日々の雑感(2020年1月〜6月)

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6月23日
「日本における〜〜年」ということで色々な国の歴史や文化を紹介する企画が時々あります(日本におけるトルコ年とかそういう感じ)。 それにルイする表現をあえて使うとすると、「日本におけるビザンツ年」と言いたくなる状況が今年の前半(昨年末辺りから見られましたが)、 歴史本の世界で見られました。

アンナ・コムネナによる父アレクシオス1世の伝記「アレクシアス」がでたかと思えば、ビザンツ帝国を訪問した神聖ローマ帝国の使者 がかいた報告書の訳がでたり、年明け早々には7世紀のビザンツを扱った専門書が、3月には直接ビザンツを扱うわけではないのですが バルカン半島の歴史を扱った本がでました。そして今月にはビザンツ帝国に関する新書まで出ています。

さらに7月には、アンナ・コムネナを扱った本が出るという具合で、次から次へとビザンツ帝国を扱った本が出ていますし、結構好評 なようです。何故今ビザンツがここまで注目されるのか、興味深いところではあります。国の位置からして非常に大変なところにある 国ですし、絶えず外部からの侵入に困っているような帝国ですが、それでも1000年に渡り生き残ってきたその歴史に興味を抱く人が 一定数いる(私もそこに入るのかは分かりませんが)、そういう感じでしょうか。

決して軍事的に非常に強力で常に勝利しているという帝国では無い(結構負けてひどい目にも遭っている)、しかしそんな国がいかに して生き残ったのか、大国としての存在感を保ち続けられたのか、その歴史に惹かれる人が多いのかなと言う気はしています。と言うわけ で、中公新書ででた「ビザンツ帝国」、皆さん読みましょう。

6月18日
『プルタルコス「英雄伝」の挑戦』と『マックス・ヴェーバー』を手許にとりよせ、確認してみました。結論から言うと 私が勘違いしていたところがありました。「英雄伝」本のほうでは「伝記的転回」、ウェーバー本では「伝記論的転回」 と言う表記でした。

言っていることについても、一寸違いがあるのかなと。ウェーバー本は人生の軌跡と歴史的背景といった、彼の著作を生み出した文脈を 明らかにしていくということで「伝記論的転回」という言葉を使っています。なお、このウェーバー本はウェーバーがどういう人なのか と言うことを書いているのですが、なんとなく暴露本・ゴシップ本風味な感じで面白いですよ(そういう方向では面白いということです)。

英雄伝本のほうでは、伝記と歴史の距離の変化の話の中で「伝記的転回」という言葉が登場し、歴史と伝記の関係を巡る話の中で使われて いるようです。ということで、両者の言葉の使い方は大部意味が違うような感じをうけました。

6月16日
「伝記論的転回」って何だろうと思い悩む。『プルタルコス「英雄伝」の挑戦』の最初の論文でみかけたのが私の中でははじめなのですが( ドロイゼンのアレクサンドロス大王の本が、21世紀になって「伝記・アレクサンドロス大王」として復刊されたと言う話の前後でみかけた というだけです)、図書館で借りてきた岩波新書の『マックス・ヴェーバー』(今野元著)でも、「伝記論的転回」という単語が使われ、 ようは彼の思想や著作がどのような背景の元で成立してきたのか、その背景の方に重きを置くのかなあと言う感じをうけました。

といったことを書いていてふと思い出しました。『プルタルコス「英雄伝」の挑戦』と『マックス・ヴェーバー』は今手許に無く(出先に 置いてあるのが『プルタルコス「英雄伝」の挑戦』、『マックス・ヴェーバー』は置いてきたような気がするのですが、ひょっとしてなくし たのか微妙な状況。なくしていたら弁償だ)、見直してから書いた方がいいような気もしてきました。まあでもいまふとおもったことを 書き付けておこう。用語がそもそも合っているのか、「伝記論的転回」の内容は果たしてこんな感じだったか、記憶が怪しいです。

