エミール・ギメ
〜逆引き人物伝第5回〜


フランスのギメ美術館というと、東洋美術の美術館として世界 有数の規模の美術館として知られ、収蔵品はインド、パキスタン、アフガニスタンから日本まで「東洋」のあらゆるところから 集められています。このギメ美術館のギメとはフランス人実業家エミール・ギメ(1836〜1918)のことで、彼が各地で集めてき た美術品や宗教関係の資料などが収蔵されたこの美術館の設立には明治9年に彼が行った日本旅行が重要な契機となっていたよ うです。リヨンの一実業家であったギメが何故東洋の宗教に強い関心を示し、様々な物を集めて宗教博物館を作ろうとしたので しょうか。

  • その生い立ち
  • のちにギメ美術館を作ることになるエミール・ギメは1836年にリヨンで化学者の父ジャン=バチストと画家の母ロザリーの間に 生まれました。ギメ家はブルジョワの旧家で父のジャン=バチストはポリテクニック出身の化学者で、ウルトラマリン(群青) の発明者として知られることになる人物でした。彼はまたリヨン市議会議員を務めたり職業学校理事を務めるなどリヨンの名士 でした。彼はウルトラマリンの生産のためにリヨン郊外に工場を造りますが、ウルトラマリンの発明がギメ家に莫大な資産をも たらすことになり、エミール・ギメも1860年にこの工場を継ぐことになります。母親のロザリーは画家の娘で自身も歴史をテーマ とした絵画を描いたり教会の壁画を描いていますが、そのために必要な古典や聖書の知識・教養を身につけていたようです。 科学者の父と画家の母という家庭環境はギメにも強い影響を与えたようで、彼の学歴はよくわかっていないものの若い頃は陶芸 や絵画、作曲を学んでいたことがしられていますし、後に彼は多くの作品を残したことが知られています。

    ギメは1860年にリヨン郊外の顔料工場の社長に就任したあとも合唱団やブラスバンドを作るなど音楽活動に熱を上げたり、度々 海外旅行を行ったり(日本への調査旅行以前にスペイン、エジプト、ギリシャ、トルコ、ルーマニア、チュニジア、アルジェリア へ旅行しています)と言った活動をしつつ旅行記の類を数多く残しています。このような活動、特に海外旅行がギメに強い影響を 与えていきますが、特にエジプト旅行は彼の転機となります。エジプト旅行以後、彼は考古学、宗教、哲学へ開眼し、さらに各地 の遺物の収拾に熱心に取り組み始め、東洋学や人類学、考古学の学会に参加したり学会会員になって自らも色々な発表をするように なります。ギメが何故古代の宗教について強い関心を抱いたのかについては古の宗教の開祖たちが社会問題への解決法を提示して いたのではないかという発想の元、宗教を研究することで現代社会の問題解決に役立てようと考えたためだと言われています。 そのような信念をもつ彼が宗教の研究にあたっても文献を読むだけでは飽き足りなくなり、現地に赴いて研究したいと考えるよう になるのも当然のことだったのでしょう。そして遂に東洋の宗教を実際に研究する機会が訪れるのです。

  • 東洋への旅
  • 1876年、ギメは日本、中国、インドの宗教調査旅行へと旅立ちます。その前に彼はアメリカのフィラデルフィア万博を見学しに いっており、そこで画家フェリックス・レガメーと出会い、彼をイラストレーターとして雇って調査旅行をすることになります。 サンフランシスコを出て横浜に同年8月26日に到着したギメとレガメーは11月に神戸を発つまでの間日本に滞在して日本社会を観察 したり主たる目的である宗教調査を行っています。この時、ギメはレガメーに対して「私は日本滞在の外交旅券を手に入れ、政府 派遣で極東の宗教調査を任じられることになりそうだ。そこでお分かりと思うが、絵描きの同行がどうしても欠かせない。是非と も私に同行願いたい。この任務による10ヶ月の体験は後の我々の人生に光をもたらしてくれるはずだ」といって彼を雇っています。 政府派遣というのは、ギメはフランスの教育美術大臣から宗教調査の任をうけて旅をすることになったためで、彼は後に報告書を 執筆しています。

    日本滞在後、中国、インドの調査も行いますが日本旅行に関してはギメ自身の著作も残されていますし、レガメーも色々と書き残し ています。ギメは日本の宗教について調査しつつ資料や彫像、物品を集めています。この時に集めた神仏像600体、300点の宗教画、 多数の陶磁器があったと言われています。ちなみにこの旅行中レガメーは画家河鍋暁斎と互いの肖像画を描きあうという体験をして いますが、ギメたちによって暁斎は宣伝され、ヨーロッパでその名を知られることになります。ギメとレガメーの姿勢は日本固有の 習慣を自分たちの尺度で判断しようとするものではなく、固有の価値観を認める姿勢であり、(ただし少々理想化して賛美していると ころもあるようですが)、このような姿勢は当時の西洋人の中ではきわめて珍しい姿勢だったようです。

