イブン・ハルドゥーン
〜逆引き人物伝第1回〜


逆引き人物伝の記念すべき第1回目はなかなか登場機会がない「ン」で終わる人名と言うことでイスラム世界を代表する 歴史家イブン・ハルドゥーン(1332〜1406)を取り扱います。イブン・ハルドゥーンというと、代表「歴史序説」を著した 歴史家として知られている程度ですが、73年に及ぶ彼の生涯はなかなか波乱に富んだ生涯でした。その辺りの所を取り上げつつ、 「歴史序説」の特徴についても迫ってみようと思います。


  • 生い立ち
  • イブン・ハルドゥーンは1332年、北アフリカのチュニスに生まれた。当時の北アフリカは3つの王朝に分かれて争う戦国時代で、 その中の一つであるハフス朝(13世紀前半にムワッヒド朝から独立したイスラム王朝)の首都がチュニスであった。ハルドゥーン 一族の始祖はアラブの大征服に従軍してスペインを征服し、以後彼の子孫はセビリアに移住してそこの貴族となった。しかし13世 紀のイベリア半島ではレコンキスタが進行中し、ハルドゥーン一族はセビリアが陥落する前にイベリア半島から北アフリカへと移 住してきた。そしてハフス朝の保護下で暮らすようになったのがイブン・ハルドゥーンの4代前の祖にあたるムハンマドであった。

    彼は幼少の頃からコーランやアラビア語、文法学、作詞、ハディース学、イスラム法をまなんだ。さらにマリーン朝がハフス朝の 領土に侵入してチュニスを占領した(1347)際にモロッコからつれてこられた学者アービリーかがハルドゥーン家に寄宿し、彼 から数学や論理学、自然学などを3年間にわたって学んだ。このようにして学問的な修練を積んでいたイブン・ハルドゥーンであ ったが、その間に彼の身の回りでは1348年頃のペストの流行による多くの縁者や学者、彼の両親の死などの出来事が起こり、文明 が疫病により崩壊したというこの出来事は強い印象を与えたようである。

  • 流転の政治生活
  • しかし学問の世界に没入して世俗と関わりを持たない生活を送るのかと言えば全くそのようなことはなく、むしろ彼は彼の祖父や 父が政界に興味を示さなかったのとは対照的に自ら政界に身を投じハフス朝の書記官を皮切りにフェスのマリーン朝、グラナダの ナスル朝等々、北アフリカとイベリア半島のイスラム王朝を渡り歩いて活躍の場を求め続けた。この時代の北アフリカは文字通り 乱世で小国が分立し、宮廷では陰謀が渦巻いていた。イブン・ハルドゥーンも北アフリカでは宮廷の陰謀や後継者争いに関与し、 時には投獄された事もあったほか、イベリア半島へと渡ってナスル朝に仕えているときも王に様々な学問を伝授し理想的な君主に 育てようとするが、宰相の間の関係が悪化し、イベリア半島を離れざるを得なくなっている。

    そんな折に彼はアブー・アブドゥッラーに招かれ、「執権」(国政の最高責任者)に迎えられた。彼は政治的野心を満足させる とともに知力を試す絶好の機会と考え、喜んでアブー・アブドゥッラーの支配するベジャーヤ(チュニスの西方の一都市)へと 向かったのは1365年のことである。しかし彼は政治的資質に乏しくイブン・ハルドゥーンの努力も空しく住民の支持を失い、 最後は隣国に戦争を仕掛けて敗れて殺されてしまった。イブン・ハルドゥーンはやむなく城門を開いて投降し、執権の地位を 失った。

    この出来事をきっかけに彼は政界への野心を失い政界を去ろうとするが、北アフリカの政治情勢がそれを許さず、ベジャーヤ政権 崩壊後も9年間北アフリカやイベリア半島を転々としなければならなかった。しかし、1375年になって遂にアルジェリアにある フレンダという町近くの山塞イブン・サラーマ城に隠居し、構想2年ののちに1377年11月に「歴史序説」を書き上げた。しかし 序説を仕上げてこれから本論に取り掛かろうとした矢先に病気に倒れ、1年半ばかりして病が癒えた後にハフス朝のスルタンの許可 を得て26年ぶりにチュニスへと戻り、当時のスルタンであるアブルアッバースに仕えた。

    イブン・ハルドゥーンはスルタンに仕えながら歴史を書き続け、その一部をスルタンに献上したのみならず、既に書き終えていた 「歴史序説」の内容を講義し、講義はたちまち評判となり多くの受講生が集まった。しかし彼に対して嫉妬するスルタンの側近達 が陰謀を巡らせてスルタンに彼を中傷し、遂にスルタンも彼のことを疑い始めて危険人物視するようになった。身の危険を感じた ハルドゥーンは1382年10月にメッカ巡礼を理由にエジプトへの旅に出た。そして二度と戻ることはなかったのである。

  • マグリブを離れて
  • 彼が訪れたエジプトではブルジー・マムルーク朝が成立した頃で、バルクークがスルタンとなったばかりであった。イブン・ハル ドゥーンの名声はカイロにも伝わっており、彼は請われてアズハル大学で講演を行った。さらに彼はスルタンに紹介され、スルタン は彼の能力を認めてカムヒーヤ学院教授に始めは任命し、さらに1384年にマーリク派大法官(カーディー)に任命した(以後彼は 1406年に死去するまで6度も大法官に任命されることになる)。大法官として彼は己の理想の実現を目指して強引に事を進めたため、 エジプトの司法関係者はハルドゥーンに対して反発し、高官たちも巻き込んでハルドゥーンを引きずりおろそうとした。バルクーク はこうした圧力にもかかわらず彼をかばい、彼が個人的事情(家族を海難事故で失う)により大法官の職を辞した後もザーヒリーヤ 学院の法学教授やバイバルス修道院の院長に彼を任命するなど殊の外恩顧をかけていたが、マムルーク朝内部の内乱の際にバルクーク に対する宣戦布告書にサインした事が原因で激怒し、以後1399年まで彼は一切の公職からハルドゥーンをはずしたのであった。

