マケドニア王国の成り立ち

紀元前7世紀前半〜半ば頃にピンドス山脈からピエリア平原へと移動してきた人々がマケドニア人である事は既に述べた。彼らがアイガイ(現在のヴェル ギナ)を都とするマケドニア王国を建国することになる。マケドニアの王家の起源はどのようなものであったのだろうか。まずはヘロドトスの「歴史」8巻の 137〜139節で、マケドニア王家の成立と系譜について記述した箇所があり、その内容を述べるところから始めたいと思う。


マケドニア王家の紋章

ペルディッカスの故事にちなんで用いられ
たのであろうか。
「ヴェルギナの太陽(ヴェルギナの星)」と
呼ばれるがヴェルギナ王墓出土の骨壺にこの
紋様が用いられていたためこう呼ばれている。
なお当初現在の旧ユーゴ・マケドニア共和国
が独立した際にこの紋様を国旗として使用し
ようとしてギリシアともめたという。

ヘロドトス「歴史」8巻の該当箇所はペルシア側の使者としてアテナイに派遣されたマケドニア王アレクサンドロス1世から数えて 7代前のペルディッカスがいかにしてマケドニアの王位を手中に収めたのかを説明し、その後のマケドニア王の系譜を書き連ねている 箇所である。それによると、アルゴスの国からテメノスの子孫にあたるペルディッカスと2人の兄(ガウアネスとアエロポス)が上マ ケドニアに逃れてきたという。そこで王に雇われて働いていたが、王妃がパンを焼くたびに(王家が貧しかったため自ら家事をしなく てはならなかったという)、ペルディッカスのパンだけが大きくふくれあがり、王妃からそのことを告げられた王がなにやら容易なら ざる事が起こる前兆として解釈して3人の兄弟を国外に追放しようとした。その時、賃金を要求された王は煙出しの穴から部屋に差し 込む日光を賃金とすると言ったことに対し、ペルディッカスは小刀で部屋の土間にさす日光を隈取り、それを懐中に入れる動作を3度 繰り返し、兄弟そろって国を去った。しかしこの時の動作がやがて王の怒りを買い、追っ手を差し向けられたが、3兄弟は王の追手を のがれ、ミダスの園と呼ばれる場所の近くに住み着いた。そしてここを根拠地として周辺地域を征服していったという。

そしてペルディッカスから数えて7代目がアレクサンドロス1世である。ヘロドトスの記述に従えば、マケドニアの王家はアルゴスに 起源があるということになるのであるが、実はヘロドトスのこの箇所に関してはヘロドトスが伝えていることは真実ではないと考えら れている。まず、この「テメノスの子孫」による建国という伝承はマケドニア人自身による創作であるという。紀元前5世紀、ペルシア 戦争の結果ギリシアが勝利し、マケドニア王国もそのギリシア世界との関わりの中で活路を見いださなくてはならなくなった。

そのため にギリシアとマケドニアのつながりをアピールしたいと考えていたアレクサンドロス1世が王家の家系図を創作し、マケドニア王家の 始祖をヘラクレスに求めた結果、「テメノスの子孫」による建国という伝承が作られたというわけである。ヘラクレスはギリシア神 話最大の英雄といっても良い人物であるが、その子孫たちが故郷であるペロポネソス半島へと帰還したという伝説がある(「ヘラクレイ ダイ」の帰還伝説)。このときに一族の一人テメノスがアルゴスを獲得し、テメノスの子孫ペルディッカスがマケドニアへやってきて マケドニアを支配した、故に自分はバルバロイではなく、アルゴスに起源を持つギリシア人であるという主張が成り立つというわけ である。

ヘロドトス「歴史」の5巻22節ではアレクサンドロス1世がアルゴス人の血統であるという主張してオリンピア競技会への参加を認 められ、優秀な成績を残したという話も残されている。ただし、この話もオリンピア競技会優勝者のリストにアレクサンドロス1世の 名前が見られないことから、アレクサンドロス1世による創作であると考えられている。王家の起源、オリンピック参加など、この ような物語の数々を創作してまで、マケドニア王家はギリシア世界の一員であるということを認めさせようとしてきたのであった。 このほかにマケドニア王家の起源に関してはエウリピデスの劇「アルケラオス」や、ローマ時代の歴史家ポンペイウス=トログス「フィ リッポス史」にみられるデルフォイの神託をうけたカラノスによる建国伝承などもあるが、これらの記述も創作にすぎない。前者は エウリピデスがパトロンであったアルケラオスをたたえるために建国の始祖をアルケラオスにしただけである。後者はヘロドトスの 伝える伝承に名前が見えないことから、ヘロドトスが伝え聞いたアレクサンドロス1世による創作よりさらに後につけくわえられた ものであろう。結局の所、マケドニア王家の起源に関するヘロドトスや他の作家の記述がマケドニアによるプロパガンダ、後世の創作の 産物であると考えるほうがどうも妥当なようである。他に根拠として用いることの出来るものがない以上、マケドニア王家の起源につい てはよく分からないと言うしかないようである。

王家の起源についてはよく分からないが、紀元前7世紀半ば頃にはマケドニア人がピエリア平原のあたりに移住して一つの勢力として 現れてきていたようである。そしてピエリア平原から周辺地域へと拡大していく。そして、マケドニアという一つの王国を作っていく。 この間の拡大の過程についてはトゥキュディデス「歴史」2巻99節に述べられている。それによると、マケドニア人たちは移住してきた ピエリア地方にいたピエリア人たちと争い、これをパンガイオン山の麓に移住させ、ボッティアイアを征服してボッティアイア人をカルキ ディケ半島の方へと追いやった。さらに奥地へと領土を拡大し、エドネス人を駆逐し、エオルドイ人を大多数を殺戮し、追い出したという。 その他、アンテムス、ビサルティアにも進出したという。こうした征服地すべてをまとめてマケドニアと呼ぶようになったという。トゥキ ュディデスの時代にマケドニア領になっていた地域はこのような過程を経て征服されていったという。年代順ではなく地域別に書かれてい るので、どの地域から征服していったのかは分からない。しかし紀元前7世紀半ばから紀元前6世紀の終わり頃にかけて進んだ初期のマケ ドニアの拡大の特徴としてみられることは、彼らが先住民を追い出しながら領土を拡大していると言うことである。そしてこのような 過程を経て紀元前6世紀の終わり頃には東ではトラキア人、カルキディケ半島のギリシア人やボッティアイア人、西では上マケドニアの諸 部族やモロッソイ人と国境を接する一つの王国を作り上げた。


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