ジョン・ウィクリフ
〜逆引き人物伝第10回〜


世界史の授業で「宗教改革」について習うとルター、カルヴァンと言った辺りの話はかなり詳しくされているように思われます。 また、イギリスだとヘンリー8世の話がよくでてきます。しかしイギリス(厳密に言えばイングランドでの事例ですが)では ヘンリー8世が国教会をつくる100年以上前に当時の教会を批判した人物がいました。それが今回取り上げるウィクリフです。 14世紀後半に活躍し、その思想がチェコのフスに影響を与えたと言われている人物ですが、彼は実際の処どのようなことをした のでしょうか。

  • きわめて不確かな生涯
  • ウィクリフについて、その人となりについて正確な事を書くことは無理なようです。彼の生涯の概略を示す年表らしき物は一応 作られてはいますが、それも不確かであると言われています。その不確かさは生まれた年が正確には分からず、1320年代のどこか と言うことでしか表しようがないということにもあらわれています。ある本では1324年頃、また別の本では1328年頃とされていますが、 生まれた後に彼がどのように育ったのかと言うことも全く分からない状態です。

    また、ウィクリフはオックスフォード大学で長年にわたり学問研究を続けていた人物でも知られていますが、彼がオックスフォード 大学に入った時期も正確なことは分かっていません。これもまた推測の域を出ないのですが、1354年頃のことであると言われています。 当時のオックスフォードの研究コースは自由7科(天文、数学、論理学など)をおさめる教養コースを終えると修士となり後半の医学、 神学、法学などをおさめて博士となると言う形になっています。ウィクリフは1358年に修士学位を取りましたが、修士となることにより 大学の管理機構の一員となるのが当時のオックスフォード大学だったようで、彼も1358年にベイリオールカレッジの学寮長となっています。 大学に入学してから長い間研究活動を続け、ここで博士号をとるのは1372年のことでした。

    この間、ウィクリフは哲学的な著作の執筆にとりかかり、「論理学」や「存在に関する全書」を著した事が知られていたり、1370年頃 より神学の講義や聖書本文に関する講義を行っていたと言われています。哲学者としてのウィクリフの立場は彼より前の世代にあたる ウィリアム・オッカムらのような唯名論ではなく実在論者であり、実在論を弁護する立場に立っていました。そして唯名論が異端に つながっていくことや三位一体論の正統的理解に反するとも考えていましたが、そんな彼が後に異端者として扱われるということは皮肉 なことと言えるでしょう。また、この間聖職禄をもらい、それによって生活を維持していたと言うことも知られています。かれが晩年に 隠棲することになるラタワースの聖職禄をもらったのは1374年のことでした。

  • 表舞台へ
  • 1372年頃までのウィクリフの歩みを見ていると、このままの調子で人生を歩み続けていたならば彼は特に歴史の流れの中で注目を集める 人物になるような要素は見られないのですが、宮廷での仕事にはいるように要請されてから人生は大きく変わっていきます。なぜ招かれた のかというと、教皇とイングランドの間で続く対立をなんとかするべく派遣された使節の一人に加わるように求められたためでした。当時 聖職叙任や課税を巡って教皇とイングランドの間で問題が生じていたため、教皇庁の役人と協議するためにブリュージュへと1374年に派遣 された使節の一人がウィクリフでしたが、話の進展にはあまり影響を与えなかったようです。しかしこのことがウィクリフのこの後の活動 に強い影響を与え、この体験をもとにして代表作の一つと見なされる「世俗的支配権について」を著したのでした。

    「世俗的支配権について」は「神の支配権について」と同じ頃に執筆された著作で教会の世俗化や教会が財産を持つことを批判し、そこで 国家による教会財産没収についても認めるような論を展開した。ウィクリフの論は貴族の支持を集め、彼は実力者ジョン・オブ・ゴーント の保護を受けるようになります。ジョン・オブ・ゴーントの招きによりロンドンにやってきたウィクリフはそこで説教を行い教会財産の 没収や世俗化批判を説くことになります。このような主張が貴族達の支持を集めたのですが、一方で聖職者から批判され、1377年2月に彼は ロンドン司教コートニーによって裁判にかけられますが、ジョン・オブ・ゴーントらの支援により裁判は決着を見ないまま大混乱のうちに 終わってしまいました。また同じ1377年5月にはついに「世俗的支配権について」の内容を知ったローマ教皇グレゴリウス11世がウィクリフ を有罪として捕らえるよう勅書を送りつけてきましたが、それは実行されなかったどころか政府はウィクリフを顧問として雇うという事すら 行っています。1378年には2度目の裁判に巻き込まれますが、この時の裁判も結局ロンドン市民が乱入してうやむやのうちに終わっています。