読書ですが、ラシュディ「真夜中の子どもたち」の下巻を入手したので読み始めています。あとは村川堅太郎「オリンピア」が文庫で 復刊したのでそれを読んだり、中公新書の「マックス・ウェーバー」をよんだりしました。それにしてもウェーバーだったりヴェーバー だったりと表記が違うのですが、まあいいのかな、この辺は。

6月13日
一ヶ月近く開きましたが、皆様お元気でしょうか。私はなんか忙しい日々が続いていますが、先月よりはまだましだなあと思います。 普通に仕事できるというのがこんなにもたのしいとは。日常が全く以前と同じというわけではありませんが、それでも先月とは大きく 状況が変わりました。正直先月は鬱々とした状態がつづいていましたし、下手したら危なかったかもしれないなあと思うことも。

なにはともあれ、疫病と付き合いながら過ごす日々は続きますが、それでも色々やらなくてはいけないことはあるんで、外には出ています。 誰も彼もそんなにこもっていられるわけではないのですよ、はい。

先月から色々忙しく、読書のペースは大部落ちました。とはいえちまちまと読んではいます。ブログにはビュルガーの「ほら吹き男爵の 冒険」の感想を書きました。荒唐無稽で気楽に読める話というのはこういうときには案外いいかもしれません。流行に乗ってカミュ「ペスト」 でもよもうか、一寸かっこつけてボッカッチオ「デカメロン」、もうちょい渋い方向でマンゾーニ「いいなずけ」とかを読むというのも考え ましたが、一寸気楽な読書がしたい気分だったのでちょうどよかったです。

それにしてもこんな面白おかしい話を語る設定にされた人物の名前が、何故現代においては精神的な病、それも一寸犯罪に絡みそうなところ でしばしば出てくる(病院で代理ミュンヒハウゼン症候群とかに関連する怖い話があり、それを元にしたテレビとかもあったりする)、なぜ そんな扱いになってしまったのか、実在のミュンヒハウゼン男爵もあの世で相当びっくりしているんじゃないかと思うのですが。

今回、「ほら吹き男爵の冒険」の感想をブログに書き、読書コーナーの方にも載せておこうと思ったところ、なんと同じ本を過去に読んで いました。出版社と翻訳者は違いますが、書いた感想が以前読んだときの感想とあまり変わっていないというのは、私はあまり成長していない と言うことなのでしょう、きっと。

5月16日
街中に人がちょっと増えたような気がする今日この頃。今少ないのは連休中の頑張りの成果なのか、はたまた何なのか。でも、 ここで調子にのると元の木阿弥になってしまうのかもしれないという気もしてくる。どうなるんでしょうかねえ。

北魏から隋、唐までを「拓跋国家」として捉えるという見方があります。隋や唐の建国者が鮮卑系であるということはよく言われて いることですが、そこからさらに視点を草原地帯のほうから見るような感じでとらえているような感じを受けます。突厥の碑文で 唐のことがタブガチ(拓跋)として捉えられているということも指摘されています。

個人的には、視点の取り方とか発想は面白いなと思う一方で、それだけで片付けてもいいのかなという違和感をちょっと今になって 感じています。というのも、突厥から見たら唐は「タブガチ(拓跋)」として表されているということは、とりあず突厥から見て南 の中華文化圏にあり草原と境を接するあたりまでを領土にする国家はみなそう呼んでいたとしても、その中身までよくわかった上で いったことなのかなと。いや、まあ、「アレクシアス」を呼んでいると、セルジューク・トルコの人たちを「ペルシア人」と呼んだり、 ペチェネグ人のことを「スキタイ人」と呼んだり、昔の集団の名前で今自国の周りにいる集団のことを表しているという事例もある ので。

あるものの中身はさておき、自分たちの世界で似たものを表す言葉で表現する、なんとなく適用できそうな形で把握するといった くらいのものなのかなと、突厥から見た「タブガチ」については思うところもあります。もっとも、いままでがユーラシア大陸東部 の歴史というと、中国の視点から周りを見るという感じで描かれ、それで学んできた者としては草原の騎馬遊牧民から南の世界を 見ていくという感じで書かれた歴史の本というのはなかなか刺激的ではありますね。草原の歴史をやっている人というと、 ちょっと癖があるなあと思う人たちがちらほら思い浮かぶのですが、まあ、その辺は置いておこう。というわけで、「草原の制覇」は 面白いので是非よんでみてほしいと思います、はい。

