エウメネスの戦い(2)
〜パラエタケネ〜


パラエタケネの戦い(前316年秋(or前317年秋))
  • 戦い前夜
  • ノラ包囲戦の最中、アンティパトロスが死去し摂政の地位をポリュペルコンがひきついだことがきっかけで、カッサンドロスと アンティゴノスが手を組みポリュペルコンに対し戦争を仕掛けました。ポリュペルコンはエウメネスに手紙を送り、アジアにお いて帝国軍総司令官とするとともに軍資金や銀盾隊の指揮権を委ねることにしました。こうして王家の側について戦うことにな ったエウメネスはキリキアにおいて銀盾隊と合流し、さらにフェニキアを経由してバビロニアへ入ります。そのときエウメネス はバビロニア太守セレウコスとメディア太守ペイトンを自分の味方につけようとして両者と交渉するが失敗に終わりました。そ の後エウメネスはアンティゴノスの追撃を逃れてイランまで移動していきますそこには当時ペイトンに対しペルシスの太守ペウ ケスタスを中心に同盟が結成され同盟軍が結集していまいたが、エウメネスはそこに集まっていた東方の軍勢を「王家の側」に 引き入れ、自らの軍として組み込むことに成功しました。一方でアンティゴノスはセレウコスとペイトンを味方につけ、コプラ テス川を渡ろうとしたもののエウメネスが歩兵4000と騎兵1300を以て急襲したために渡河に失敗(前317or前316夏)、エクバタナへと移動して い きました。

    そしてアンティゴノスがエクバタンを出てペルシス地方へと向かうと、アンティゴノスを迎え撃つべくエウメネスは出発しました。 両軍は互いに1日の進軍距離に迫り、斥候を出して様子を探り、互いに川と峡谷のある要害の地に引きこもりながら周辺の略奪と 小競り合いを続けていますが、両軍とも補給が無い状態だったためでした。そしてアンティゴノスがガビエネに後退して補給を確 保しようとしていることを察知したエウメネスは傭兵たちに脱走兵を装わせ、エウメネスが夜襲をかけようとしているという偽の 情報を流し、アンティゴノスが出発を遅らせている間に先回りしようとした。それに気づいたアンティゴノスは騎兵を率いてエウ メネスを追撃、そして両軍が終結して前317(or前316)年の晩秋頃にパラエタケネにて激突することになるのです。

  • 両軍の戦力と布陣
  • パラエタケネで対峙した両軍はどの程度の戦力を保持していたのでしょうか。まず、エウメネス側には歩兵3万5000人、騎兵6100騎、 そして象が125頭(ただし114頭と伝える記述もあり)という兵力がありました。一方、アンティゴノス側には歩兵2万8000人、騎兵 1万600騎、象65頭という兵力でした。その内訳を見ていくと、エウメネス側には銀盾隊とヒュパスピスタイが3000人ずついるほか、 外国人でマケドニア式の装備をした兵士たちやギリシア人傭兵がおり、これらが中央を固めるようになっていました。そして右翼には ペウケスタスや彼自身が率いる部隊も含めた騎兵隊を集め、左翼にも騎兵を配置し、右翼と中央では軍の前面に、左翼では湾曲した ような形で(おそらく半円状か)側面防御のために象が配置され、これら象部隊とともに飛び道具を使う軽装歩兵も並べられていた ようです(エウメネス軍の歩兵のうち1万8000人はどうやら軽装歩兵ではないかと言われています)。

    エウメネスの布陣を見たアンティゴノスは自らは右翼に陣取り、右翼と左翼に騎兵を置き、マケドニア人、マケドニア式の外国人部隊、 ギリシア人傭兵を中央に置き、65頭の象のうち、右翼に半円状に半数近い30頭ならべ、のこりは中央、そして左翼に配置していたようです。 両軍の戦力を見ると、双方ともにマケドニア式の装備をした外国人による密集歩兵部隊が多数存在していることが窺えます。おそらく アレクサンドロスの治世末期に東方の人々にマケドニア式の装備と訓練を施した時の軍隊の名残ではないかと思われます。また、東方 からあつめてきたインドやアラコシア、パラパミサダイの騎兵などもみられます。なお、アンティゴノス側にはタレントゥムの騎兵と いう投槍騎兵がいますが、彼らは実際に南イタリアから来たのではなく、新たに出現したタイプの軽装騎兵のことと見られているようです。

    エウメネスのこの時の布陣は右翼に銀盾隊や精鋭騎兵隊、象を並べて兵力を強化している陣形で、右翼を突撃部隊として用い、中央と 左翼はアンティゴノス軍の足止めとして使うつもりだったのではないかと思われます。エウメネスの布陣は東征中のアレクサンドロスと 同じような感じのものになっていたようです。しかしエウメネスが自軍右翼に兵力を集めているのを見て取ったアンティゴノスは左翼 には騎馬弓兵(メディア、パルティア)や投槍騎兵(タレンティン騎兵)を配置するなど、左翼に騎兵戦力を多めに配置しています。 一方で右翼のほうに象を多めに曲線を描くように配置していることが窺えます。

