らかのトラブルがあったらしく、紀元前429年にトラキア(オドリュサイ人) 王シタルケスがマケドニアに侵攻した。この直前にペルディッカス2世はペロポネソス側を支援する動きを見せたことから、アテナイ はマケドニアと対立し、トラキアを支援した。しかしトラキアはマケドニアに侵攻して都市をいくつか征服したが、アテナイがトラキア を積極的に支援せず、マケドニアもトラキアの別の王族セウテス(シタルケスの甥)を味方につけ、結局シタルケスはマケドニアから 退いた。

    その後、紀元前420年代前半は極めて不安定ながら争いはなかったが、ペルディッカス2世は紀元前424年にカルキディケ半島の諸 ポリスやスパルタのブラシダスと同盟を結んだ。ブラシダスとの同盟には当時西部で脅威となっていた上部マケドニアとの争いが絡んで いるといわれ、ブラシダスのアンフィポリス攻略に彼も協力した。しかし上部マケドニアを巡る問題でブラシダスが思ったような動 きをしないのを見て取ると彼は再びアテナイに接近し、紀元前423年頃に再び手を組んでいる。その後は状況は安定していたのだが、 紀元前417年頃にアテナイが北方で脅威になってきたために再びスパルタと手を組んだかとおもうと、紀元前414年までの間に再び アテナイ側についている。

    このようにペルディッカス2世は様々な勢力と同盟を組んだり離反したりという動きを繰り返している。このような行動が可能と なったのはマケドニアがアテナイが海上支配を展開するには大きすぎかつ、遠く離れていると言うことも関係する。そしてギリシア内 部の対立を利用しながら自国の安全を守ろうとしたのであった。その際大きくものを言ったのはマケドニアが木材という戦略物資 を持っていたことである。アテナイは自国の海軍に必要な木材をマケドニアから供給していた。北方への進出を繰り返したのも 木材の供給を安定させるためであった。アテナイが戦争を遂行するために木材を必要としている状況をうまく利用しながら、ペル ディッカス2世はマケドニア王国の独立を維持していったのであった。

  • ギリシア文化の愛好者 〜アルケラオス〜
  • ペルディッカス2世の後、マケドニアの王位についたアルケラオスについて、プラトンの「ゴルギアス」ではアルケラオスは女奴隷 の子で庶子として扱われ、不正に王位についたと言われている。しかしアテナイとマケドニアの間の紀元前423年の協定をみると、アル ケラオスはペルディッカス2世、アルケタス(ペルディッカスの兄弟)の次に名前が挙げられている点から、マケドニア人の間でのア ルケラオスの地位はかなり高いものであると考えられる。

    また、アルケラオスより先に名前の挙げられているアルケタスであるが、ペル ディッカス2世がポテイダイアに遠征中に国内のことを彼には任せていない等、国内での地位に関しても不明な部分が多い。また、マケ ドニア王国で長子相続が確立されていないことやマケドニア王の結婚が一夫多妻制であることを十分に理解できぬままにプラトンが奴隷 の子、不正な王位継承と書き連ねた可能性が極めて大きい。少なくともいえることは、ペルディッカス2世の死後、アルケラオスが 王として即位するためには他の有力なライバルたちを排除して自らの王位を安定させる必要があったということである。

    このようにして王となったアルケラオスであるが、彼の父ペルディッカス2世が巧みな外交を展開して維持してきた王国を引き継ぎ、 王国を発展させていくことになる。彼の治世はおそらく紀元前413年から紀元前399年までのことである。彼が即位した頃、ギリシア世界 では相変わらずペロポネソス戦争が続いていた。しかしアテナイはシチリア島への遠征に失敗し、シチリア島やイタリアから木材を手に 入れることは不可能となった。またアンフィポリスは独立状態であった。こうしたことから、艦隊再建のために必要な木材をマケドニア に頼らざるを得なくなっていった。

