ウィリアム・シェイクスピア
〜逆引き人物伝第13回〜


「逆引き人物伝」第13回はウィリアム・シェイクスピアを取り上げます。シェイクスピアの劇というと今でも色々な劇団で上演 されていますし、映画化される作品もあります。また英語の言い回しにはシェイクスピア劇の台詞からとられたものがかなりある ほか、イギリス人の歴史観にも影響を与えていたりします(極悪人としてのリチャード3世というイメージから、百年戦争は英国 が勝って終わったと言う見方(佐藤賢一「英仏百年戦争」序を参照)までいろいろです)。では、シェイクスピア個人については どのようなことが知られているのかと言うと、実は彼の生涯については分からないことが多く、ある時期によってはほとんど欠落 しているところもあります。そんな中でまとめられそうなところだけでもつまみ食い的にまとめてみようと思います。


  • ストラットフォードでの日々
  • シェイクスピアの生涯について同時代の様々な記録や同時代人の書き物から生涯を推測することは可能です。大抵の伝記はそれ に依って成り立っています。まず、彼は1564年にイングランドのストラットフォード・アポン・エイヴォンに生まれました。彼の 誕生日は4月26日に洗礼を受けたと伝えられていることから当時の社会的慣習(洗礼は出産から3日後)に従って4月23日という日付 が導き出されています。父親のジョンはストラットフォード近郊の小村で農家の長男として生まれたが家業を継がずストラットフ ォードに徒弟奉公のために出てきました。そして革手袋商人として成功すると町の政治に参加するようになり、ついには町長、主席 都市参事会員にまで出世します。母親はかつてウォリックシャー一帯に大きな勢力をふるった名門の家系で、ストラットフォード 近郊に住む地主の出でした。シェイクスピアの生家はこのように地元ではかなり有力な家であり、父親は商売上の成功や町政にお ける地位(町長、首席参事会員等々)を足がかりにしてジェントリ層になろうとしたようで、1576年には紋章院に紋章使用許 可を申し出ていたことが知られています。しかしまさにそのころから家業が傾き始め、負債を抱え込み1577年頃からは町議会の欠席 が続き、礼拝にもいかなくなりました。それでも町の人々が10年間も彼を町議会から除名しなかったというとこからシェイクスピア の父親の人徳が偲ばれますが、家業の没落ゆえにシェイクスピアはグラマースクールを出てから大学に行く事はできませんでした。

    ストラットフォードで過ごした少年時代というのはシェイクスピアの劇作家としての活動にかなり影響を与えたといわれています。 まずグラマースクール時代は古典を読まされますし古代の劇に触れる機会がありました。またストラットフォードに劇団が地方巡業 でやってくることもありました(1569年にシェイクスピアの父親が劇団への支払いを命じています)。また彼の劇には神話や伝説、 迷信や昔話等々田舎の民俗文化の要素も色々な形でもりこまれていますし、1575年にエリザベス1世が中部地方を行幸した時の催し 物も見ていたか話を聞いて知っていたようです。

  • 「失われた年月」・結婚・ロンドンへ
  • グラマースクールをでた後から、ロンドンでの活動が確認されるまでの間に何があったのかは実はほとんど分かっていません。推測の 域を出ない話ではありますが、イングランド北部のランカシャーで有力者の家で教師をしていたとも言われています。なぜグラマースク ールを出たばかりの若者がランカシャーに行き、そこで教師をしていたのかということについて、最近では宗教的な要素との関わりが指摘 され、現在も議論が続いているようです。それによるとシェイクスピアの学んだグラマースクールにはカトリックの教師ジョン・コタム がおり、コタム家の土地があった関係でランカシャーの有力なカトリック教徒の家の家庭教師としてシェイクスピアが推薦されたという わけです。シェイクスピア家の宗教事情は母親は恐らくカトリックであり、父親も表向きは宗教改革派でもカトリックと接点があったと 考えられており(カトリックへの篤信を表明する「信仰遺言書」が残っている)、シェイクスピア自身も隠れカトリックであった可能性が あります。そう言ったことからランカシャーへ送られたようです。また1581年の時点でも彼を雇っていた貴族ホートン家の遺言書にシェイ クスピアとおぼしき人名が書かれていることからまだランカシャーにいたようです。