    このころのウィクリフは政府に顧問として雇われ有力者の保護を受けながら、教皇から独立した国教会を作ることを提案したり、教会の聖域 権を巡る論争に巻き込まれたりしつつ、著述の方も長年の聖書研究の成果をもとにした「聖書の真理について」や「教会について」、「国王 の任務について」、「教皇の力について」といった作品を書いていたことが知られています。こうして神学者として様々な著作を残し、権力 者の保護を受けながら教皇に対する批判を行うなどの活動していたウィクリフですが、1379年になると著作が原因で状況が一変する事態を引 き起こすことになります。

  • 異端者ウィクリフ
  • それまで権力者の保護も受けていたウィクリフが一転して異端者と見なされるようになる原因は「聖餐について」と言う著作でした。その 内容はパンと葡萄酒がキリストの肉と血に変わるという化体説を批判するもので、彼はミサとは教会が人々を支配するための偽りの儀式 であると考え、1379年よりそのような内容の講義を行い、さらには著作にしてしまったのでした。このような動きに対し、教会財産没収を 訴えた時にはそれを支持した人々もこれに対しては批判し、彼を守ってきた大学ももはや安息の場ではなくなります。1380年、大学では 彼の教説を審議する委員会を開き、そこで彼は有罪であるという結論に達します。またジョン・オブ・ゴーントは事を荒立てないように 勧告するべくオックスフォードへやって来ますが彼はそれも拒絶してしまい、結局保護を失ってしまいます。

    さらに事態を悪化させたのが1381年に始まったワット・タイラーの乱でした。この農民反乱の際に殺されたカンタベリー大司教サドベリー の後任がかつてウィクリフを裁判にかけたコートニーであり、彼は教会会議を開いてウィクリフを非難し、ワット・タイラーの乱と結びつ けようとしました。また農民反乱として有名なこの出来事の指導者の一人ジョン・ボールが死刑執行の前に自分がウィクリフの弟子であった という自白をおこなったといわれています。このような中で結局大学当局もかばいきれなくなっており、ウィクリフはオックスフォードを離れ ラタワースへと隠棲せざるを得なくなったのでした。そしてウィクリフ自身は1384年に死ぬまでここで著述に専念することになりました。 なお、オックスフォードにはウィクリフの説を支持する彼の友人達が多数残っていましたが、彼らも異端として攻撃されるようになり、 ある者は説を撤回し、またある者は国外へ逃亡する事を余儀なくされたと言います。なお、彼の死体は1428年に異端として遺骨が掘り出され、 焼却処分に処されてしまいました。

    このように最後は異端として扱われることになったウィクリフですが、彼の業績として聖書を英語訳したと言うことがよく知られています。 ウィクリフは「聖書の真理について」で既に聖書を最高の権威として考えていましたが、まだ聖書を訳すと言うところまでは行っていません でした。しかし1384年に彼が死去した時点で聖書の英語訳が既に筆写されており、彼が聖書を英語訳し始めたのは1378年から1382年の間の どこかであると考えられています。完成させたのは彼の支持者達であり、1407年に禁止令がでるまで多数の写本が作られ、現在200部の写本 が残されています。


    (本項目のタネ本)
    A.ケニー(木ノ脇悦郎訳)「ウィクリフ」教文館、1996年
    E.ロバートソン(土屋澄男訳)「ウィクリフ 宗教改革の暁の星」新教出版社、2004年
      今回の記事ではこれらの著作を参考にしています。前者はウィクリフの哲学や神学についての著作の内容を結構詳しく紹介しているので、 ウィクリフがどのような考えを持っているのかを知りたい人にはお勧めです。後者はウィクリフが宗教改革の先鞭を付けたという見解の もと、ウィクリフ以後の宗教改革などについてもどのような影響を与えたのかという点からまとめていきます。

    とりあえず第1巡目はここで打ち止め、新たに第2巡目を近日中に開始します

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