    その後バルクークの怒りも解け大法官に任命されたハルドゥーンであったが、やがてダマスカスにおいてティムールのシリア遠征 に遭遇することとなる。小アジア、シリアを席巻するティムールがダマスカスへ向かっているという知らせを受けてスルタンが遠征軍 を組織すると、当時学究生活に入っていた彼も随行する事を求められた。しかし両軍が激突しているさなかにスルタンと側近達が ダマスカスから逃亡してエジプトへ帰ってしまった。スルタン逃亡を知ったダマスカス市民は恐慌を来たし、ダマスカスはティムール に包囲された。ダマスカスの人々は対応を協議したが意見がまとまらず、ハルドゥーンにも意見を求めた。彼はもはや和平交渉に応 じるしかないと判断し、結局学者達もそれを指示した結果、ダマスカス市はティムールと和平交渉を行った。交渉の席上でハルドゥーン の消息について話題に上ったことが伝えられると、彼は場外でティムールと会見した。

    会見の場でティムールは彼に様々なことを質問し、彼もまた弁舌をふるって持論である王権論を主張するなどひとしきり議論・歓談 が行われた。しかしその後のハルドゥーンとダマスカス市の運命は対照的な道筋をたどる。ハルドゥーンはティムールに気に入られ て1ヶ月間彼の陣営にとどめられて歓待され、その間にモンゴルの戦闘技術や生活習慣、宗教をつぶさに監察したほか、「マグリブ 事情」という北アフリカ情勢についての著書を献上した。ティムールの元から帰国したハルドゥーンは以後大法官就任と解任を繰り 返し(3回目から6回目まではこの時期の就任である)、1406年に6回目の大法官に就任した直後に73年の生涯を閉じた。なお、 ハルドゥーンがティムールに歓待されている一方で、ダマスカス市には過酷な運命が待ち受けていた。ティムールはダマスカス市の 交渉団に対して次々と高額の貢納金を要求し、彼の軍隊は略奪暴行を恣にし、放火まで行った結果、ダマスカス市は灰燼に帰したの であった。


    以上のようなハルドゥーンの人生を見ていくと、自分の学んだ様々な学問を政治の世界に生かしていこうとしつつ、北アフリカの 複雑な政治情勢の中で様々なトラブルを起こして去っていくと言うパターンが多く見られます。その傾向は政治の世界からは極力距離 をとり、学問に打ち込んだり大法官として活躍するようになってからも変わらず、ティムールの元から帰還した後の時期に大法官の 地位就任と解任を繰り返していたことがしられています。政治的野心を失い、活躍の場を政治から学問に移しても、その人間の性格 までは変わることはなかったということでしょう。彼の生涯を見ていると、機を見るに敏であると同時に我を通す強さも持ち併せて いる人物であったことが窺えます。時々投獄されたり、陰謀に巻き込まれて苦境に立たされることはあっても、致命傷にならない ぎりぎりのところで踏みとどまっていますし、一方で(特にエジプトで大法官になってから)自分の理想とする物があるならば、 たとえそれが原因で周りと対立することがあっても押し通しています。

    彼の名を現在にまで伝えているもっとも大きな理由は、彼が「歴史序説」の著者であり、その著作が後にヨーロッパで高く評価 されたことでしょう。彼は「歴史序説」を書くに至るまでの間に様々なことを経験してきましたが、哲学や法学に書かれている 事をそのまま現実の世界でも実現しようとして失敗し、刻々と変化を続ける現実の社会を理解するにはどうしたらよいのかを考え るようになっていたようです。そして彼は歴史的な事柄を記述するだけではなく、その背後にある内面的な要素を追求して問題 を把握しようとします。人間社会のあり方や国家の興亡、文明の興亡の原因や理由を知り、本質に迫るには正確な情報を持って いなくてはならず、一方で正確な情報を得るには歴史的な事件の本質や原因を知らなくてはならないということであり、それは 人間社会に対する理解を深め、文明の本質を把握する事が大切であると考えていたようです。「歴史序説」は文明を都市の文明 と田舎の文明に分け、人々の連帯意識の変遷によって歴史の発展(王朝建設や社会の形成等)を理解しようとする文明論をもと にしつつ、王権論や経済論、学問論について説いていきます。王朝は一定の法則を以て交替することを連帯意識の変遷から論じ ていたり、労働が価値を生み出す事を見いだし、富の源泉が剰余労働力であること、需要と供給のバランス等々の経済理論を 唱えていきます。このようにイブン・ハルドゥーンの「歴史序説」は文明のあり方を理論化していきましたが、彼の著作は 当初はそれほど広まらず、一部の歴史家や思想家に影響を与えたにとどまっていました。その後近代ヨーロッパの研究者達 による再評価が進み、その影響でイスラム世界でも評価され始めます。現在はイスラムの諸学問の文脈の中で彼のなした事に ついて評価するという方向で研究が進められているようです。


    (本項目のタネ本)イブン・ハルドゥーン(森本公誠訳)「歴史序説」岩波文庫、2001年
      イブン・ハルドゥーンの代表作。全4巻を読み切るのはかなりの集中力を要します(私も途中までしか読んでいません)。 本項目執筆にあたって、文庫本第4巻の巻末に書かれている森本先生による解説に多くを依っています。

    次回は「イ」で終わる人物をとりあげます。

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