アレクサンドロス大王と酒と女性


マケドニアのアレクサンドロス大王はおよそ10年にわたる遠征活動を通じて広大な地域を征服した人物として 知られています。その彼もやはり一人の人間ですから、酒にまつわる話や女性にまつわる話の一つや二つくらいは 出てきます。

  • アレクサンドロス大王と女性
  • 東征中のアレクサンドロスの活動を記録した史料のなかに、女性に対する彼の接し方を書いた記述も時々出 てきます。東征開始1年目、カリアにおいて太守の地位にあった女性アダを復位させたとき、彼女はアレクサン ドロスを養子にしたいと申し出、彼もそれを受け入れて彼女を母と呼んだという話があります。またイッソスの 戦いの後、捕虜にしたペルシア人のなかにダレイオス3世の母、妻、娘などペルシア王家や貴族の娘が含まれて いましたが、彼女たちを丁重に扱い(というよりかなり素っ気ない態度を取ったりしている)、ダレイオスの母 シシュガンビスを「自分の第二の母」と読んだという話が伝わっています。しかし、その一方でダレイオス3世 の妻スタテイラについては前331年初夏のフェニキアで彼女が死亡した原因が出産であるとする記述もあり、そう だとすると相手はアレクサンドロス以外には考えにくいというところから、彼女とアレクサンドロスの間に性的 関係があったと想定する説もあります。その他、アレクサンドロスはイッソスノ戦いの後で捕虜にした女性の一人 バルシネを愛人として迎え、彼女はその後も王の側にあり続けることになります。

    アレクサンドロス大王は正式な結婚はかなり遅く、紀元前327年、29歳の時にバクトリアの豪族オクシュアル テスの娘ロクサネと結婚しています。この結婚はアレクサンドロス大王が恋に落ちて結婚したという話が伝わっ ています。彼が恋をしたという話はこの件のみです。しかしこの結婚には一方でバクトリア地方の安定という目 的もふくんでいたようで、むしろ政治的・軍事的にバクトリア地方を安定させるための結婚だったと考えるのが 妥当であるとおもわれます。その後紀元前324年にペルシアの旧都スサに帰還し、そこで朋友80人とともにペル シアの王族・貴族をめとる集団結婚式を行い、彼自身はかつてのアケメネス王家の娘スタテイラとパリュサティ スと結婚しています。こうした正式の結婚とは別に妾も何人かおり、その中の一人パンカスペ(パンカステと記 する本もある)はアレクサンドロスの妾だったのですが、画家のアペレスが彼女をモデルとして絵を描いていると きに恋に落ち、結局彼女をアペレスに与えたという話が残っています。また東征中にイッソスで捕虜にしたペル シア人の中にいたギリシア系女性バルシネとの間には男子をもうけています(この時にもうけたヘラクレスという 息子は最後ディアドコイ戦争の混乱の中、ディアドコイ諸将の謀略の犠牲となってしまうのですが・・・)。

    アレクサンドロスの女性に対する接し方を記したこれらの史料には征服地の安定、支配下の民族との関係強化 などの政治的な要素が見て取れる面もありますが、遠征前半のアダやシシュガンビスに対する接し方や女性を丁重 に扱う様子などからは、母親オリュンピアスの間の極めて濃密な母子関係が影響を与えているような感じがします。 父のフィリッポスが滅多に帰ってくることのない状況下で、幼年期のアレクサンドロスに対するオリュンピアスの 影響はかなり強かったと想定されていますし、アリストテレスを迎える前にアレクサンドロスにつけられていた 家庭教師団の長レオニダスはオリュンピアスと縁戚関係がある人物で、彼女の意向を反映しやすい状況にありました。 そのようなことをかんがえると、女性に対する丁重な扱いを伝える逸話もかなり納得がいきます。

  • アレクサンドロス大王と酒
  • 女性に対しては丁重に扱い、富に対しても(遠征前半は)節度を示しているアレクサンドロス大王ですが、彼に関して 極めて評判が悪いものとしては飲酒の問題があります。ペルセポリス炎上事件やクレイトス刺殺事件はいずれも酒宴の 最中に起きた事であると強調されています。ペルセポリス陥落後、酒宴の席であおられて、よった勢いでペルセポリス に火を放って炎上させてしまったというペルセポリス炎上事件では酩酊故にそのような行為に及んだとする説が出され ています。また、アレクサンドロス大王の危機を幾度と救ってきた譜代の将軍クレイトスと酒席で口論になり、彼を刺殺 してしまったクレイトス殺害事件でも酒宴でかなりよっていた様子が記録されています。ペルセポリス炎上に関しては 他にも様々な説があり、最近では酩酊によるアクシデントではなく意図的に焼いたという説が有力視されているので、 これははずすとしても、クレイトス刺殺事件は酩酊と多少関連があると思われます。

    飲酒の問題は暴君としてのアレクサンドロス像の形成とかなり絡んでくる問題になってきます。しかし、彼の飲酒に 関しては大酒飲みであったという記述が見られる一方で長い間酒宴の席にいたため、実際には飲んでいなくても飲んで いるように思われているとみている記述があります。マケドニアの宴会ではギリシアと違ってワインを水で割って飲む ことはなく生のままで飲むことが習慣になっていました。マケドニアの宮廷で生まれ育った彼がそうした習慣を引き継いで いると考えるのは極めて自然なことで、いったん飲み始めて酔いつぶれる可能性は十分にあったでしょう。また、饗宴 はマケドニアの宮廷において単なる酒を飲み、食物に舌鼓を打ち、歌舞音曲を楽しむものではなく、政治的にきわめて 重要なものであったと言われています。ギリシア本土と異なり女性を同伴することはなく、饗宴の場で様々な議論が 交わされ、そこで重要な政策が決定されるという王と貴族達の意見交換の場として機能していました。仮に酩酊状態で 激しい意見の応酬が行われていた場合、平常時ならば理性によって抑えられているような暴力衝動が抑えられることなく 表に出てしまうこともあり得ます。クレイトス事件も東方協調路線に対する異議申し立てから、酒の勢いであのような 悲劇的結末を招いてしまったのでしょう。

    一方で、彼の飲酒が幸運にも彼を救ったこととして、近習たちによる暗殺の陰謀が計画されていたときに自分の天幕に 戻ることなく飲み続けて難を逃れたという出来事がありました。就寝中のアレクサンドロスの天幕を警護する近習が狩 猟の際に叱責されたことを恨んで、同士7人を集めて夜警の当番としてそろった夜に就寝中の彼を殺す計画を立てたもの の、アレクサンドロスは徹夜で宴会に参加しつづけて天幕に戻らず未遂に終わることになりました。ある時は饗宴で口論 となった挙げ句部下を殺害してしまう原因となり、またあるときは幸運にも彼の命を救っている飲酒の問題ですが、 恐らくプルタルコスがのべているように、アレクサンドロスは飲んでいるときとそうでないときの切り替えは極めてうまく できていたのでしょう。例え前夜にどれほど痛飲していても、いざ戦闘となればしっかり軍隊を指揮していたのではないか とおもわれます。しかし、そのようなアレクサンドロスも死ぬ直前の時期、盟友ヘファイステイオンが死んだ後から酒宴 にふける機会が増えていき、死ぬ直前には宴会をハシゴして徹夜で飲んでいたと言われています。そしてその直後に高熱 を出し、死の床についたのでした。直接酒が彼の死と関係があるのかは不明ですが、やはり長年の遠征で肉体に傷を負って いるところに宴会が続き、体力が低下しているところで病気を発症しやすくなっていたのでしょう。


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