  • 戦いの展開
  • パラエタケネの戦いは、まずアンティゴノスが動き始めたことにより始まりました。アンティゴノスは丘の上から徐々に前進し、 自分がいる右翼を前に出し左翼を後ろに残す、いわゆる斜線陣の形をとりました。それから左翼のペイトンに騎馬弓兵やタレンティン 騎兵をエウメネス軍右翼に回り込ませるように指示し、彼らは弓や投槍でエウメネス軍の象部隊を側面から激しく責め立てました。 これによってエウメネス軍右翼の象部隊はのっぴきならぬじたいに陥りかなりのダメージを受けてしまいました。

    しかし、右翼が苦境に陥っているのを見て取ったエウメネスはすぐさまその状況を打開すべく手を打ちます。左翼にいたエウダモス 指揮下の軽装騎兵隊を右翼の救援に回し、エウダモスの軽装騎兵と軽装歩兵がアンティゴノス軍左翼に襲いかかります。そして象部 隊もその後に続き、結局ペイトン率いる左翼部隊は後退を余儀なくされます。こうしてアンティゴノス軍左翼は潰走してしまいました。 それと同じ頃、両軍の密集歩兵部隊が中央でぶつかり合っていましたが、エウメネス軍にはマケドニア人部隊最強の銀盾隊がおり、 彼らがいわばエウメネス軍において“槍の穂先”としての働きを果たすことになります。彼らの活躍もあってエウメネス軍が優位に 戦いを進め、アンティゴノス軍の密集歩兵部隊は劣勢になっていきました。

    しかし、自軍左翼が潰走し、中央の密集歩兵も劣勢に立たされているアンティゴノスは撤退を勧める部下の言うことを聞かず、反撃に 打って出ます。エウメネス軍は銀盾隊を先頭に続々とアンティゴノス軍追撃に入っていましたが、彼らが丘の近くまでアンティゴノス軍 を追撃する過程で隙間が生じてしまいました。そこにアンティゴノスは自分の手元に置いてあった右翼騎兵部隊を突撃させたのです。 この攻撃はエウメネス軍左翼の不意をつく形になり、エウメネス軍左翼は後方の丘の付近にまで追いつめられてしまいました。自軍左翼 が危険であることを知ったエウメネスはアンティゴノス軍を追撃していた中央と右翼の軍に追撃を辞めて終結するよう指示を出します。 一方でアンティゴノスも自軍の兵力を再び結集しますが、両軍とも疲労の限界に達していたためか戦闘は行われませんでした。この時、 エウメネス軍はエウメネスの指示に兵士たちが従わない様子がかかれ、アンティゴノス軍は纏まっていたように書かれています。 結局エウメネス軍は戦場にとどまることができず、戦場にとどまり戦死者を埋葬する権利を得たアンティゴノスが勝利を宣言します。 しかし勝利を宣言したアンティゴノスにもエウメネス軍を追撃する余力はなく(損害はアンティゴノス軍のほうが多い)、両者の決着は つぎのガビエネの戦いに持ち越されることになります。

  • 何故エウメネスは勝てなかったのか
  • エウメネス軍が結局最終的に勝者となれなかった理由としてよく言われることとして、当時のエウメネス軍内部では指揮系統がうまく機能 していなかったためであると言われています。パラエタケネの戦いでエウメネスが戦場に戻り戦死者を埋葬する権利を得ようとした時に 兵士たちがそれに従わなかったと言う話が伝わっています。エウメネスは前319年にアンティゴノスと戦ったときに自軍内部で裏切り者が 出て敗北したことがあるように、パラエタケネの戦いに至る前の段階でマケドニア軍の将兵の中にエウメネスに従わない物や彼の指揮下に はいることを良く思わない者がかなりいたようです。最強の部隊である銀盾隊もエウメネスに従うことを当初拒否していますし、エウメネス と合流したペウケスタスも自分が指揮権を取りたいと思っていた人物です。そのような人々が集まっているのでは指揮系統が混乱を起こす ことも十分あったでしょう。また、彼自身も将兵の裏切りを恐れ象部隊の指揮官たちから多額の借金を意図的にしたり(要するに死ねば金 が返ってこなくなるためうかつなことはできなくなる)、自分の廻りに多くの兵士を置いて安全を確保したり、アレクサンドロスの権威 を最大限利用するなどの工夫を凝らしていましたが、それでもやはり将兵がこの時点ではまとまりを欠いていたようです。アンティゴノス 軍左翼と中央の追撃戦の時にできた隙間もおそらく指揮系統の乱れにより左翼が右翼と中央の追撃戦について行くことができなかったために 生じたものではないかと言われています。

    追撃戦に出た右翼とそれについて行けない左翼の間に隙間ができるという展開はガウガメラの戦いでも見られましたが、ガウガメラの時 のペルシア軍は計画的にそこをついたわけでなかったのに対し(しかも後方の略奪に終始している)、アンティゴノスの場合はこの展開 をある程度想定していたのではないかと思われます。戦いの始まりはアンティゴノスが自軍右翼を前進させて斜線陣の形を取って始まっ ていますが、これによりエウメネスが兵力を集中した右翼の部隊によってアンティゴノス軍左翼を包囲したり潰走させようとすればどこか で隙間が生じる可能性は高くなるとおもわれます。そこでまとまりのある軍隊であれば問題はなかったのだと思いますが、当時のエウメネス 軍は前述のように将兵のまとまりに欠けている軍であり、全軍挙げての追撃ができず隙間を生じてしまったのでしょう。


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