日々の雑感
日記ではないですが、時々何かを書きたいときに書いていくコーナーです
感想、ご意見などは記 帳台ま で。
日々の雑文(展覧会記事、料理屋関係はここにあったりし
ます)
(過去の雑感については、この頁の一番下のリンクをたどってください)
4月4日
最近気候の変化が激しすぎて、ちょっとついて行けません。体調を崩しそうな予感がします。
寒くて雨がひどい日のあとには初夏としか言いようのない暑さが到来し、そこからまた10度くらい気温が下がる、こういうふうに
なるとは思っていなかったです(そんなの分かっているという人もいるかもしれませんが、私は天気はよく分からないです)。
これで困るのが、服の整理ですね。冬物もういらないよなあと思っても、ちょっと冷えてきたときに着るものくらいは残さない
と困ります。かといって寒いかなと思って準備したら暑いとそれはそれで辛いです。
こんな天気が続くと、櫻を楽しむ余裕もなく終わってしまいそうです。ちょこちょこ咲いてきていますが,雨が降るとそれで
散ってしまうものもありますし、もう葉っぱが出始めている木もみられたりします。はたしてちゃんと桜を見ることはかなう のでしょうか。
しかしながら、一方で最近地震が多いですね。台湾大丈夫でしょうか、、、、。
3月8日
「ヒストリエ」11巻がでてからもうすぐで5年となるのか、、、。単行本作業+先の構想を練るということで休載と
なってからもだいぶ経ちますが、そろそろ12巻出ないかなあと。そして何より、連載の再開が待ち遠しいです。
というよりも、岩明先生もだいぶお歳を召されているので、果たして完結するのかどうか気になってきます。
むかし楽しく読んでいた漫画家さんが体を壊したりなくなられたりするニュースを見ていると,正直心配に
なってきます(今日も鳥山明先生が亡くなったというニュースがありました。68歳、今の時代ではかなり 若い感じがしてしまうのですが)。
3月6日
書店の閉店が相次ぎ、町に一軒も書店がないというところも結構出てきていたり、その地域の中心都市でも
大型書店が閉店して無くなってしまったり、書籍を巡る情勢はなかなかに厳しいものがあります。そんななか、
国の方も何やら書店振興策のような者を考え始めたようです。ただそれに対して、さっそく色々と批判が浴びせ
られているのも目にします。まあ、国のやること=全て悪と思っているような人も一定数いることはわかっては
いますし、もうちょっと何とかならないのかなと思うこともあるのですが、やらないうちからあれこれ言うのは ちょっとどうかと。
私個人は書店を見て回るのが大好きで、旅先で見かけるとそういう所にすぐ立ち寄ろうとするところはあります。
ただ、書店に行く人が減っているのもあるのか、どうもあまり商品が動いていないなと思う本屋も結構見かけたり
します。そういった本屋であっても本屋があるというのは貴重な事だとは思っております。
ただ、今回の書店振興策に対する批判をみていても、批判している人はそもそも本が好き・書店が好きという、
昨今となってはもはや少数派になっている人たちが目立ちます。そこに向けていくらアピールをしたところで、
結局書店の市場拡大とか閉店ラッシュに歯止めということにはなりにくい(というかまずならない)でしょう。
衰退のペースが少し緩やかになるけれど、衰退していく流れを変えるまでは行かないだろうなあと。
その他、流通関係とか色々と問題はあるようですが,それについても変えた方がいいのでしょう。
書店にほかの物を置いたりほかの業態の物と並存するということについて色々という人はいるのは分かりますが、
まず人が来ないことには始まらない、カフェ併設、文具など併設でも仕方は無いのかなと思います(寂しいとは
思いますが,なくなったら元も子もないので)。ただ、複数業態併設だと、手間がさらにかかってかえって苦しく
なるところも出てくるような気がしてなりません(食べ物と本を同じ人間が扱うのって色々と大変そうだなと)。
3月5日
気がつけばもう3月、春に入りました。そして気がつくとどんどん時が過ぎていく。
SNSでの書き込みを少し減らし此方を弄る時間を取るようにしてみました。まずまずと言ったところでしょうか。見ないという
