ケルトって一体・・・?
〜「島のケルト」をめぐって〜


古代のブリテン島の歴史を説明するにあたって、従来は大陸から集団的な移住が幾度かなされ、なかでもケルト系 のベルガエ人(フランス北部、ベルギー一帯に住んでいたケルト人)が高度な文化と高い戦闘能力を持ってブリテン島 南東部を変化・発展させたという通説があった。その後1970年代にはベルガエ人移住の意義はあまり無いという見方が 強まり、現在では激しい批判を受けるに至っている。そして現在、イギリスの考古学ではブリテン島へのケルト人の移 住や侵入を認めず、「島のケルト」という見方が近代の所産であるという説が強くなっている。さらにローマ以前のブ リテン島について「ケルト」という言葉を用いて説明することは適切でないという見方がひろまっているという。
(参考文献:田中美穂「『島のケルト』再考」(『史学雑誌』111編10号、56〜78頁)、南川高志「海のかなたのローマ 帝国」(岩波書店、2003年))

  • 従来の見解
  • 鉄器時代ブリテン島の様子に関しては以下のようなことが考古学の成果を元にして言われてきた。まず、ローマの征服 活動が行われる頃にはブリテン島の景観は現在とさほど変わらぬ状態になっていたようである。鉄器時代には 農耕が行われ、小麦からパンを作り、家畜を飼っていた。特に既にイノシシでなく家畜化された豚が存在した事 はローマ時代に至るまでの出土品のなかから豚の小像が出土することからも明らかである。彼らの住居は円形で、土器 は発達しなかったが陶器が大陸から入り込んでいった。ブリテン島では鉄器は前7世紀に入ってくるが、島で鉄器が生 産されるようになったのは前5世紀から4世紀のことである。遺跡からはカレンシー・バーとよばれる剣の形の鉄の棒 がしばしば出土するが、これは貨幣の代わりに用いられたと見られている。そのほか首飾りや盾なども出土している。 それらの遺物が後に「ケルト美術」として分類されていくのである。それら出土品の装飾はブリテン島独自の物であり、 島内で生産されたのであろう。またカエサルが侵攻する以前から陶器作成、火葬、貨幣制作などの大陸やローマ風の工 芸品や習慣がもたらされていた。そしてこれらの物をもたらしたのはかつてはすべてケルト人の移住によるものとされ、 とくにフランス北部、ベルギー一帯に住んでいたベルガエ人の移住が重視されてきたのである。

    また、ブリテン島の建造物に関しても変化が見られ、前6世紀頃からヒルフォートとよばれる丘の上に土塁・石塁、濠に よりかこまれた要地が築かれていたが、前1世紀頃になるとオッピドゥムという平地でより広大な土地を濠と土塁で囲っ て集落を形成するようになっている。このオッピドゥムの出現もベルガエ人の移住と結びつけてしばしば語られてきた のであった。

  • 「島のケルト」の“出現”
  • 古代ギリシア人、ローマ人はかなり早い段階でブリテン島の存在を知っていた。紀元前4世紀にはマッシリアのピュテ ィアスの航海がおこなわれ、その時にプレッタニアという名前で呼ばれている(これがブレッタニアになり、そこから ブリタニアになる)。その後ブリテン島から錫を購入する交易がさかんになった。錫は当時広く用いられていた青銅器 を作るために欠かせない金属であった。考古学の成果を元に紀元前2000年紀の終わり頃から前1000年紀の前半にかけて のヨーロッパでは地中海文化圏の北方には青銅器文化・農耕・牧畜をもつ文化集団が存在したこと、紀元前8世紀頃か ら鉄器を使うようになり周辺に影響を及ぼしていたこと、ブリテン島にも前6世紀にその影響が現れたことが言われて いる。