    ペルディッカス2世の治世末期にアテナイとマケドニアは和解していたが、アルケラオスとの間でも 友好関係を築いていたようである。紀元前410年、アテナイが当時ピュドナを攻撃中だったアルケラオスに協力し、アルケラオスはピュ ドナを陥落させている。また、マケドニア側もアテナイへの木材提供を行っており、紀元前407/6年にアルケラオスを木材提供の故に顕彰 する碑文がのこされている。こうしたことから、アテナイとマケドニアの間には友好関係が作られていった。しかしアルケラオスの 治世を通じてマケドニアがペロポネソス戦争には積極的に関わっていった様子は見られず、中立を維持していった。

    ペロポネソス戦争には関与していないが、かわりに王国安定のために必要なことであったため、王国西部の上部マケドニア諸部族や イリュリア人との戦いは続けていた。また、戦うだけではなく婚姻による関係強化も進められていった。王国東部ではトラキアが弱体化し、 アテナイがこの地域にそれほど関心を払わなくなっていたこともあり王国東部ビサルティア地方の支配を回復し、鉱山資源を確保し、銀貨 を製造した。マケドニアにとり、鉱山資源と森林資源は王国財政にとり極めて重要な財源であったが、それを確保することに成功したので ある。それによる収入でアルケラオスは国内改革を進めた。また対外的にもテッサリアへ介入し、テッサリアからマケドニアへはいる時の 要地となるペラベイア地方を得た。


    マ ケドニア王国中心部。なお、
    現在よりも海岸線は内陸に入っている。

    一方、アルケラオスの時代はマケドニア王国の発展にとり極めて重要な時代であった。それまでマケドニアでは騎兵、歩兵とも十分な 兵力を集めることは困難であったが軍の整備に取り組み、各地に城塞を建設し、騎兵、歩兵ともに数を増加させ、国内の交通網を整備 したという。また都を今までのアイガイからペラへと移している。ペラはバルカン半島の東西南北のルートを押さえる戦略的に重要な 場所であったこと、また紀元前5世紀の様々な活動を通じてアイガイには不都合な点がみられたことから都が移され、アイガイはこの後宗 教儀礼や埋葬などを行う都市になり、ペラがマケドニアの主要都市として発展していく。

    また、アルケラオスの時代はギリシア文化の 積極的な受容が見られた時代であるが、その活動もペラを主な舞台に展開されていった。まずギリシア人画家ゼウクシスを招き、ギリ シア絵画で屋敷を飾った。さらにギリシアの文化人を多数招き、その中にはギリシア三大悲劇詩人の一人エウリピデスも含まれて いた。エウリピデスはアルケラオスのもとで悲劇を書き、その他にパトロンである彼をたたえてマケドニア建国伝説を書いた「アルケラオス」 という劇も残している。エウリピデスは紀元前406年にペラにて亡くなっている。ただしその死に関しては、アルケラオスの猟犬にかみ殺 されたという話も伝わっている。また、ソクラテスも招かれたと言うがソクラテスはマケドニアにはやってこなかった。さらにオ リュンポス山の麓のディオンの町にてオリンピックに倣った独自の祭典を行いはじめ、運動競技の他演劇も含む祭典を行ったという。

    このようにアルケラオスの時代にはギリシア文化の積極的な受容が行われてきたが、実際にはマケドニア人の社会がこれにより大き く変わると言うことはなかった。文化の受容はあくまでも文学・芸術の分野に限られたのである。また、アルケラオスの改革がすすめ られたものの、マケドニア王国が王個人の力量によって立つ国家であるという状況は変わらなかった。政治・行政・軍事のいずれの面で もマケドニアはギリシア世界のなかでは遅れた国家であった。このことはアルケラオスが紀元前399年に暗殺された後(同性愛関係のも つれから殺されたらしい)、マケドニア王国が再び混乱に陥ったことからも明らかである。


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