訳ではありませんが、此方の方に書くことを意図的に増やしてみておもうのは、あの手の者は何というか、中毒性があるという
事は身をもってよく分かりました。完全に遮断するとそれはそれで不自由なところもありますが、不毛な争いをめにして神経
がすり減ると言うことは減ったような気もします。いや、まあ、選挙速報が始まった瞬間に阿鼻叫喚の地獄絵図みたいなのが
展開されるとか、なんか生硬なかんじのカタカナ語をゲームの呪文の如く唱えて何か言ったつもりになる人が沢山いるとか、
そういうのを見ているとやはり疲れるんですよね。特に後者については、まあ、なんといえばよいのか、分かりやすく言わな
くてもいいんだと開き直ってるのかもしれないですが、、、。なんか辛いですね。カタカナ語を連呼して何か言っているつもり
という人にはなりたくないものですね。
生硬なカタカナ語を振りかざす人たちの様子を見ていて、ふと西洋の諸概念と格闘し様々な訳語を考えた明治の人たちの
ことを思い返すところがあります。たまたま読んでいる「アジア人物史9」が近代日本の政治,経済、思想、学術で活躍した人物を
中心に扱っている巻で、 我々が「憲法」という訳語を当てているconstitutionという言葉をどう訳すか、様々な言葉を考え、日本語
で伝えようと試みる人々の様子がちょこっと書かれていました。律例とか国憲、根本律法など様々な訳語が考え出されますが(あとは
国制とか政体というのもあります)、そこにはそれを考えた人々の思想なども関係してくるが最終的に「憲法」という訳語になった
ということのようです(なお、「憲法」とすることを嫌がる人には聖徳太子の「憲法十七条」のイメージに引きずられることを
嫌がったと言うことがあるとか)。「国のかたち」を考えるとき、「国のかたち」をさだめるconstitutionをどう訳すかで試行錯誤
を重ねてきたことで、色々と考えが広がり理解も深まるところもあろうかと思います。
外国の概念に自国語の訳語をあてる、そこに費やされた時間や労力はかなりのものがあったでしょう。そうやって
作られた訳語を今の我々は使い、それにより物事が理解しやすくなっています。この辺の手間を省いた言葉が果た
して世の中でどこまで定着するのか,見守ろうと思います。はてさてどうなりますか。
2月24日
少し前になりますが、史学雑誌に「古代マケドニア王国史研究」(東大出版会)の書評が掲載されており、久し振りに史学雑誌を買って
書評の部分をざっと読んでみました。内容の紹介をまとめつつ評者のコメントがつくという感じですが全体的に高評価でした。ただし、
本書の結論への道筋がギリシア征服に収斂することへの違和感はある模様でした。書評で指摘されていたことですが、周辺勢力との関係
のなかマケドニアが膨張路線を迫られなかったのか、軍からの軍事行動の圧力はなかったのかなど、確かに考えた方が良いテーマだよなあと
思いながら読んでいました。
自分が2年前(もう2年前になってしまうのか、正しくは1年と数ヶ月なのですが、足かけ2年というところです)に本書を読んでブログに感想
を書いた時は、この本で展開されている話題がとにかく面白くて、「とにかくみんなこれ読んで欲しいな」という思いが強くでており、
フィリッポス2世のギリシア制覇までの道のりについて、軍制改革で強化された軍からの圧力(戦争が戦争を養う,という感じでしょうかね)
など他の本で見ていた主張と照らし合わせるところまでは出来ていなかったなとふと思いだしました。
やはり、専門書の「書評」は追試実験のような意味合いを持つ物だと思うということは、かなり昔に雑感でも書いた記憶があります。色々と
面白いと思う専門書にであっても、私が出来るのはせいぜい感想を書くくらいです。本格的な書評はその道のプロがしっかりと頁数を取って
書くべき物だと思いますし、書評も業績の一つして扱っても良いのではないかと思います。
それはともかく「古代マケドニア王国史研究」、面白い本なのでいろんな手段で読んで欲しいです。 私
が以前書いた感想はこちら
2月22日
学問的研鑽を積む、というのは何かを探求する姿勢を身につけることではないのかなと思う今日この頃。それ、ちょっと調べたら