    そして紀元前5世紀になるとこの集団の影響は西ヨーロッパに広く行き渡り、地中海文化と違う文化圏を作り、 ブリテン島には前4世紀にその影響が見られるようになっていった。こうした文化を創った集団がケルトイ、ケルタエ、 ガッリーと古典資料には書き残されているのである(ちなみにこれはすべて他称。自らケルトと称するようになるのは 近代に入ってからのことである。近代にケルトマニアと称される人々が数多く現れてくる・・・)。そして、この集団 の文化は前8世紀からのハルシュタット文化と前5世紀以降のラテーヌ文化に区分され、ブリテン島にはこの2つの文 化を持つ集団が移住してきたのである。。そして古典史料に見られるベルガエ人の移住も入れればブリテン島へのケル ト人の移住は都合3度行われたという。ただし、注意しなくてはならないことは古典史料に現れる「ケルト」という 集団は大陸の集団のことでブリテン島は入っていないということである。

    ブリテン島やアイルランドにケルト人がいたという認識が発生するきっかけはルネサンスに遡る。ルネサンス期以来、 古代が注目される中でフランスではガリアとケルトの同一視がはじまった。そしてフランスで教育を受けたスコットラ ンド人ブキャナンにより16世紀にアイルランドやスコットランドの島嶼部の言葉と大陸の古代ケルト語が同族の言葉で あることが「発見」され、彼によってケルト人の大陸から島への移住が仮定された。さらに18世紀初頭から、英語以外 の島嶼部の言葉と大陸の古代ケルト語、ブルターニュ地方のブレイス語が同じ「ケルト語」に分類され、やがて古代か ら現代に至るまでの「ケルト語族」が等しくケルト人と見なされるようになり、ヨーロッパの起源としてケルト人が重 要であるという認識が生まれる。島のケルトという考え方はロマン主義やナショナリズムによりさらに高揚、定着して いったのであった。このように「ケルト語族」やケルト人は近代の想像の産物であり、「ネイション創出」といっても よいものであり、その創出過程はかなり厳密さを欠いていたようである。しかし学問的厳密さに欠けていても当時の思 想の潮流にのって「ケルト人」が古代のブリテン島やアイルランドにいたという見方はまっていった。なお、現在の考 古学者たちはラ・テーヌ期やハルシュタット期の遺跡や遺物を無批判にケルトに結びつけて解釈したことを反省してい るようである。

  • 「島のケルト」への批判
  • では、現在の考古学者、特に「ケルト」概念を批判するイギリスの考古学者たちはどう考えているのか。 「島のケルト」を否定し、「ケルト」概念そのものを問題にしているイギリスの考古学者たちの見解はだいたい次のよ うな感じである。

  • 「ケルト語族」という集団は近代の発見、近代の名称で古代の物ではない
  • 大陸のガリア、ブリテン島、アイルランドの人々が古代において同じ言語を話し、何らかの要素を共有しているとは考えて いなかった。なお、ケルト語の話し手とラ・テーヌ文化の関係についても最近では両者の関連は薄いとすら言われている。
  • ブリテン島の鉄器文化に関しては地域差があり、単一の物質文化は認められない
  • いわゆる「ケルト美術」に入れられるハルシュタット期やラ・テーヌ期の金属細工はブリテン島やアイルランドでは少ない。 そもそも「ケルト美術」に入れられる金属細工などの工芸品はごく一部の階層の物が持っていた物である。こうした物を作る 技術や思想、イデオロギーがドーバー海峡を越えて動いていたという。
  • 大陸のガリア地域とブリテン島では物質文化の相違は明らかである
  • まず、ブリテン島とアイルランドでは大陸の「ラ・テーヌ様式」の埋葬形態はない。また、家の形も大陸では方形だがブリテン島 とアイルランドでは円形の物が多い。こういったことも含めて全体的に物質文化が異なっており、移住者によりそれが変わったという 形跡は見られない。

