「マケドニア人」とは何者か

バルカン半島を南北に走るピンドス山脈、そのあたりに元々すんでいた人々がオリュンポス山北麓のピンドス平原に移動 してマケドニアという国を作ったという。しかし、いつ頃からピンドス山脈から麓のピエリア平原に降りてきて住むようにな ったのか?

現在考えられているところでは、「マケドニア人」がピンドス山脈からピエリア平原に降りて定着するのは紀元前7世紀 前半〜半ばのことであるといわれている。また、青銅器時代の段階ではピエリア地方に「マケドニア人」はいなかったという ことも言われている。青銅器時代のピエリア地方に「マケドニア人」が住んでいたという説は言語学的な根拠と系譜学的な 根拠にのみ基づいている(この2つしか根拠はない)。かつて紀元前1900年頃にインド=ヨーロッパ語族のギリシアへの侵入 以前に「原ギリシア語」とも言うべき言語が既にできあがっていたと言われていた。しかし最近ではインド=ヨーロッパ語族 侵入以前にそのようなものはなく、ギリシア語は、インド=ヨーロッパ語族と先住民が混ざり合った結果、中期青銅器時代か ら後期青銅器時代にかけて成立した言語であると考えられるようになっている。またピエリア地方の住民と北西ギリシアとの つながりなどは不確かである。こうしたことから言語学を用いた説明は現在受け入れられなくなっている。また系譜学的根拠 はヘシオドスの記述(ゼウスの子マケドンがこの地に住んでいたという意味の記述)を元にしているが、この伝承自体が後世 の始祖創造の賜である可能性が大きく歴史的な根拠としては使えない。こうしたことから青銅器時代には、ピエリア地方に 「マケドニア人」はいなかったと言われるようになっている。


マ ケドニア王国

マケドニア人はドーリス系であると良く言われる。ヘロドトスの歴史8巻43節に「ドーリスおよびマケドノイ系の民族 で、エリネオス、ピンドスおよびドリュオピス地方からもっとも遅く(ペロポネソスに)移ってきたものたちである(以上松 平千秋訳を引用)」という記述があることから、青銅器時代後期から暗黒時代ピンドス山脈周辺にて、のちに「マケドニア人」 となる人々とドーリア人と呼ばれるようになる人々の祖先がこの地域に暮らしており、一部は山地から平地へおりていき、一 部は南の方へと下っていったとする説が出されている。様々な証拠に乏しく、具体的にどのようなルートを通ったのか確定する ことは困難であるが、現在では紀元前7世紀前半にピンドス山脈一帯で遊牧生活を送っていたギリシア系民族がピエリア地方や エマティア地方の平原に降りてきたものであるとされている。ピンドス山脈一帯にいた民族の中でピエリア平原などに降りて いったものがのちに「マケドニア人」と呼ばれる人々になり、南へ下って行った人々が「ドーリア人」と呼ばれるようになったらしい。

初期の頃の状況については、仮説段階を出ていないものがおおいものの、マケドニア人は紀元前7世紀前半〜 半ば頃に西部のピンドス山脈一帯にいて遊牧生活を送っていたインド=ヨーロッパ語族が平原に移住してきたもので、ドーリア系 ギリシア人とは近い関係にある人々であるということに関してはおおむね支持されているようである。また、彼らの用いて いた言葉はギリシア語の中でも北西方言群と呼ばれるものであったとされている。言葉によって判断するならば、かろうじて 広い意味でのギリシア人ということにはなるようである。しかし民族系等や言語については分からぬ事がかなり多いということ はあまり変わっていない。


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