線文字Bの発見と解読


1900年、イギリスの考古学者エヴァンスがクノッソスの発掘を開始し、ミュケナイ文明以前の遺跡を発見した。 その時に彼は遺跡から多数の粘土板を発見したが、その粘土板に使われている文字の系統が2つに分類できる ことを発見し、字の形などからみて古い方を線文字Aと名付けた。そして線文字Aから発展した字形を線文字Bと 呼び、これらの文字はミノア文明で用いられたミノア語を表記するために用いたミノア文字であると想定した。

しかし、この文字の解読および古代文明の改名には、エヴァンスによりクレタ島から発掘された粘土板と同じ ような文字を書いた粘土板が大量に発見される 1939年まで40年近い年月を要することとなった。エヴァンスは クレタ島の発掘により多数の粘土板を発見したがそれをほとんど公表しなかったためである。彼は1941年に死 去し、彼の弟子だったマイヤーズによって1952年になって未公表の粘土板文書などが整理されて発表されるが、 クノッソス宮殿発掘から半世紀も経っていた。しかしその間に線文字B史料に関して大きな発見がなされた。 1939年、ギリシア本土のピュロスの遺跡が発掘され、ミュケナイ時代の王宮であることが証明された。そして そこから数百枚の粘土板が出土し、そこに書かれている文字が線文字Bであることが判明した。これにより、線 文字B はクレタ島に限らずギリシア本土でも用いられていたことが判明した。しかし、当初は線文字Bがギリ シア語を書き表したものであるという後に判明する事実は全く考慮されることはなかった。

線文字Bの解読作業は刻文の国語の推定から始められた。また多くの研究者はキプロス文字との類似点からス タートした。或者は様々な古代文字との類似点を発見しようとし、他の者はバスク語とミノア語が近親関係に あるという推定のもとに解読しようとしたが、これらの試みは失敗に終わった。発見者のエヴァンスも解読を 試み、キプロス文字を手がかりとしつつ、ある特定の記号に注目して読み進めようとした。エヴァンスの試み の中には正しいものもあったが、彼自身が線文字Bはギリシア語を表記したものではないというかんがえにと りつかれていたこともあり、解読作業は進まなかった。線文字Bがギリシア語を書いた物だとは思っていなか ったため、それ以上考えを発展させることがなかったためである。またエヴァンス以外の学者も同様の態度を 取っていたために解読は遅々として進まなかった。やがてアメリカ人の自然科学者コーバーによって語形変化 の存在なども確認されるようになるが、それでもなお解読への道のりは遠かった。なお、コーバー自身は本格 的な解読への手がかりを得ることなく1950年になくなっている。

1939年のピュロス粘土板の発見により線文字Bのデータが増えてくると、線文字Bで用いられている記号の表 を作り、記号の使用頻度を整理する事も行われ始めた。アメリカ人の研究者ベネットは新資料を比較検討しな がら、線文字Bの記号集を作成した。それは87の記号からなり、ほとんど誤りのない物であったという。この ように線文字Bで書かれた文書が多く出土するようになり、それを手にすることができる少数の研究者達の努 力により語形変化の発見や記号表の作成が行われたものの、線文字Bの解読は第二次世界大戦後に持ち越され、 その解読はイギリスの建築家マイケル・ヴェントリスによって達成されることになる。彼は14歳の時にエヴァンス の講演を聴いて以来この文字に興味を持つようになり、はやくも1940年にはアメリカの考古学雑誌に投稿して 論文が掲載されている。その後1950年代初頭にこの分野の国際的権威12名に質問状を回すという思い切ったこと を行った。その後も本業の合間を縫って自らの調査研究の過程を20篇の長文の「研究ノート」として刊行しては 同学の士に配布し、批判してもらう事を始めた。

