ラクシュミー・バーイー
〜逆引き人物伝第2回〜


逆引き人物伝の第2回目は「イ」で終わる人名と言うことでラクシュミー・バーイー(1835〜1858)を取り扱います。 彼女が歴史の表舞台に現れて活躍したのはごく僅かな期間でしたが、彼女の活躍はインドの人々に強い印象を与え、今も その名が伝えられている人物です。


  • 生い立ち
  • ラクシュミー・バーイーの生年に関しては色々な説があるようで、1820年代に置く物もあれば1830年代とする説もあり ます(本項目では日本大百科全書のラクシュミー・バーイーの項目に従い1835年としておきます)。彼女の幼名マヌカルニカ はガンジス川の持つ名前の一つからとられたもので、幼少期の彼女については父親から武器の扱いから乗馬の手ほどきなども 含めて様々な教育をうけたといわれています。また幼少期を当時マラータ同盟最後の宰相バージー・ラーオ2世が隠棲していた ビトゥールで過ごしていたため、バージー・ラーオ2世の養子で後にインド大反乱で活躍するナーナー・サーヒブが遊び友達で あったという話も真偽のほどは定かでありませんが伝えられています。ジャーンシー王国の王に嫁ぐまでの彼女についてはその 生まれた年も含めて余りはっきりとしたことは分からないようです。

  • ジャーンシー王国
  • やがて1842年に彼女はインドの藩王国の一つジャーンシーの王ガンガーダル・ラーオに嫁ぎます。ジャーンシーは インド中部にあり、デカン高原とヒンドスタン平野の接点に位置し古くから交通の要地として発展した場所で、ジャーンシー 王国は数多くのインド藩王国の中ではむしろイギリスと対決しないことで国家の延命をはかってきた王国でした。ガンガーダール・ ラーオとラクシュミー・バーイーの間には1842年の結婚後、51年には子供が生まれた物の生後3ヶ月ほどで死んでしまい、1853年に ガンガーダル・ラーオが死去したときには死の1日前にとった養子がいたものの嫡子不在の状態でした。このことがジャーンシー王国 のイギリス東インド会社による併合をまねき、さらにラクシュミー・バーイーをイギリスに対する反乱へ駆り立てるきっかけとなった のです。

    インドの植民地化を進めるイギリスは当時失権政策を進めて領土を広げていました。失権政策とは王家に嫡出児無き場合には養子に よる継承を認めず、王国はイギリス東インド会社に併合されるという政策でした。この政策によりイギリスに征服されていなかった 藩王国も次々にイギリスの支配下に置かれましたが、反英でなかった勢力ですらその適用は免れず、ジャーンシーはイギリスの支配下 に置かれることになります。1848年に失権政策が行われる前であれば、死の1日前にとった養子ダーモーダル(ラクシュミー・バーイー の銅像が背負っているのはこの子だそうです)の後見人としてラクシュミー・バーイーがジャーンシーを統治していたはずですが、 当時のイギリスは親英勢力であっても失権政策を強硬に適用していたようです。

    当初、彼女は決して反英的ではなく、イギリスと交渉することでジャーンシー王国が復活できると信じていたようなところもあったの ですが、それはかないませんでした。結局ジャーンシーはイギリス領となり、1854年にジャーンシー併合が行われ、併合命令が 彼女のもとに伝えられます。特使から命令が伝えられたときに彼女は「我がジャーンシーは決して放棄しない」と言い残して城を開け 渡し、ジャーンシーの武装(歩騎あわせて5500、ゾウ32頭、大砲4門)は解除されます(それに変わって東インド会社からシパーヒー が送られ、彼らが駐留することになります)。こうしてジャーンシー王国はイギリス領となりますが、それとともに様々な変化が起こり はじめます。ジャーンシーの宮廷人や軍人、手工業者達が王国が併合されるとともに没落していきます(彼らの生きる場所が無くなったり、 製品のお得意様がなくなるわけですから)。また、イギリスはジャーンシー市内において牛の屠殺を許可したり(牛はヒンドゥー教では 聖なる動物です)、ラクシュミー寺院(王家の信仰が篤かったといわれます)の所領を接収するなど現地人の宗教感情を逆撫でする政策 をとります。ラクシュミー・バーイーも牛の屠殺の件で講義するなど現地人の反感が強まっていくなかで反乱の気運が高まっていったよう です。

  • 反乱勃発
  • ジャーンシー併合から3年後の1857年に勃発した大反乱が3年間目立った動きを見せなかった彼女を歴史の表舞台に立たせる ことになります。57年5月に反乱が起き、6月には遂にジャーンシーでも反乱が起こります。そしてジャーンシー市民も加わった 反乱によりジャーンシー城に立てこもるイギリス軍は降伏、その後イギリス人捕虜が殺され、ジャーンシーの反乱は一段落つきます。 ジャーンシー併合後表向きは親英的立場を取っていましたが、反乱勃発時点でのラクシュミー・バーイーの立場はどのようなもので あったのでしょう。表向きはイギリス人殺害にたいし遺憾の意を表し反乱と無関係というポーズをとりますが、ジャーンシーの反乱 でイギリス人捕虜が殺されてしまったという出来事は彼女の関与の有無と関係なく彼女の立場を悪くしていきます。