    その後ストラットフォードにもどってきたシェイクスピアは1582年、18歳のときに8歳年上のアン・ハサウェイと結婚しました。結婚から 半年後に長女スザンナが誕生していることから結婚した時点で既にスザンナを身籠っていていました。その辺の事情もあって結婚をかなり 急いだのではないかとも言われていますが、真相は定かではありません。アンとの結婚生活については彼の劇に見られる結婚があまり良い 物ではないことが多いこともあって仲睦まじいとは言い難かったと言われることが多いですが、シェイクスピアはロンドンに出てから引退 するまでは滅多に家には戻りませんでした。また遺言でも「二番目によいベッドを家具付きで」与えると言うことしか触れられておらず、 この2人の間には何かあったのではないかという疑いを抱かせるには十分すぎる状況ではありますが…。それでも二人の間にはスザンナ以外 にも子供ができ、1585年には双子の長男ハムネットと次女ジュディスが誕生しました。

    結婚してからロンドンに出るまでの間のシェイクスピアの活動について分かっていることはありません。ロンドンに出た理由もいくつかの 伝説が残っていますが定かではありません。鹿泥棒が原因でいられなくなったという伝説もありますし、カトリックに対する取り締まりが 強化されたために居づらくなって逃げようとしたと言う説もあります。結婚から1592年までの間のシェイクスピアについては分かっていな いのですが、1585年以降のどこかで何らかのつてを頼って劇団に入り俳優になったと可能性が高いようです。俳優になるきっかけも伝説で は劇場入り口で馬番をしていて目にとまったということになっていますが、それもよくわかりません。1587年には地元ストラットフォード で女王一座という劇団が公演を行っているので、そのときに劇団に飛び込んだとも言われていますがこれも証拠はありません

  • 演劇の世界に身を置く
  • 時期や経緯は定かでないものの、彼はロンドンに出てきて俳優をやるだけでなく次第に脚本を書くようになりました。シェイクスピアが 初めて書いたとされる『ヘンリー六世』三部作は1590年前後に書かれ(一部他人の手による部分もありますがほとんどシェイクスピアが書 いています)、1592年の上演では大成功を納めたことが会計記録から知られています。同じ年にロバート・グリーンが『なけなしの知恵』 において「成り上がり者のカラスがいて…(中略)…、虎の心を俳優の衣に隠して(←この部分は『ヘンリー6世』の台詞のもじりだと言 われている)…(中略)…、そして国中で唯一人の芝居作りの名人(シェイク・シーン)だと思っている」と新進の劇作家シェイクスピア への諷刺と思われる文章を記していますが、既にこのころある程度成功を収めていたことからこのような事を言われたのでしょう。シェイ クスピアがロンドンにやってきた頃、演劇界では「大学才子」と呼ばれる人々が活躍していました。オクスフォードやケンブリッジを出た 彼らからするとグラマースクール止まりの田舎者がのし上がってきていることはかなり脅威だったのでしょう。大学才子と呼ばれた人の中 にはシェイクスピアと並びこの時代の演劇界にその名を残すマーロウのような人物もいましたが、彼も含めて多くは若くして死んでしまうか、 貧しさの中で死んでいったのに対し、シェイクスピアは1594年には宮内大臣一座という劇団で俳優兼作家、さらには劇団の経理責任者の一人 にまでなっていました。「大学才子」たちと歩む道がここまで違った原因にはシェイクスピアが彼らと比べて道徳的に保守的でありなおかつ 慎ましかった事が関係するのでしょう。

