紀元前356年
〜その年に何があったのか〜


紀元前356年7月20日、マケドニア王フィリッポス2世とオリュンピアスの間に一人の子供が生まれました。その子供が後に東方 遠征をおこない、当時のギリシア人が知っている世界を超えた領域を征服することになるアレクサンドロス3世(大王)でした。 では、アレクサンドロスが生まれた紀元前356年、世界では一体何が起きていたのでしょうか。アレクサンドロス大王が生まれたのは 前356年の夏のことですが、古代史の場合、近現代のように一日単位で出来事が分かっているわけではないため、前356年の1年間に 起きたことや、大体この前後にどのようなことが起きているのかをまとめるような形で記事を書いていこうと思います。タテではなく ヨコに歴史を見るというのもまた面白いのではないでしょうか。


  • ギリシア本土〜第3次神聖戦争の勃発、同盟市戦争〜
  • マケドニア王フィリッポス2世がギリシア本土の政治情勢に積極的に関わりを持つのは第3次神聖戦争以降ですが、第3次神聖戦争が 始まったのが紀元前356年のことでした。また、アテナイは前年より海上同盟加盟諸ポリスとの関係が悪化して同盟市戦争に突入し、それ を戦っている最中でした。この章ではこれらの事柄について、軽くまとめていこうと思います。

    まず、第3次神聖戦争の発端は以下のような物でした。まず、デルフォイの隣保同盟(アンフィクテュオニア)評議会がスパルタとフォキス に対して瀆神行為で罰金刑の判決を前357年秋の会期に下しますが、両国がそれに従わず、フォキスは将軍フィロメーロスの指揮下、前356 年にデルフォイを軍事占領するという暴挙にでます。これに対してテーバイとテッサリアを中心とするアンフィクティオニア評議会がフォキス に対する神聖戦争を布告し、これによりギリシアの主立ったポリスも巻き込んで10年にわたり戦われることになる第3次神聖戦争が勃発します。 そしてこの戦争の最中にフィリッポス2世はフォキスと同盟したフェライとテッサリア連邦が対立し、テッサリア連邦から支援を求められて フォキスと戦い、これに勝利するとともにテッサリアの支配者となります。さらに前347年、長年の戦争により疲弊したテーバイがフィリッポス の助力を願い、フィリッポスとテーバイの同盟が成立、フィリッポスは前346年にフォキスを制圧して第3次神聖戦争は終結しました。

    第3次神聖戦争というギリシア主要ポリスを巻き込む大戦争が勃発した前356年、アテナイは同盟市戦争を戦っている最中でした。アテナイは ペロポネソス戦争で敗北し、デロス同盟は解体されましたが、その後ペルシアの支援により国力を回復し、前377年に第二次海上同盟を結成 するに至ります。第二次海上同盟は同盟諸市に貢租を課さない、駐留軍を置かない、自由自治を尊重するという原則のもとで作られましたが、 やがてアテナイが前360年頃よりその原則を無視するようになり、徐々に帝国化していったと言われています。同盟諸市の自由自治の侵害に ついては行われていないとする研究もあり、帝国化についても色々と研究が行われているところのようですが、前357年に同盟市戦争が勃発 したという現象自体はあったと見なされています。そして、前355年に同盟市戦争は終結し、アテナイの第二次海上同盟は解体されました。


  • ローマでは〜最初の平民出身独裁官登場〜
  • ギリシア以外に目を向けると、このころの地中海世界はどのような状況にあったのでしょうか。カルタゴのようにこのころの歴史があまりわから ないところもありますが、そう言うところについては史料が何か入手でき次第書き加えるとして、イタリア半島で強い力を持ちつつあったローマ で何が起きたのかを取り上げます。

    前356年、当時共和政であったローマで、最初の平民出身の独裁官が誕生します。前508年に共和政に移行したローマでは、貴族(パトリキ) と 平民(プレプス)の間で続いた「身分闘争」が紀元前4世紀の半ば頃まで終結します。その後前287年になって平民会の決議が法律になるホルテ ン シウス法が制定されますが、実質的には平民の政治的権利は前4世紀の半ば・後半頃にかなりひろがっています。その過程で特に重要だった法律が 前367年のリキニウス・セクスティウス法でした。この法律によりコンスル2名のうち1名は平民から選ばれるようにすることが定められ(実際 に選ばれるようになるのはもう少し後になりますが)、以後政務官職が徐々に平民に開放されていき、前356年には平民出身の独裁官がはじめて 誕生するに至ったわけです。とはいえ、平民と言っても政務官職に就くのは上層部の平民であり、決して真ん中や下の方からはなれなかったこと は認識しておく必要があります。共和政ローマの国制が整備されていたのがちょうどこの時期にあたっていました。


  • アケメネス朝ペルシアでは〜アルタクセルクセス3世の時代〜
  • アケメネス朝ペルシアではアルタクセルクセス2世の子オコスが紀元前358年にアルタクセルクセス3世として即位してまもないころでした。 アルタクセルクセス2世と王妃スタテイラの間にはオコスを含め3人の子がいましたが、長男は反乱を起こして刑死、次男は三男オコスにより図 られて自殺し、オコスが王として即位することになりました。彼の治世は大体フィリッポス2世と重なっていますが、この王の時代にマケドニア とアケメネス朝の間には色々な点で接点が生じたことも知られています。前353年に反乱を起こした太守アルタバゾスがマケドニアに家族を連れ 亡命して数年間滞在したり、両国の間で前342年頃に不可侵同盟が結ばれたという話が残されていたりします。しかし、この王の時代にマケドニ ア とアケメネス朝の衝突もみられはじめ、前340年のペリントス包囲戦の際にはアケメネス朝はペリントスを支援する動きを見せています。もっと も、 前356年の時点では即位したばかりであり、このような流れになるのはまだ先のことです。


  • インドでは〜マガダ国によるガンジス流域統合〜
  • インドではマガダ国が強大化し、ガンジス川流域の統一をすすめていました。古代の北インドには「十六大国」と呼ばれる国々がありましたが、 その中でガンジス川中流域にあったマガダ国が強大化し、他国を支配下においていましたが、紀元前4世紀にシシュガナ朝からナンダ朝へと王朝が 変わったことが知られています。王朝交代が前4世紀初めなのか、前4世紀半ば・後半なのかはあまりはっきりしませんが(最近の岩波講座世界歴 史 では半ばとなっています)、マガダ国が強大化していた時期に当たることは確かなようです。


  • 中国では〜秦の強大化〜
  • 紀元前356年頃の中国は戦国時代のまっただ中ですが、ちょうどこのころ強大化していた国が西方にあった秦でした。前361年に孝公が公位 に つき、魏からやってきた商鞅が孝公の信任を得て政治改革に取り組み始めた頃にあたります。第1次変法が前359年、第2次変法が前350年 で、 第1次では人民を5家・10家の単位に分け、治安維持に共同責任をとらせ(什伍連座の制)、大家族解体と小家族創出、軍功に応じた爵位の授 与、 農業・紡織の励行といったことがおこなわれています。第2次では郡県制や土地区画の整理などがおこなわれます。前356年のころは第1次変法 が 始まった後であり、これらの政策を実施するために法令を徹底していくことになります。こうした政策により秦は強大化し、やがて他の国々を征服 することになりました。


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