クセノポン
〜行動・実践の人〜


アテナイの哲学者ソクラテスのもとにはアテナイの名家の青年達が数多く集まり、ソクラテスの弟子となっていた。 そして弟子となった人物の中にはプラトンのようにソクラテスの思想を語り継ぎ、書物に書き残していく者もいたが、 一方で思索にふけることよりも行動や実践に重きを置く人物もいた。そしてその人物こそ、その才能を故郷アテナイ 以外の場所でしか発揮できなかったクセノポンその人である。

クセノポンはプラトンと同年代の人物であり、その生年は定かでないが前430〜425年の頃であるとされる。彼の家は アテナイでもかなり裕福な家であったということは、彼自身が馬を持っていることや彼の馬に対する造詣の深さから うかがい知ることができる。当時馬を飼うことができるのはアテナイでも裕福な市民だけであったからである。彼は 青年時代に「どこに行けば立派な人間になれるか」という問いに窮したことがきっかけでソクラテスの弟子となり、 哲学に親しむことになる。

しかし、ペロポネソス戦争の終結後、彼の人生を一変させる出来事が起こる。前401年、小アジアのペルシア王子キュロス のもとに滞在する友人テバイ人プロクセノスから招かれた彼は、ソクラテスに助言を求めた。ソクラテスはデルポイの 神託を伺うよう忠告し、彼もそれに従った。しかし彼は忠告に従ったが、キュロスのもとに行くべきかどうかではなく、 キュロスのもとにいかにしていくべきかをデルポイの神に尋ねたという。ソクラテスはそのことをとがめたが、結局 サルデス行きを勧めたという。こうしてクセノポンはサルデスへと向かった。ペロポネソス戦争に敗れ、内戦を経験した 当時のアテナイの状況に満足できぬクセノポンは友人の誘いに乗りサルデスへ向かうことになる。

そしてサルデスへとやってきたクセノポンを待っていたものは、キュロス王子の反乱であった。ダレイオス2世の後を継いだ のはアルタクセルクセス2世であったが、キュロスは兄を討ち自ら王になろうとして多くの軍勢を集めていた。そしてその中 にはギリシア人傭兵も多数含まれ、クセノポンもこの反乱に参加した。キュロスの反乱はバビロンを目前にしたクナクサの 戦いでキュロスが戦死し、ギリシア人傭兵指揮官達もペルシア軍の謀略により殺害され、1万人のギリシア人傭兵達は敵の まっただ中に残された。クセノポンはギリシア人傭兵達を敵を突破して領土を踏破しし、安全な地帯まで連れて帰った。 この時の様子は「アナバシス」に詳しく書き残されているが、クセノポンの統率力が遺憾なく発揮された出来事であった。

兵士達を安全なところにまでつれて戻ると、彼とギリシア人傭兵達はスパルタ軍の傭兵となった。当時スパルタはギリシア 世界の覇権を握っており、ついにペルシアにも攻め込むようになっていたためである。前399年にペルガモンまで兵士を連れ 戻すとスパルタの将軍ティプロンの入った。その後デルキュリダスの指揮下に入り、さらにスパルタ王アゲシラオスのもと で対ペルシア作戦に従事するようになった。前394年にアゲシラオスがギリシアに戻るときに彼とともにギリシアへ戻り、 アテナイ、コリントス、ボイオティアなどの軍勢と矛を交えることになった。しかし祖国に敵対したことが原因で、彼は アテナイを追放されることになる。

クセノポンは祖国に敵対したためにアテナイを追放されるが、スパルタは彼を厚くもてなし、オリュンピアに近いスキルスに 住むことを許され、広大な土地を購入し、アルテミスの神域をもうけて田園生活を送った。一説にはこの土地や家屋はスパルタ に提供されたともいわれるが、彼は田園生活を送りながら著述活動や友との宴を楽しみ、平穏な生活を送っていた。しかし 平穏な田園生活は前371年のレウクトラの戦いでスパルタが敗北したことで一変する。スキルスは元来エリスの土地であり、 エリスが失地回復を目指して攻めてきた。クセノポンは息子と召使いと共にスキルスを逃れ、まずレプレオンへ、ついで彼 自信は財産保証を取り付けるためだったのかエリスへ赴き、さらに息子達の元に戻ってコリントスへと向かい、居を定めた という。その後のクセノポンはスキルスに住み続けたとする説とコリントスに住み続けたとする説があるが、おそらくコリン トスにおいて生涯を終えたと考えられている。ちなみにアテナイのクセノポンに対する追放命令は、前370年にテバイの強大 化を警戒したアテナイがスパルタと同盟を結んだ頃に解除されたといわれている。

このような生涯をたどったクセノポンであるが、彼の著作は「馬術論」、「騎兵隊長論」、「家政論」といった実用的なものや、 「アナバシス」、「ヘレニカ」、「キュロスの教育」のような歴史をあつかったものがある。またスパルタびいきなところがあり、 特に彼が使えたアゲシラオス王に対する尊敬の念が強かったことは「アゲシラオス」という作品が残されていることからもわかる。 彼が書き残した作品は原題に至るまでほぼ完全な形で残されているが、クセノポンの著作が後の世にも広く読まれたということが このことからもわかってくる。一方で彼の著作に対しては、深みにかけるという意見もある。確かに同じソクラテスの弟子だった プラトンの著作と比べると、彼の著作からはソクラテスの思想をまとめたり発展させたりしたような内容はあまりみられない。 しかしそのような思想の面の深みにかけるという批判はあるが、自らの体験をふまえつつ、政治や軍事、さらには財政やら 家計の維持、狩猟の方法や馬の扱い方に至るまで、思考を深めるというよりもむしろ実際に役に立ちそうな本を数多く残している 古代の人々にとりクセノポンの著作は生活を送る上で色々と参考になったとかんがえられる。また彼自身も神託にまつわる話 などから思索を巡らせることよりも、様々な実践のほうを重視していたとおもわれる。その生涯と著作をみていくと、同じソクラ テスの弟子でもプラトンが思索の人であるのに対して、クセノポンは行動・実践の人であったということができる。


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