    シェイクスピアの劇作家としてのキャリアは『ヘンリー六世』三部作(1590-92年)に始まり、『リチャード三世』『間違いの喜劇』『じゃ じゃ馬ならし』『タイタス・アンドロニカス』などを次々に発表し、さらに役者としても活動していました。また詩人としての活動も知られ ており、『十四行詩(ソネット)』は特に有名です。1596年頃には『ロミオとジュリエット』、『夏の夜の夢』、『ヴェニスの商人』、『ジョン 王』、『ヘンリー4世』を書き上げ、発表しています。この1596年という年は紋章認可がおりるという20年前に父が果たせなかったことを ようやく実現できたという点で大きな成功があった年でもあります。シェイクスピアは故郷を離れロンドンで成功し、1597年にニュープレイス に家を購入してそこに家族を引っ越しさせています。いっぽうで1596年には長男ハムネットが死去するという悲しみにも見舞われました。

  • 劇作家としての成功
  • しかしハムネットが死んでも仕事に追われる日々は続いており、劇作家としての活動だけでなく劇団運営にも関わっていたと思われます。 しかし宮内大臣一座が拠点を置いていたシアター座の所在地の地主と劇団の契約更新交渉がうまくいかなくなり、ついにシアター座が閉鎖 され、宮内大臣一座は財政状況が悪化し人気のある台本4冊を売り払うという事態に陥ります。そんななかでついに1598年年末に宮内大臣 一座の人々は夜のうちにシアター座を解体して劇場を引っ越すという手段に訴えることになります。そして1599年には新しい劇場グローブ座 ができあが、シェイクスピアはグローブ座の株の十分の一を保有していました。グローブ座の運営は共同経営方式をとり経費を分担で共同出資し、 利潤は出資金額に応じて分配する経営でしたが、シェイクスピアはそこで事実上経営者となったわけです。作品のほうでは1598年以降『空騒ぎ』 『お気に召すまま』『十二夜』、『ヘンリー5世』、『ジュリアス・シーザー』、四大悲劇といわれる『ハムレット』『マクベス』 『オセロ』『リア王』を書いたり、「問題劇」と言われる『終わりよければ全てよし』『尺には尺を』、『アントニーとクレオパトラ』『アテネ のタイモン』、『冬物語』を経て、最後となる『テンペスト』を執筆と言った具合に短い間に多数の作品を書き残しています。

    劇作家としてシェイクスピアは人気を博し、さらにエリザベス1世の次のジェイムズ1世が宮内大臣一座の新しいパトロンとなったことから 劇団は国王一座と名を変え、さらに国王の御前公演も度々行われ、宮廷上演と一般上演の収益の分け前、賃貸料の配当等々を得て金持ちに なったシェイクスピアはストラットフォードの不動産や十分の一税徴収県に投資したことが知られています。さらに1608年にはブラックフラ イアーズ座も手に入れ、グローブ座とは異なる屋内劇場という利点を生かした劇を作っていった事も知られています。劇作家としては1611年 の『テンペスト』が単独で書いた最後の作品となり(その後3本『二人の血縁の貴公子』『ヘンリー8世』『カルデーニオ』を若手劇作家 フレッチャーと共作してますが)、このころからストラトフォードに戻っていたようです。その後はロンドンで不動産投資をしたり(1613年) しながら、故郷で過ごしていましたが、1616年4月23日に没しホーリー・トリニティ教会に葬られました。


    (本項目のタネ本)
    スティーヴン・グリーンブラッド(河合祥一郎訳) 「シェイクスピアの驚異の成功物語」白水社、2006年
    福田陸太郎・菊川倫子「シェイクスピア」清水書院(人と思想)、1988年
    フランソワ・ラロック(石井美樹子監修)「シェイクスピアの世界」創元社(知の再発見双書)、1994年
      今回の記事ではこれらの著作を参考にしています。このなかで、最近の研究動向を活かしながら従来のシェイクスピア像より刺激的な 話を書いているのがグリーンブラッドの評伝です。「人と思想」シリーズはかなり手堅くまとめたシェイクスピア伝、ラロックの著作 はシェイクスピアが生きた時代について数多くの図版とともにまとめています。

    次回は「ウ」で終わる人物をとりあげます。

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