早わかり・テルモピュライの戦い


2007年春、全米初公開から2週間連続で1位となった映画「300」は映画の宣伝ではスパルタ軍300人とペルシア軍100万が激突した テルモピュライの戦いの映画化ということになっています。後々にまで語り継がれることになる激戦であったことはヘロドトスなど によって知られていますし、「旅人よ、スパルタびとに伝えてよ。ここに、彼らがおきてのままに、果てしわれらの眠りてあると。」 という墓碑銘(シモニデスによると言われていますが、違うという説が有力だとか)も残されています。このような話を聞くと、 テルモピュライにははじめからスパルタ軍300人しかいなかったと思うかもしれません。しかし実際に史実として知りうることは少し 複雑だったりします。とりあえず、この記事ではさっとテルモピュライの戦いについておさらいをしてみましょう。

  • 配備された戦力
  • テルモピュライ守備隊として配置された戦力はペロポネソス勢が3100、ボイオティア勢が1100、中部ギリシア勢力が1000程度という 記録がヘロドトスに残された数字から知られています。そのうちでスパルタ軍は300人、王の親衛隊であり、跡継ぎのいる者から選抜 した部隊でした。他の国々についてはテゲア(500)、マンティネイア(500)、オルコメノス(120)、その他のアルカディア地方(1000)、 コリントス(400)、プレイウス(200)、ミュケナイ(80)、テスピアイ(700)、テーバイ(400)、フォキス(1000)、ロクリス・ オプンティス(集められる全戦力)ということになっています。なお、フォキスの1000人はその後迂回路の守備を任されますが、あまり 役に立たず、その後の玉砕戦へとつながっていきます。

    また、スパルタ軍が玉砕する「レオニダスの丘」における最後の戦いでも、実はスパルタ軍だけでなく、テスピアイ軍はともに奮戦 して玉砕したことが知られています。その割にはテスピアイ軍の奮戦を伝えるようなものはあまり聞かれず、スパルタ軍の武勇が語り継がれ ているようです。なんとなくそこの所には不公平な感じがしてしまいます。また、テーバイ軍についてはかねてから親ペルシアの立場を取る テーバイに対してレオニダスは批判的であり、出兵を要請したときにどのような態度を取るのかを知りたかったという話がヘロドトスに 伝えられています。

    このくらいの軍勢でペルシア軍をテルモピュライで迎え撃たなくてはならなかった訳ですが、それには理由があります。その理由というのは この重大な局面においてギリシアでは「オリンピック休戦(エケケイリア)」の布告がエリスから出されていたり、当のスパルタでもカルネ イア祭が挙行されようとしていたというものでした。カルネイア祭とペルシア戦争というと、マラトンの戦いの時にもそれを理由にスパルタが 援軍を送らなかったと言うことがありましたが、今度はさらに全ギリシア規模の祭典があるということも重なっていたため少なかったという わけです。スパルタも他の国々もそれぞれ祭りの後に救援をおくることになっていましたが、結局は間に合わなかったわけです。

  • 戦いの展開
  • テルモピュライにおける戦いは3日にわたって繰り広げられました。まず、第1日目はスパルタ軍が後退すると見せかけて反転して ペルシア軍を撃破していきます。この時戦場となったテルモピュライは狭隘でペルシア軍は数的優位を生かせないうえ、騎兵や弓兵も 力を発揮できませんでした。さらに槍の長さがギリシア軍と比べて短いなど不利な点があったこともあります。しかしなにより、後退反転 攻撃を繰り返してペルシア軍を撃破したスパルタ軍の強さが際だった戦いだと言えるでしょう。翌日、ペルシア軍は再び攻め寄せますが、 ギリシア同盟軍も国ごとに隊形を組んで入れ替わり立ち替わり戦ってペルシア軍を撃退しました。

    テルモピュライの戦いが始まり、当初はギリシアの同盟軍がペルシア軍を撃退していましたが、エピアルテスという人物が道を教えたこと から状況が変わります。彼らは夜を徹して抜け道を進み、明け方に遭遇したこの地を守るフォキス軍を蹴散らして向かってきました。 一方、ギリシア同盟軍内部でも3日目の明け方にペルシア軍が抜け道の存在を知ると今後の対応を協議し、結局スパルタとテスピ アイ、そしてテーバイを残して他の同盟軍は帰ることになりました。他の同盟軍がテルモピュライから撤退していった理由は、ギリシア軍 同盟軍に戦意が無いのを見て取ったレオニダスが返してしまったという説がヘロドトスに書かれています。一方で、デルフォイの巫女の下 した神託(スパルタの国土が異国の軍により荒らされるか、スパルタ王が戦死する)の影響があったという説も書かれています。

    そして、3日目の午前10時頃より攻撃が始まり、ギリシア軍も隘路を出て激しく戦い、ペルシア軍は当初苦戦しますが徐々に数的優位を活かして 追いつめていきます。この時の戦いは相当激しく、ペルシア軍ではクセルクセスの兄弟2人が戦死、ギリシア軍でもレオニダスが戦死し、 さらにレオニダスの遺体を巡って激戦がつづきました。そこに当初予定より遅れたものの抜け道を通ってきた別働隊が合流すると、 ペルシア軍が優位に立ち、ギリシア軍は再び狭隘な地点に戻り、さらに後に「レオニダスの丘」と呼ばれる場所にスパルタ軍とテスピアイ軍は 陣を敷いて戦い、そこで玉砕して果てることになるのです。

    この時、スパルタの他に留まっていたテーバイとテスピアイの軍勢ですが、テスピアイの軍勢は自発的に残ったのに対して、テーバイの軍勢を レオニダスは人質のように扱っていたといわれています。戦いにおいてもテーバイの軍勢は当初は一緒に戦っていたものの、スパルタ とテスピアイが丘に集まった際に同盟軍から離脱してペルシアへ投降してしまいました。しかし、その後額に焼き印を押されるなど彼らの扱いは あまり良くはなかったようですが…。それはさておいて、なぜスパルタはこの時に同盟軍を返して自分たちは残るという選択をしたのか、そして 兵士たちがそこに従ったのでしょうか。これまでもスパルタ軍の玉砕については様々な説が出されてきたようで、戦略的意味があるとする説、 スパルタの不文律で玉砕を余儀なくされたとする説、さらにはレオニダスが戦士的名誉心から玉砕したという説、スパルタの教育により命令 には絶対服従であったため玉砕したという説など、様々な説が出されています。


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