間違いだったりデマだったりと言うことがすぐ分かるよなと言うことを確認もせず,誤った情報を党派的な立場からか流し続ける
学術研究者というのはまずいとおもうのですが。一体あなた方は長い年月何をやってきたのかと、、、、。
ルネサンスや科学革命やら、そのあたりの本をちょっと読む機会があり色々と眺めていると、物事を明らかにしようとする取り組み、
物の見方や考え方の方法、そういったものが整備され、より厳密なアプローチが可能となってきているようにみえます。そして、
それは後の時代になるとさらに発展していき今があるように見えるのですが、残念ながらある事柄を探求する道筋、方法、それが
身につくわけではないのでしょうかと、昨今の一部学術研究者の立ち居振る舞いを見ていると、なんとも残念な思いがしてきます。
学を修めるということと、人格陶冶や「より良い」生き方の実践とは別なので仕方ないのかもしれません。ある芸に秀でた人が
人として優れているわけではないというのはまあ分かりますが、でも物事の見方や考え方を磨いて成果を上げてきたきた人が
自分の分野外のことについては極めて雑に振る舞うというのはどうなんだろうなと。それとも、なにか、目立つことをすることが
目的だったのでしょうか。とかく、昨今の「アカデミシャン」というひとたちを見ているとなんかめんどくさそうだなあと。
めんどくさそうな様子の人が沢山いそうだと見えると、その分野には行きたくないなと思う若い世代もでてくるかもね。知らんけど。
2月16日
どうしてもやはり気持ち悪く感じるものというのは誰にでも少しはあると思います。最近(というよりももっと前かもしれませんが)、
自分の興味関心の範囲内では「歴史する」という言葉が非常に気持ち悪く、違和感を感じています。
この得体の知れない「歴史する」という単語、歴史教育関係の本で出てきたり、昨今はやりの「パブリック・ヒストリー」とやら
で目にする機会が多い単語です。歴史教育であれば、知識偏重(単語の丸暗記みたいなやりかた)に対する批判として出てきたり、
「パブリック・ヒストリー」では学術研究の場以外に出ていってそこで学んだことを活かす実践という感じで出てくるようです。
その際に、学問的アプローチに一元化することは学問的であるとみなされない人々の語りを排除することになるとか、それによって
多元的社会や参加民主主義の実現に逆行するおそれがあるとか、子どもにとって歴史を学ぶ意味は何なのかと言う疑問を満たし
にくくなるとか、いろいろなことが言われています。
しかしながら、パブリック・ヒストリーに関しては一般の人がそんなものを求めるのかというと実際にはそれはまずないだろうと
思われる(一般の人たちにとり、中身の是非とか関係なく専門家のお墨付きさえもらえればそれで問題ないという感じになりやすい)、
そこで引っかかりを覚えるところがまずあります。色々な地方に見られる曰く怪しげな伝承も、それはまた一つの歴史的な事柄の
現れともいえるのかもしれませんが、そういうのにお墨付きを与える事に何の違和感も抱かない研究者というのも困るなと。長年
の鍛錬はそんなことのために積んできたのかと、、、。
非学問的アプローチを排除と言うけれども、それと多元的社会とか民主主義が結びつくというのもいまいち分かりかねるところが
あります。多元的とか民主主義というのは何でもありとは違うのではないかなと思ってきましたが、どうなのでしょうか。
そして、「歴史する」「歴史実践」という言葉自体が正直なところ私にはなんだか理解しかねる何かになっています。 何でもかんでも
この言葉使って説明されると、かえって何も説明していないことになりはしないかと。何を持って「歴史」する、「歴史」の「実践」
とするのか、ただただ広がっているだけでなんともよく分からないというのが個人的な感想です。
2月14日
バレンタインデーですね。昨今はこの時期になると色々と変わったチョコレートが入手できるので、面白いです。男女の云々関係なく、
ただひたすらに美味しいチョコレート(チョコレート系のケーキやクッキーなども含む)を求め楽しむ、そういう日として楽しんで
います。まあ、人から貰うより自分で食べたいものを選んで食べる方が楽しいなとおもうので、こんなかんじでいいです。