    肝心の宗教調査に関しては「並の人間には禁ぜられている奥義」まで知ることができたと伝えているように、彼らから見ると成功 だったようです。当時の日本は廃仏毀釈のまっただ中で仏教寺院が廃寺となり仏像も破壊されるなど仏教界にとってかなり厳しい 時代でした。このような状況であったためギメが日本から多数の仏像を持ち帰ることができるとともに貴重な仏像が偶然にも保存 されることになりました(法隆寺で長年行方不明だった仏像がギメ美術館の倉庫から発見されたこともあります)。神社仏寺を 訪ねて僧侶や神官に様々な質問を浴びせたり様々な儀式を見学してそれを記録したりしています。この2ヶ月間の間に日本の宗教 調査や日本の風俗にふれたことがレガメーとギメにとりその後重要な転機となったようです。二人とも日本びいきになり日本文化を フランスに紹介するべく活動し、1900年にはパリ日仏協会を設立してギメが副会長、レガメーが事務局長に就任しています。そして ギメに取りこの旅行は博物館設立の契機となっていくわけです。

  • 宗教博物館の設立
  • 日本、中国、インドの調査旅行で様々な物を手に入れたギメはその一部を1878年パリ万博で公開し、同年にはリヨンで東洋学者会議 を開いています。そして会議の場でギメは建設中の博物館の一部を公開し、博物館は1879年に正式公開されます。またその年には リヨンに東洋語学校を開校しそこでは日本語も教えられていました。ただしリヨンでは博物館や東洋語学校はうまくいかず、ギメは 博物館をパリに移し、収蔵品を国に寄付することを決意します。そして1885年に協定が成立しギメが終身館長となりパリに宗教博物館 が作られることになり、1889年に開館されました。

    ギメの博物館に関する哲学は様々な物を単に常設展示するだけでは不十分であり、一般向けの説明会や後援会が定期的に開かれたり、 「宗教史学報」という中立的立場の学術雑誌や様々な著作を出版する等の活動を通じて宗教について考えさせたり理解させようという ものでした。その他発掘活動にも協力したり、博物館で生きた宗教を見せるために様々な宗教的儀式を博物館で上演したこともあります。 そのような催し物の一つに参加していた女性の一人がのちに「マタ・ハリ」と呼ばれることになる女性だったという事も知られています。

    このような学問的活動のみならず彼は実業家としての活動ももちろん継続しています。1860年に顔料工場を引き継ぎ、その後ペシネー社 (当初はソーダ生産、その後はアルミニウム生産で有名になる)の社長に就任しています。彼の経営者としての姿勢はサン・シモン主義 の影響が見られるといわれますが、産業に重要な人材を育成するために作られたラ・マルティエール校の理事を務めつつ職業教育や初等 教育、救済組合設立などの社会事業に関わっています。ギメの宗教博物館もこのような社会事業の延長線上にあるものだったということ は彼自身が工場長就任50周年記念式典の場で述べています。実際に工場労働者たちがどの程度恩恵を受けていたのかはさておき、ギメの 姿勢としては労働者に対する配慮の必要性を認識していたことは確かです。このように実業家にして宗教研究にも力を注いだギメは1918 年になくなります。ギメの宗教博物館は1928年に国立の資格を与えられ、1941年には国立美術館アジア美術部に、そして1945年に正式に 国立ギメ美術館となりルーブル美術館所蔵の東洋美術もすべてギメ美術館に移管されました(それとひきかえにギメ美術館にあった東洋 美術以外のものはルーブルに移されます)。こうして世界有数の東洋美術の美術館が作られ、現在に至っているわけです。


    (本項目のタネ本)
    尾本圭子、フランシス・マクワン「日本の開国 エミール・ギメ あるフランス人の見た明治」創元社(知の再発見双書)、1996年
    日仏外交史研究会のサイト(http://www.kuc-jp.com/jf/index.html)
      今回の記事ではこれらの著作とサイトを参考にしています。ギメの旅行記を本当は入手したかったのですが残念ながら手に入れることが できず、これら二次文献に大幅に依存せざるを得なくなりましたが、「日本の開国」にはレガメーの手紙やギメの質問など一次資料も 掲載されています。明治の日本の社会を二人のフランス人がどう見ていたのかを知ることができる一冊です。

    次回は「エ」で終わる人物をとりあげます。

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