彫刻家リュシッポス


リュシッポスは前360年頃に最初期の作品を残し、アレクサンドロス大王の宮廷で働き、ディアドコイ 戦争時代にも彫刻を残しているという前4世紀前半から前4世紀末にいたる長きにわたって活躍した彫 刻家であり、その作品数は1500と伝えられている。オリジナルは残っていないがローマ時代の模刻が 残されており、そこから彼の作風を知ることが出来る。また彼はアレクサンドロス大王の特徴や個性 をきちんととらえることが出来たために彫像を残すことを認められた唯一の彫刻家である。

リュシッポスは長きにわたり活躍した数の作品を残したが、彼は前4世紀の新しい彫刻の流れを生み出 した人物であった。プリニウスの記述にリュシッポス派の彫刻家の文献が引用され、そこでは「人間が どんな外観を持っているのかを表現した」と書き残されている。彼は従来の彫像よりも頭髪を細かく、 体を細く、頭を小さく作り、身体に対する比率を8対1(従来は7対1)にしたものであった。彼は実際の 形よりもそれがどのように見えるのかを重視して彫像を作ったのであった。

リュシッポス自身ははじめは伝統的な様式を得意にしていたが、その中にも彼自身の独創が現れていた のである。そして徐々に彼は均整と調和という伝統的な彫像の概念から解放されていくことになるので ある。彼の彫像は手を前に伸ばしていたり体にひねりが入っているなど、一方向からだけではなく全方 向から観賞する事を想定して作られている。その他、彼の手法としては予想外の寸法で像を残して人を 驚かせるということもおこなったようである。そのため、古典記には作られることが少なくなった巨像 がリュシッポスと彼の弟子達の手により作られるようになっていった。

しかし、なによりも彼の彫刻が革新的であるとされる理由に、彼が彫像により表現しようとした物がモ デルとなる人物の個性であったということである。それ以前の彫像は彫像のモデルとなっている個人を 表しているように見えても必ずしもそうではない。将軍や政治家の彫像を作るに当たって表現するべき 事はポリスを代表する理想的・典型的市民として目に見える形で表現することであり、人物の個性は重 要ではなかった。そのため、古典記の彫刻に関してはテミストクレス像やペリクレス像がのこされてい るがそれらの像は彼らの真の姿を伝えているわけではなく、「将軍とはこのような者である」というア テナイにおける価値観が入り込んでいるのである。

これに対してリュシッポスの彫像は個人の個性を強く表現するような彫像を作っていった。そしてリュシ ッポスのやり方はアレクサンドロス大王やディアドコイ諸将たちの意向と合致するものであった。アレク サンドロスのもとで彫像を残すようになったリュシッポスは数多くの作品を残している。アレクサンドロ スの像のみならず、グラニコス川の戦いで戦死した戦没者たちの像やアレクサンドロスの親友ヘファイス ティオンの像を作成していることが知られている他、ディアドコイ戦争の時代にはセレウコスの像を残し たと言うことも伝わっている。

アレクサンドロスやディアドコイ諸将といった人々にとり、彼らの個性を表現する彫刻が作られ、流布する 事にどのようなメリットがあったのであろうか。古代世界においては彫像はある種のメッセージを込めて 作られていることがふつうであった。ポリス社会においてはポリスの価値観を伝えることが大切であり、 彫像の人物が体現するものはポリスの価値観であった。アレクサンドロスやディアドコイ諸将といった人々 の場合は彼らの個性をはっきりと示すことにより、彼らが何を考え、何を理想とし、何を成し遂げたのかと いうことを伝えるために彫刻を必要とした。そうしたものを伝えるためには従来のポリス社会においてはぐ くまれた彫刻の伝統に強くとらわれた者よりもリュシッポスのような新たな技法に挑戦する彫刻家の方が 都合が良かったため、彼はマケドニアの宮廷でアレクサンドロスのために様々な彫像を残すことを任された のであろう。また、アレクサンドロスやディアドコイ諸将のような彫像に残すに値する強烈な個性の持ち主 達が前4世紀後半に現れたと言うことはリュシッポスの技法を発展させる上で幸運だったのではないか。


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