    このような点でイギリスの考古学者の中からブリテン島がケルト系の移住者によって発展したとする説に対する批判が激しくおこなわ れるようになった。ブリテン島へのベルガエ人の移住に関しては貨幣制作がかつては移住を示す史料とされた。しかし貨幣の制作段 階がベルガエ人の移動を表すならば、火葬のような他の変化は同じ時期に生じず、同じ分布を示さなかったのかという疑問がだされた。 ベルガエ人がもたらしたとされている土器や金工品のようなものが到達する時期と、同じくベルガエ人がもたらしたといわれる貨幣や 火葬の時期が異なるためである。同じベルガエ人がやってきたのにこの2つにずれがあると言うことから証拠としての能力に問題が あるということのようである。また移住説に関してはブリテン島は外部からの影響がないと発展しないという思考の方法も問題にされ、 激しい批判を受けるようになった(これについては後に触れる中核・辺境理論も同じような点で批判を受けている)。なお、アイルランド の考古学者もイギリスの考古学者と同じように大陸からの移住者によってケルトの文化がもたらされたとする通説を否定するようになって きている。最近の調査や研究の進展の結果、アイルランドにおいてはラ・テーヌ期の物質文化の形跡が乏しい(特にアイルランド南部では 皆無)であることが確認されていることがその理由のようである。また、ごく一部の金属細工に注目し、アイルランドの鉄器時代を「ケル ティック」なものとして解釈した事への反省もみられるという。

    なおかつてはベルガエ人の移住によって説明されていたブリテン島発展について、ベルガエ人の移動によって説明することが困難に なった後は近代世界システムのような中核・周辺論も展開された。しかしそれに関しても批判が多く出ており、特に辺境の共同体が 顧慮されず中核の輸入品が辺境のものより価値があると見なされている点で厳しい批判がある。あたかも辺境の人々がそうした物 を盛んにほしがっていたという前提があると見られたためであろう。結局、色々な説がだされ、結論ははっきりとはしていない ようだが、現在の研究の方向はローマによるブリテン島征服・支配の時期の研究と鉄器時代後期の研究を進める際にはブリテン 島住民側から発展の様子を眺める方向性や青銅器時代以前からの発展の延長上でとらえる方向で進められている。そして、 少なくとも古代のブリテン島やアイルランドの歴史はもはやベルガエ人の移動によって説明できるものではなくなっている。 大陸とブリテン島では別の文化であるとする説からさらにすすんでブリテン島、アイルランドのケルト文化、文化集団としての ケルトの存在を疑う学説も出てきているのである。ただしすべてのイギリスの考古学者がそのような説を支持しているわけではなく、 論争が今でも続いているようである。

    「島のケルト」の存在を巡る議論は現在なかば政治問題化してしまっており、なかなか結論は出ないようである。過去の ケルトに対する扱い方を見ても、ある時は武器や防具の展示から彼らの勇猛さや好戦的な性格が印象づけられ、また別の 時代にはごく一部の豪華な装飾品をもってケルトの芸術性がもてはやされ、そして近年はヨーロッパ統合の象徴として、 ケルトが扱われるようになっている。しかし少なくともかつてのように古代のケルトと近代のケルトを同一視したうえで、 「ケルト」という概念を用いて様々なことを説明することは出来ない。ケルトという概念そのものが近代にアイルランド、 スコットランド、ウェールズ、ブルターニュ地方の人々や文化に対して適用されるようになったものである。現在ケルト が汎ヨーロッパ的な先住民族として統合の象徴として政治に利用されるようになっているためか、イギリスの学会でのケ ルト概念に対する批判は大陸部では認められず、特にフランスの学者はそれを激しく批判しているようである。これから 先の研究が果たしてこれからどうなっていくのかは分からないが、古代ケルトという今から数千年も前のことで直接我々に つながっているわけではない事柄が、その時代ごとの要請や雰囲気により創造され利用されてきた歴史から、「ケルト」の 問題を現在の我々の歴史認識の問題と関連づけて見ることができるのではないかとおもわれる。ケルトに限らず、歴史の恣意的 な利用の事例は色々あるからである。


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