まあ、土用の丑の日のウナギと違って(あの時期のウナギは実はそんなに美味しくないと聞きます)、これはほんとチョコレート業界
というか製菓業界が総力挙げて美味しいものをがんばって出しているという感じがしますし、いくつか食べてみたりはしていますが。
実際に美味しいものがおおいとおもいます。それに、昨今食べ物の売れ残りや廃棄は問題になりますが、クリスマスケーキや恵方巻きとちがって、
作った後もチョコレートは(ものに因りますが)そこそこ日持ちしますし、チョコケーキとかじゃなければフードロスもしにくいんじゃ
ないかなもおもっていますが、はたしてどうなのやら。
願わくば男女関係なく美味しいチョコをひたすら求める路線で規模をどんどん拡大し、ヤマザキ春のパン祭とならぶ日本独自の奇祭
として定着して欲しいと思っておりますが、どうなることやら。
2月12日
アレクサンドロスの東征軍の兵站は水運、水系に沿って進んでるのか?東征軍のルートにそんなに大量の物資を輸送するのに利用できる川が
そんなに沢山流れていたかなあ、、、、?イランなどの地図を地図帳レベルで見ていてもちょっとそれ厳しいような気がする。ペルシア帝国、
駅伝制を整備して交通網整っていたから、それに付随する物を利用すれば結構色々いけると思うんだけどね。あとは結構現地から調達している
場面は目につきますが。
まあ、一般論として水運の方が多くの物は運べるでしょうし、それにより行軍が制約されるということもあったでしょうが、まずは
確認できそうな所はちゃんと確認すると言うことは大事なんじゃないかなと思います。自分が常に正しくて、相手は何かしら間違って
いるという思考回路がどこかでできあがってしまっているのでしょう、きっと。それにしても何を見てアレクサンドロスの兵站について
そんな考えを抱くようになったのだろうかと、そちらの方に興味がわいてきます。
2月11日
なにやらSNSがらみで新しいところへの移住をするという人たちが増えているようです(実は私も情報をとれなくなると困るので避難場所は
作りました)。完全に無しにすると色々と不便になってきている(飲食店の予約も電話でなくSNSのDMでというお店も結構出てきていますし、
最新情報はそこからじゃないと得られないというのも出てきています)、それを考えるとかんぜんにやめると不便になるのでいろいろと確保は
しています。
ただどうでもいい情報以外は発信しない私のような者からすると,此方の更新にもうちょい力を入れようかとおもいます。読書と雑感くらいは
手を付けられる(歴史の方は調べる時間がないと厳しい)、そのあたりはまめにやっていこうかなと。
SNSって、自分の見たくない物・都合の悪い物はきれいにシャットアウトできる(しかも最近ではご丁寧にもそういうリストをつかうと一括
で排除できる)ということもあるので、どんどん「カルトの信者」のようになってしまいそうですし(実際になってる人はいると思ってみて
います)。最終的な学歴や持っている学位やついている職業に関係なく、自分と異なる意見を一切認めずシャットアウトし、全てデマと見なす
など、物の考え方や物事に対する取り組み方がおかしくなる人はいますね。自分と違う相手の意見はデマ、自分と違う意見の相手にはただただ
呪文の如く決まり切った単語やフレーズを浴びせかける、場合によっては僧兵の強訴のごとき所業におよび自説を通そうとする、これらの類の
行動を取る「研究者」ははたして研究者たり得るのか、たんなる活動家(かなり甘い言い方かと思いますがこのくらいで)なのではないか、
色々とそんなことを考えてしまうことがあります。
そして、そういう人たちに対しては研究費出さなくてもいいんじゃないのか、そこに回っている研究資金は別の分野に重点的にまわすべきじゃ
ないかという声も耳にします。はてさてどうなるんでしょうかね、、、、。私にはあまり関わりの無い世界のことだとは思ってみていますが、
あんまりそういう事態が進むと人生つまらなくなるんだよな、、、。文系の人たちに上述ようなことをやられ、結果研究費カットなどの事態が
おきると、私がおもしろい新しい本を読みたくともなかなか出なくなるような、正直ありがたくないことが思い浮かんでしまうのです、はい。
2月9日
