藤原行成
〜逆引き人物伝第9回〜


書道の世界には「三蹟」と呼ばれる書の達人が3人います。その一人が藤原行成です。しかし彼は書家としての顔だけでなく、 「四納言」と呼ばれる一条天皇、藤原道長の時代に活躍した貴族官僚の一人としてもその名を残しています。藤原氏の同族間の あらそいから道長とその一族が勢力を強めて権勢をふるうようになった時代に天皇や道長に仕えた藤原行成の生涯を、当時の政治や 文化にも触れつつまとめてみようと思います。

  • 生い立ち
  • 藤原行成は972年(天禄3年)に太政大臣藤原伊尹の孫である右近衛少将義孝の長男として生まれました。しかし祖父は同じ年に 死去し、父親も2年後の974年に当時流行した疫病により無くなってしまったため、母方の祖父である源保光のもとで育てられること になりました。行成は生まれた月日はわかっておらず、さらに元服するまでの間の事柄もほとんど分かっていない人物ではありますが、 おそらく源保光のもとで学問や故実(保光はこれに詳しかった)について学び、彼の代名詞である書についてもこのころから習い始め たのではないかと考えられています。そして彼は982年に元服し、2年後には従五位下に叙せられていますが、これも藤原氏としては 特別変わったことではなかったようです(大臣や摂関の子であれば稀にもっと上の位をもらうことがあるようです)。

    行成が生まれてから元服し、叙爵された頃の歴史を見ると、藤原氏内部での権力闘争がかなり激しかったことが窺えます。まず行成の 生まれた年に藤原伊尹が死去していますが、それとともに藤原兼通・兼家兄弟の闘争が始まっています。兼通は弟の兼家を押さえつけ つづけますが977年に病が原因で関白を辞めて後継者に藤原頼忠を推挙して無くなると、再び兼家が復活し、右大臣となります。その後 兼家は謀略のような形で花山天皇を退位させて一条天皇を即位させると摂政として権勢をふるい、兼家の息子達も出世するなど兼家一家 が朝廷で重きをなすようになっていきます。そのなかで行成の一族は花山天皇の治世に一時的に目立った物の特にふるわぬ状態が続きます。 そんな中で行成はそれなりの立身を続けていきますが、兼家に奉仕し、朝賀において優れた見識を示し、定で筆録を担当したことも知られ ています。しかし位階のほうは993年までに従四位下に達しますが、それにたいし官のほうはあまりあがっていなかったりします。この間、 行成は兼家一族への奉仕を怠ることはなく、長男道隆、次男道兼に奉仕しています。しかしだからといって批判的な目を持っていないかと いえばそうでもなかったようで、言うべき事はきっちりという姿勢をもっていたようです。ちなみに989年に行成は結婚し、妻とはその後 14年間連れ添うことになります。

  • 能吏として
  • そんな行成がようやく活躍するようになるのは995年に蔵人頭に任ぜられたことがきっかけとなっています。このころ疫病の流行により 政界でも勢力図が大きく変化していったことがしられています。道隆、道兼が死去し、道長が政治の実権を握るようになる過程で、道長と 道隆の子伊周との対立が起こっていた時代ですが、蔵人頭であった源俊賢の推挙により行成が蔵人頭に任ぜられます。これによって行成に 活躍の道が開かれ、やがて「四納言」の一人として後世扱われるようになるのです。行成の蔵人頭任命は抜擢人事と言ってもよい物であり、 彼は6年間蔵人頭を努めることになります。また996年に権左中弁に任ぜられ、頭弁となり、弁官としての仕事は蔵人頭から参議になった後 も続け、計13年間も弁官として仕事をこなし続けることになります。その後も様々な仕事をこなしながら出世し、中納言、大宰権帥(ただし 現地に赴任せず)をへて、最終的に正二位権大納言になります。なお、公務に精励した様子は「権記」という彼の日記に詳しく残されています。

    行成が抜擢された蔵人頭は令外官であり天皇の秘書局のようなもので、主な任務は天皇と摂関や大臣、院の間を往復するメッセンジャーで すが、天皇から相談役として信頼される場合も多かったと言われていますし、個人的に信頼されている物が蔵人に任命されるというパターン が多かったと言うことも知られています。また天皇が代替わりすると新たに蔵人を選ぶという点で正式な官職と異なっています。また行成が 兼ねていた弁官の仕事は諸省・諸官・国司の文書を受け付け、処理上申することで、太政官と諸国や諸司の間の行政処理等に関わっていました。 このような仕事を行成は長きにわたってこなし続けていったわけです。