    ジャーンシーで反乱を起こしたシパーヒー(セポイ)たちはラクシュミー・バーイーを支持せず6月11日にジャーンシーからデリーへ 行ってしまいます。彼らは王の親族の男性を王として立てようとしたのですがうまくいかず、結局反乱を起こしたシパーヒーと彼女 が結びついて反乱政府を樹立するという形(シパーヒーと現地有力者が結んで反乱政府を樹立すると言うパターンは結構ありました) はここジャーンシーでは見られませんでした。そして、シパーヒーが去っていったこの時以降歴史の前面に躍り出て政治家・軍人と しての彼女の活躍が見られるようになっていきます。

  • 反乱軍指導者として
  • シパーヒーが去った後、ラクシュミー・バーイーがまず闘ったのはイギリスに忠誠を誓う領主や地主達であったと言われています。 イギリスによる植民地化が進む一方、インド人の中にもイギリスと結ぶことで勢力を保ち、様々な利益を引き出していこうとする 人々はいました(ジャーンシー王国にしてもイギリスよりの立場を取って王国存続をはかってきた歴史があります)。しかし大反乱 勃発後シパーヒーが撤退してしまったため、彼女は私財をはたいて兵を集め、これらの勢力と闘ったようです。ラクシュミー・ バーイーの場合、周辺の領主や地主達と戦いながら力を強めていき、これらの戦いによりイギリスからは危険視されるようになりま す。親英勢力と敵対詩、それを破りながら勢力を強めるラクシュミー・バーイーのもとには反英感情の強い民衆が集まったり、反英的な 領主がジャーンシー防衛に協力するといったことから警戒もされますし、なによりジャーンシーにおけるイギリス人捕虜虐殺の件で彼女 を断罪しようという姿勢へとシフトしつつあったようです。ただし、このような戦いを経てラクシュミー・バーイーは中央インドで非常に強い 力を持つ勢力へと発展し、後に周辺勢力がイギリスと結んで反乱勢力を孤立させるという現象を生じさせないという結果をもたらします。

    このように1857年夏以降周辺勢力と闘いながら力を強めていたラクシュミー・バーイーの目の前にイギリス軍が姿を現したのは 1858年3月22日のことでした。攻め寄せるイギリス軍は最新の装備で固めていましたが、ジャーンシー軍は英軍を相手によく闘い、 さらに同年3月31日になるとジャーンシー城にはタートヤ・トーペーが援軍として加わりイギリス軍を襲撃しています。ジャーンシー 城では女性達も兵士として闘っていたことが知られています。看護兵、砲手、弾薬運び、さらには通常の兵士としても女性が戦いに 参加しており、ラクシュミー・バーイーの活躍とあわせて強い印象を与えたようです(のちにチャンドラ・ボースは第二次大戦中に 女性部隊を結成していますが、その名前は「ジャーンシーのラーニー」連隊でした)。このようにイギリス軍に対して激しく抵抗した ものの4月3日にジャーンシー城は遂に落城します。しかし彼女は城と運命をともにするのではなく城から脱出してタートヤ・トーペー など他の反乱勢力とカールピーにて合流し5月一杯戦い続け、5月末にはグワーリヤル城を攻略してここを占領します。しかし再び反乱 を拡大するまでには至らず6月半ばにはグワーリヤル城は陥落、彼女は戦死したのでした。


    以上、タネ本をもとにラクシュミー・バーイーの生涯を適当にまとめてみました。世界史全体の流れの中で彼女の名が表に出て くる時期は本のごく僅かであり、実際世界史の概説書などを見ると数行ちょこっと触れられているだけと言うのが普通のようで す。確かに世界史の大きな流れ(と言う物があるなら場の話ですが)のなかでは彼女の存在は非常に小さい物かもしれませんし、 別に知らなくてもどうということはない人だと思うかもしれません。しかし反乱勃発後に周辺の領主や地主と闘いながら反乱 勢力をまとめ上げ戦い抜いた彼女の存在は後世のインド人にとりある種のシンボルとなっていたわけで、そのなごりは今もインドの 通りや大学の名前に彼女の名を冠したものがある所にも見て取れるようです。


    (本項目のタネ本)
    長崎暢子「インド大反乱1875年」中公新書、1981年

      本項目執筆にあたって参考にすることのできたラクシュミー・バーイーについてまとまった記述がある邦語の文献です。 ちなみに日本国内の各種辞典において「ラクシュミー・バーイー」の項目の多くは長崎先生によって書かれており、その 記述内容は分量の多寡はあれど同じです。
    稲葉義明(他)「剣の乙女 戦場を駆け抜けた女戦士」新紀元社、2003年
      神話の世界から実際の歴史まで、古今東西、戦場で戦った女性を取り上げた読み物です。女戦士を扱った本ということで、 当然ラクシュミー・バーイーも登場します。

    次回は「ラ」で終わる人物をとりあげます。

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