そういえば昨年の下半期ベストを載せ忘れていました。とりあえず。
マギー・オファーレル「ルクレツィアの肖像」新潮社
三佐川亮宏「オットー大帝」中央公論新社
小野寺拓也・田野大輔「検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?」岩波書店
平田陽一郎「隋」中央公論新社
西田祐子「唐帝国の統治体制と「羈縻」」山川出版社
川本直「ジュリアン・バトラーの真実の生涯」河出書房新社
岩ア周一「マリア・テレジアとハプスブルク帝国」創元社
姜尚中(総監修)「アジア人物史6 ポスト・モンゴル時代の陸と海」集英社
荒川正晴ほか(編)「岩波講座世界歴史2」岩波書店
昨年後半はあまり本が読めず選ぼうにもあまり候補がなかったような気がします。でもそれなりには面白かったですよ。どれも。
2月8日
しまったな、また放置してしまった。
今年はせっかくこのサイトのスペースがあるので、SNSなんぞにかまける時間を減らして極力書くようにしようかなと思う。
何かと不安定なのでね、SNSのほうは。ブログの感想更新時くらいはむこうをいじろうかなと。
それはさておき、世界史の教科書については色々と話題になることがあるようです。トータルの頁数や事項など色々な制約がある
中で最大限工夫して書いているというのは良く分かるのですが、なんというか、もうちょっとはっきり詳しく書いていてくれると
分かりやすいのになあと思うところや、何かその当たり最近出ているその分野の概説本とかでも大部変わっているような気がする
けれどいいのかなとか、色々と気になってきます
またどの教科書がよいかということも、教科書を選ぶにあたって、現実のシェアを優先する人もけっこういるようです。本当なら
色々見て比べて選んだ方がいいのだろうと思うのですが、実際に多くの人が使っているからと言う事だけで決めるというのは何か
まずいとおもうのですが、、、、。
あと、教科書について、どの教科書もこの部分は全然駄目というようなコメントをする研究者もいるようですが、そう言われまして
も、いかんともしがたいと言いますか、なら書いてよとしかいいようがないといいますか。まあ、実際に教科書を書く人たちは
ネット上ではあれこれしゃべったりしないでしょうし(というかしゃべったり出来ないでしょうし,いろんな事情で)。
個人的には高校教科書を通読して世界の歴史を理解するのって結構辛いと思うのですが、そんなにみなさんあれを読みやすいと思う
ほど頭が良いのでしょうか、、、、。
1月2日
予定通り、2023年のベストは年明けてから掲載することにしました。ラインナップは以下の通りです。
ディオドロス「アレクサンドロス大王の歴史 」河出書房新社
杉本陽奈子「古代ギリシアと商業ネットワーク 」京都大学学術出版会
新見まどか「唐帝国の滅亡と東部ユーラシア 」思文閣出版
森部豊「唐 東ユーラシアの大帝国」中央公論新社(中公新書)
ピエルドメニコ・パッカラリオ、フェデリーコ・タッディア「だれが歴史を書いているの?」太郎次郎社エディタス
ディーノ・ブッツァーティ「ブッツァーティのジロ帯同記」未知谷
三佐川亮宏「オットー大帝」中央公論新社(中公新書)
平田陽一郎「隋 「流星王朝」の光芒」中央公論新社(中公新書)
西田祐子「唐帝国の統治体制と「羈縻」」山川出版社
川本直「ジュリアン・バトラーの真実の生涯」河出書房新社
どれも非常に面白く読めた本です。小説は大部削ってしまいましたが、ジュリアン・バトラーという架空の作家の生涯をたどる形で
アメリカ文学史を別角度からみていくような本で面白かったので、それを掲載しました。あと、隋唐関係が多いですが、専門書2冊
については、今後このあたりの成果をどう反映していくのかが楽しみです(中公新書の2冊では西田先生の本については言及あります)。
そして、ギリシア史関係ではこの2冊を薦めておきたいなとおもいます。あと、新聞のスポーツ面の記事もこの人の手にかかるとこう
なるのかという点でびっくりしたものもありました。この様なラインナップです。今年は果たしてどうなるか。
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