    行成は一条天皇からの信頼も厚く、また道長からの信頼も厚かったということが998年に道長が病に倒れたときの天皇と道長のやりとりに関 わったことからもうかがい知ることが出来ます。また中宮彰子立后についても度々奏上し、一帝二后という例を開いたりしたときにも道長 よりの立場から天皇を説得して中宮彰子の立后を成功させることに成功したことがしられています。しかし蔵人頭の時代と参議に昇進して からの行成を比べると、後のほうでは道長の側近として生きると言う姿勢がかなり強まってきており、このころ「恪勤の上達部」という世評 もでてきています。恪勤は言葉の意味としては職務精励という意味ですが実態としては侍のことであり、道長の従者の如く日夜奉仕する公卿 を皮肉ってこのように表現しているようですが、行成も時として腹立たしいこともありながら(官奏にある文章を入れなかったことが原因で 道長に文句を付けられたりすることもありました)、結局は道長の側近として公務に精励するより他無かったわけです。なお、行成は道長と 同年である1028年のしかも同日に死ぬという奇妙な偶然の一致もあったりします。生きているときは道長に忠実に仕え続けていたからといえ 別に死出の旅にまで忠実について行こうと思ったわけではないとはおもいますが・・・・。

  • 文化人・行成
  • 官僚としての行成は道長の側近として公務に精励した「四納言」の一人として名を残していますが、行成といえば「三蹟」の一人として 優れた書家としてその名を知られています。和様の書道は小野道風がはじめ、藤原佐理をへて行成が完成させた物で、その後も彼の子孫に 和様の書道は受け継がれて世尊寺流(行成が建てた寺にちなんでいます)とよばれるようになります。行成は王義之の書を継承しつつも 小野道風の書を直接継承した物です。行成と道風というと夢の中に道風が現れて書法の伝授を受けたという話が残されていたり、道風の書 の貸し借りや贈答が日記に書き残されています。行成はその能筆を活かして内裏の門や殿舎の額字を書いたり、屏風絵に和歌を書き込む色 紙形の清書を行ったりしたことがよく知られています。屏風歌は絵画・和歌・書道をひとつにした一種の総合芸術だと考えられていますが、 そう言った場で行成も活躍していたわけです。なお、行成については和歌を詠む才能がなかったと言われていますが、清少納言との交流の なかでしゃれが効いた歌を詠んでいたりもするので、それなりの才能はあったのでしょう(ただし同時代に藤原公任などがいたので目立つ のは難しかったと思われますが)。

    また、行成は優れた有職故実家としてもしられ、宮中の各種行事においてその見識が優れていることを多くの人の前で示したことが窺え ます。当時の有職故実は家伝としての性格が強い一方で互いに交流もあり、藤原公任や藤原実資といった小野宮流の有職故実の人々と交流 を持っていたことが知られています。しかしその一方で家伝にこだわるところもあったようです。行成は有職故実に明るかったので すが、彼と言えども時々はミスをすることがあり、彼のミスを実資が自分の日記に書いて残していたりもします。やはり小野宮流故実の 実資としては彼は一寸の失敗でもついついこんなミスをしたと書かずにはいられないというくらい有職故実の面では意識してしまう存在 だったのでしょう(政界での力関係ではどうかんがえてもライバルではないでしょうし)。その他、行成は儒学や漢学にも通じていたこと が知られています。

    宗教面で言うと、行成が当時の人と比べてかなり変わっている事例として散骨を行っていることがあげられます。仏教の影響で薄葬が 広まってきていたこの時代の日本でも行成のように遺骨を散骨している例は滅多にありません。行成は妻や母、外祖父の遺骸を散骨した ことがしられていますが、彼が散骨を行った思想的背景として浄土信仰とのつながりを指摘する意見も出されていますが、同じく浄土 信仰に傾いた道長が逆に埋葬地を尊重する考えを持っていたりするので思想的つながりと言うよりも行成が一寸変わった人だったの だと考えられています。若い頃は密教的な不動尊信仰、やがて天台信仰、そして浄土信仰へと至る信仰遍歴をみると、当時の宗教の 流行の影響はあったのでしょうか。そのほか行成は後に書家の流派の名前としても使われた世尊寺を建立したことでもしられています。 もともとは祖父の邸宅の一つであった桃園第を受け継ぎ、これを寺としたのが世尊寺でした。1001年に世尊寺供養を盛大に行い、結果 として彼の社会的地位を見せつけることになりますが、どうやら信仰心からやったと考えた方がよい物のようです。


    (今回の種本)
    大津透「道長と宮廷社会」講談社(日本の歴史06)、2001年
    黒板伸夫「藤原行成」吉川弘文館(人物叢書)、1994年
      今回はこの2冊に多くを依っています。黒板先生の著作は少々読むのに骨が折れるとはいえ、行成の人柄なども触れていて(きわめて 律儀であり、同じ事を他人にも求めるところがある)なかなか面白いです。

    次回は「フ」で終わる人を取り上げます

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