5月13日
インターネットの時代、特に江州得怒江州、じゃなかったSNSの発達により、政治家や経済界の人、芸術家や俳優、スポーツ選手などが 自ら情報を発信するのが普通に見られるようになっています。そうなったことで、メディアや第三者を通した情報などいらないという ことを言う人もいます。

なんというか、「自分語り」を過度に信用してはいけないと言うことは考えたことがないのかなと、そういうところがとても気になります。 自ら情報やイメージを発信してコントロールするなんて言うのは歴史上いろいろなところで見られることなのですが、多分そう言うことは 考えないのだろうな。Homines id quod volunt credunt.

5月6日
暦通りであれば連休の最終日ですが、自宅に立てこもって仕事をする状態が続いていると何が何やら分からなくなりつつあります。 とはいえ、あまり疫病関連のことを延々と書くとこちらもなんとなく滅入ってくるので、話題は変えます。

さて、家でビールを買って飲むことが増えてきた今日この頃ですが、「クラフトビール」という名称にこだわる方々がいます。 で、「クラフトビール」とは何かということについてはいろいろな意見が出ています。昔からあるそれなりの規模のメーカー のものであっても、普段そこで作られていないタイプのビールの場合「クラフトビール」と呼んでいる(ドイツの場合はそういう 事例もあるようです。シュヴァルツで有名なケストリッツァーでもペールエールを作っていたり、伝統的でないスタイルのもの はクラフトビールという扱いになっているようです)、一方でアメリカのように小規模で独立しているといった定義を決めて いる国もあります。日本では使い方はごちゃまぜのような気もしますが、はたしてどうなりますか。ただ、アメリカがこう定義 しているからこれから外れるものは「クラフトビール」じゃないというのはどうなんでしょうね。

個人的には、ドイツとかでの使い方の方がしっくりくるところがあります。というか、アメリカ方式の定義で決めた場合、結局頭打ち にしかならないと思うですよね。最初は小規模で独立してやっていてもある一定規模を超えたらその定義から外れる、そして問題が 出てきそうだとその都度基準を弄って変えていくということなわけですが、生産量の基準を大幅に増やしたりしながら 「定義」を維持し続けることに何か意味があるのかと。いじり続けたその果てに待つものはなんでしょう。

定義を設けて、その枠にあるものを「クラフトビール」と呼びたければそれでもいいと思うのですが、そのカテゴリーに安住し続ける と、かえって「クラフト」でなくなっていくような気がします。立ち上げてからしばらくつかうならいいけれど、ある程度いったら 卒業できるくらいのものとして扱った方がいいのではないでしょうか。アイドルグループみたいなものということで(アイドルグループ だって、ずっとそのグループを続けていこうというタイプのものもありますが、いずれそれから皆巣立っていくというか独自の活動 がメインになっていくし)。

4月27日
こう自宅に立てこもって仕事をする日々が続いていると、ネットに繋いで色々見る時間も普段以上に増えています。そんなあるとき、 他人の仕事に文句をつけ、さらにその水準を疑うのであれば、是非ともお手本となる仕事を見せていただきたいと思う案件を見ました。 それができるような人ならとっくにやっていると思うけれど、多分しないだろうな。ご自分の言葉の力、人文学的素養に自信をお持ち のようでしたが、そんな勿体ぶった言い方では、恐らく、話のつかみで失敗して終了するのが関の山だろうなあと思う人なので。

と、ちょっとした毒吐きをしたうえで、なんか少し書こうかなと。

新型コロナウイルスの流行により、仕事の仕方が大きく変わり、それに伴いライフスタイルの見直しも迫られているというのが現状 なのかなと思っています。保育園も休園(ライフライン、インフラ、医療がらみの人たちは預けられるところが多いようですが、 実質休みに近いでしょう)となると、自宅で子どもの世話におわれる家庭が多くなっているのでは無いでしょうか。そんなとき、 どういう感じで家事や育児、そして仕事に自分たちのリソースを割り振るかを考えないと破綻するのは目に見えています。家族の ありかたについて、今までに無く真剣な話し合いをしたご家庭も多いのではないでしょうか。我が家も、そのあたりはいろいろと 考えながら動いていますが、幸運(?)なことに私が意外と子どもの相手をする時間がとれる状況が暫く続くためなんとかぎりぎり のところで回っているというか何というか。でも、5月7日以降はどうなるんだろうかと不安です。