それでは、ヴェントリスはどのようにして線文字Bを解読していったのであろうか。ベネット作成の表より、 線文字Bとして用いられている記号の数は87ほどであるが、これは表意文字と音節記号が混合している物であ ると考えられた。アルファベットにしては多すぎるが漢字のような表意文字としては少なすぎるためである。 またある記号が音節記号として用いられることもあれば表意文字として用いられることもある。そのような文 字である線文字Bだが、ヴェントリスはこれを「格子」にしていった。「格子」を作るという方法自体はヴェ ントリス以前にコーバーが行っていたが、ヴェントリスはより多くの史料を基に格子を作り、解読を進めてい くことになる。ヴェントリスは文書の最後に出てくる「総計」を示す形に2つの物があることから、語尾変化が ある言語であり、さらに男女の性別があると論じた。そして語末の母音で性の区別がされるならば母音は異な るが子音は同じであると考え、このような対になる語を多数分析して格子を作り上げたのである。そしてかな りの数の記号を格子の中に位置づけられるようになると、そこから推測して音価を当てはめ解読することが可 能となるというわけである。そして文書の解読を進めていく内に、当初は線文字Bはエトルリア語と関連が あると考え続けていたヴェントリスの中である考えが浮かび、やがて結論としてまとまっていくことになる。 すなわち、この線文字Bを用いて書かれている言葉はギリシア語であるという、今となっては通説になってい るが、当時有力だったエヴァンスはじめとする研究者間の学説とは真っ向から反する考えであった。

粘土板の中から古代ギリシア語の単語と類似した言葉をいくつも見つけ出したヴェントリスであったが、彼自身 は建築家であり、古代ギリシア言語の専門家ではなかった。格子を作成して音価を得て、それを当てはめていくと、 古代ギリシア語の単語は次々に現れたが、それらは綴りは不完全な物であり、なかには語形としてはホメロスの 叙事詩に現れる物より古いもので、みなれない形の言葉が出てきたためである。そして、実際にギリシア語で あるのかどうかを確かめるためには、様々な規則を打ち立てる必要があった。そんなときにヴェントリスは古代 言語の専門家ジョン・チャドウィックと協力するようになったのである。チャドウィックはケンブリッジ大の 講師で初期ギリシア語に関心を抱いていた。ヴェントリスの「研究ノート」に目を通し、その正しさに確信を抱 いた彼はヴェントリスに協力して多くの語形や表記方法の規則を打ち立てた。5つある母音の長短は記されてい ないことや、子音が12あること、母音や子音の省略等々の規則と音価格子について2人がまとめた論文が1953年に 発表された。

この研究は発表当初、批判的な見解を取る人々もいたが、その後解読の正しさがピュロスで1952年に新たに発見 された粘土板によって認められた。粘土板の中には壺の描かれた物がいくつかあり、壺の図形の前後に描かれた 線文字Bにヴェントリスの発見した音価を当てはめてみると見事に解読できたという。また当初疑いのまなざし で見ていた研究者の中にも、別の証拠に描かれた壺の絵とそれに描かれた線文字Bを解読してみると妥当な解釈 として認められることを知り、ヴェントリスの解釈を認めるようになったという。こうしてヴェントリスによる 線文字Bの解読は認められるようになり、現在ではそれを許に粘土板文書が解読されて、ミュケナイ時代の社会 の一端を知ることができるようになっている。

このようにミュケナイ時代の社会を知る手がかりとなった線文字Bは古代ギリシアの専門家の手によってではなく、 一人のアマチュア研究者であるヴェントリスの手により解読された。またヴェントリスの解読にヒントとなった であろう語形変化に関しても自然科学者のコーバーによって見つけ出された。現在ほど専門分野が細分化されたり 研究手法も現在犀利なものとなっていない時代であるとはいえ、アマチュア研究者がアカデミズムの壁を越えて その研究を認めさせるのはきわめてまれなことである。しかしヴェントリスにしてもコーバーにしても、線文字B の解読に当たって地道な作業を続け、(コーバーは業半ばして亡くなってしまったが)ヴェントリスは古代ギリシア の専門家をも納得させるだけの仮説を打ち立て、そこから専門家の協力も得て線文字B解読を達成したのである。 アマチュアの研究を認めさせるには、プロの側に聞く耳を持つ人がいることや、アマチュアの側もそれなりの準備と 覚悟をしておくことなどの限定条件は付くと思うが、結局の所、地道に研究を進めること以外には無いのではない かとおもわれる。アマチュアであれプロであれ、ある学問分野において正当な評価を得るためには手間と暇をかけ つつ研究成果を示していくという、真っ正面から当該分野の研究に挑む以外には無いのである。


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