現時点で、今のような状況がいつまで続くか分かりませんが、子どもの相手に時間と体力をかなり注ぎ込んで見て思ったことが一つ あります。誰かに家事や育児をすべて任せて自分は何もしないという生き方は少なくともこれからの時代には引き継ぐべきでは無い かなと。他人の人生を奪っておいて自分のことに全力を注ぐということがどういうことなのか、よく考えた方がいいでしょうね。 なにかを捧げた分は、どこかでその見返りが要求されることになるのですが、果たしてどうなるんでしょうか。部外者としては、 わくわくしながら見て楽しみたくなりますが、当事者となったら堪ったものじゃないでしょうな。子どもにとってもいいことでは無い とおもいます。「私は子どものためにこれだけやったんだ」と自慢げに言う人もいますが、あなたのデザインしたとおりの道以外は 子どもに歩むことを認めないというのは誇らしげに言うことじゃないだろう。

4月26日
その場で集まって仕事をするのと、遠隔から仕事をするのでは、それぞれにメリットとデメリットがあるんだろうなあとは思います。 それぞれの強みと弱みを把握するのには私みたいな凡人の場合、相当時間がかかるとおもいますし、あるいは時間をかけても「下手な 考え休むに似たり」という感じになってしまうかもしれません。それでも、今後の仕事の進め方などを考えていく上で、それは必要な 作業なんだろうなあとは思っています。

こんな状況下、読書はやたらと進んでおり、少し前に買った根津由喜夫「聖デメトリオスは我らとともにあり」(山川出版社)を 読み終えてしまいました。読む時間あるかなあと思ったのですがかえって読書が進んでしまうという、良いのか悪いのかなんとも 言い難いところですが、まあ、いつかなんか役に立つときが来るだろう。あ、一応感想 書きました。

4月22日
事態はさらに悪化しつつあるような気がします。生きるためには働かねばならず、働くためには外に出ねばならないこともある、 でも出歩くと何か面倒なことになるかもしれない、買い物に出ても、何故か混んでいたりして色々心配せねばならない、物も あったりなかったり。果たしてこれがいつまで続くのだろう。

そんな状況で、仕事も在宅勤務が増え、家のことを色々とやらないといけない状況になっています。本については空いている時間、 夜や早朝を使って色々と読んではいます。Heckel,W In The Path of Conquestを電子書籍で斜め読みしたり、 三佐川 亮宏「紀元千年の皇帝」、 そして今日発売日のA.A. ゴルスキー(宮野裕訳)「中世ロシアの政治と心性」を読んで感想を書いてみました。 書店も休みの所が増えたり、営業していても人数を減らしていて新規の注文や取り寄せを受け付けていないところも出てきています。 ネット書店もアマゾンのように生活必需品の方を優先して書籍は送らせたりするところもでています。書籍専用のサイトを使ったり、 あるいは出版社に直接頼む等の手段を講じるしか無いかなと最近は思っています。

なお、サイトの方の読書コーナーでは、洋書については特に紹介していないので(歴史コーナーの参考文献には時々載せていますが)、 Heckelの本の感想は、ブログのみと言うことになります。特にそれでも問題は無いかと。歴史コーナー、もうすこしで書き終わりそう な記事はあるのですが、どうしても書く時間がとれず、読書と雑感ばかり更新してしまいます。

4月1日
2週間前に書いたときに思っていた以上に事態は面倒なことになってきています。自分もなっているかもしれないと思って行動する として、どういうことができるだろう。家のマスクの備蓄が結構危なくなってきているからなあ(外に出すのをある程度抑えてくれる 効果はあるらしいので、マスクをしていると人に移しにくくはなるようです)。

普段からやっていませんが、エイプリルフールなんぞ全くやる気になりませんし、今年はそういう話題を扱っているところもあまり みないですね、、、。目の前で起きていることが嘘であって欲しいと思いたくなることばかりなので、冗談で嘘を言う余裕もないの でしょうか。

こんな状況ではありますが、読書の方はなんか結構進んでいたりします。ブログに感想を書いたのも3月は非常に多くなりました。 2週間前に書いたプルス「人形」意外にも馬部隆弘 「椿井文書」古松崇 志「草原の制覇」佐藤猛 「百年戦争」ヘンリ ク・シェンキェヴィチ「十字軍の騎士」、 と言った具合に、感想を書きたくなる本が立て続けに新刊で出たり、古本で手に入ったりしたのでついつい書きすぎました。2月が 感想ゼロ本だった反動でしょうか。

色々と読みたい本はたまっているので、4月も仕事をしつつ何とか本を読んでいきたいところです。病気にかからないことを願いつつ。

3月17日
それにしても、今回の新型コロナウイルスがここまで面倒なことになるとは思いませんでした。1月終わりとか2月初頭くらいに、 なんか色々大変だなあと思っていたらあれよあれよと学校は休校、大学卒業式は中止、そしてマスクとトイレットペーパーが品薄、 株価乱高下などなどが発生しています。いったいどうなるんだろうか。そしてこんな状況でオリンピック開催して大丈夫か?

特に打てる手が有るわけでも無いので、とにかく体調管理を気をつけていくしかないというのがなかなか辛いところです。博物館 や美術館などはお休みになっているし、図書館も閉まっているので、私としては娯楽が無きに等しい状態です。

まあ、でも読書はそれなりにしていて、ボレスワ フ・プルスの大作「人形」 を全部読むことが出来ました。また、本屋にて「西洋古典学研究」をみかけ、「『英雄 伝』の挑戦」 が紹介されているのをみてなんとなく嬉しくなったり、今月の中公新書をまとめて3冊とりあえず買ってしまったりとまあ、 色々です。『椿井文書』はなかなか面白いので、もしかしたら感想を一気に書くかもしれません。

2月22日
2月に入ってから忙しく、更新は滞り、本もあまり読めず。ブログの方で「2月の読書」の記事しかアップしていない上、そこの冊数が少ない のもそういう状況によります。感想はまだ1冊も書いていないですが、はたしてどうなる。

2月7日
最近、長期的スパンで書いた一般向け歴史書とか、自然科学系の人たちが書いた歴史の本でよく目にするのが、狩猟採集民の生活を ポジティブに、定住農耕民の生活をネガティブに描いている場面です。特に、定住農耕により、人類の生活はかえって悪くなったと 言うような話を目にします。狩猟採集生活を送っていた頃の人類のほうが体格もよく栄養状態もよく、社会的にも平等だったのに 対して、定住農耕生活に入ってからそういった状況が失われていったと言った具合の話のことです。

別に、定住農耕の方が狩猟採集より上であるなどと言うようなことは思っていないのですが、たまたま丈夫な人の骨が残っていた んじゃないのとか、狩猟採集のために移動を繰り返すような生活に耐えられたのがたまたま丈夫な人だったといったことのような 気がしてなりません。それとも、これを強調するのは何らかの意図があるのでしょうか。

個人的には狩猟採集生活を礼賛する人たちは実際にそういう生活を送らなくてはならなくなったときに生きていけるのかなと疑わしく 思ってみております。自分は大丈夫と思っているのかもしれませんが、そうじゃないことの方が多いですし。

2月6日
忙しさにかまけて、すっかり放置しておりました。

この間、忙しいとはいいながら、東京国立博物館へいき、「出雲と大和」展をみてきました。出雲大社の柱とか、大量の銅剣や銅矛、銅鐸 が出土する出雲の文化の独自性というか、その物量で圧倒するような展示だったなあというのが見てからだいぶたってからの感想ですね。

1月1日
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

昨年のベストはバックナンバーの方に回しています。こ ちらからどうぞ。

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