エンリコ・フェルミ
〜逆引き人物伝第19回〜


数年前(注:この記事を書いているのは2016年です)、「地頭力」という言葉が流行ったことがあったのを記憶している人も多いかと 思います。その際に、「フェルミ推定」という言葉、そして「シカゴにピアノ調律師は何人いるか」というクイズのような問いのこと を耳にした人もいるかもしれません また、フェルミ推定と関連し、宇宙人の存在について地球以外の文明はそこそこあるのに、 エイリアンの存在をしめす紛れもない証拠が見つかっていない、いくらでも見つかるはずなのに実際に見つからないという逆説 「フェルミのパラドックス」というものもあります。

今回の逆引き人物伝19回では、「フェルミ推定」でもその名を知られるイタリアの物理学者エンリコ・フェルミをとりあげようと 思います。理論化であるだけでなく、実験のほうでも卓越した物理学者であった彼の生涯は、20世紀前半の激動の世界情勢の影響 と無関係ではないものでした。


  • 栴檀は双葉より芳し
  • エンリコ・フェルミは20世紀最初の年、1901年9月29日、ローマで生まれました。父アルベルトは鉄道局に勤める公務員、母イダ・ デガティスは小学校教師いう家で、エンリコは第3子として生まれました。彼はガリ勉タイプではないが優れた記憶力と頭の回転の 速さにより学校の成績は極めて優秀でした。中等学校でもたちどころにトップを取り、さらに子供の頃に覚えた長い詩の一節を何年 も経った後も暗唱できるほどでした。そして負けず嫌い、几帳面な性格で、本を読むことを好む生徒で10歳ぐらいから代数や幾何の 問題を解いていたようです。

    やがて物理学にも興味を持ち始め、10代始めのころには古本屋へいって物理学の本を買うようになり、友人と本を貸し借りしながら ちょっとした実験にも挑戦しはじめました。13歳の時には父の同僚で大学卒の技師アミディから借りた難しい幾何学の本の問題を全て 解きおえ、さらにアミディから数学や物理学についていろいろ学び、様々な書籍を読み漁ります。このような少年に対し、どこかの 大学に行かせた方がよい、さらに独り立ちをした方がよいと考えたアミディの勧めで、エンリコはピサ大学とピサ高等師範学校に 入学するのですが、それは17歳のときでした。

    ピサ高等師範学校はイタリア全土から40人しか入学を許可しない、イタリアでも随一のエリート校でしたが、難関校の入試を彼はあっさり と突破します。17歳にしてまるで大学院生並みの数学を使いこなし、奨学金全額給付で合格を勝ち取ってしまいます。そして入学後はすぐ 学部学生の研究室への出入りが許可され、教授から相対性理論について教えを請われたこともあるほどでした。いっぽうで友人たちと いたずらに興じたり(「はた迷惑結社」なるものを結成してロクでもないことをしていた)、10代の若者っぽいところもありました。大学 2年を終えるころには、大学院の研究室への出入りも許可され、1922年7月には物理学博士号と高等師範学校の卒業証書をてにすることに なりました。卒業後は海外に短期間給費生として留学したり、短期間の講師を務めつつ研究を続け、フェルミ・ディラック統計を発表 します。さらに1926年にはローマ大学に新たに設置された理論物理学教授のポストを獲得するに至ります。20代にして終身在職権付教授 まで上り詰めてったわけです。

  • 栄光と忍び寄る影
  • ローマ大学教授となったエンリコはさらに研究を進めていきます。ニュートリノの存在を導入したβ崩壊の理論や、自然に存在する 元素に中性子を照射して40種類以上の人工放射性同位元素を生成したほか、中性子を遅く動かす方法も考案しました。1930年代 前半にはイタリアの若い物理学者たちのグループを組織化し、研究を進めていきましたが、こうした発見に際し、フェルミの直感 と推測の力が大いに助けとなっていたようで、「遅い中性子」発見の際には、突如パラフィン紙を用いることを思いつき、それが 発見につながったこともしられています。彼は1938年にノーベル物理学賞を受賞していますが、受賞に際してはこのような発見が 理由となったようです。

    また、私生活面では大学教授となった後もハイキングを楽しんだり、車を買い、スポーツを楽しみ、といった具合に四六時中研究 に没頭というわけではない様子もうかがえます。そして1928年にはラウラ・カポン(のちに夫エンリコの伝記やムッソリーニの評伝 などを書き残している人です)と結婚しています。この2人の出会いはなかなか強烈なエピソードがあり、最初に出会った時は サッカーをしたことのないラウラにいきなり自チームのゴールキーパーをさせてサッカーをしたということが伝えられ、彼女も フェルミに対して特に良い印象は抱かなかったという話が伝わっています。さらにその後登山で再開した時もフェルミが20キロの 登山ルートを設定するなど色々と仕切って、周りはそれにやむなく従っていた様子が伝わっています。また、フェルミがあげる 結婚相手の条件はどうもラウラとは余り当てはまらないものだったようです。しかし、そんな二人が1928年に結婚したわけで、 何がどのように転ぶのか、人生はよくわからないものだという感想を抱いてしまいますが、、。

    一方、フェルミを取り巻く状況は徐々に重苦しいものになっていきました。イタリアではムッソリーニが独裁政権を樹立し、 学問の世界でもイタリア・アカデミーを設立していますが、フェルミはイタリア・アカデミーの会員となっています。 会員となったフェルミは「閣下」の称号と、ファシスト的な制服の着用資格があたえられていますが、彼自身はムッソリーニ の政権を特に支持していたというわけではありませんが、反ファシストというわけではなく、ムッソリーニの政権の恩恵に 預かっている状態でした。

    しかし、イタリアがドイツに接近し、軍事同盟を結ぶことになるのですが、徐々に彼を取り巻く環境も悪化し始めます。 同盟関係とは言っても、ドイツがイタリアより上位に立つ関係で経済的・軍事的・政治的な協力関係が作られ、ドイツ の意向を組まねばならなくなっていき、ついに1938年には人種に関わる法律が議会に提出されるに至ります。これにより ユダヤ人は解雇されるようになり、学問の世界でもユダヤ人の科学者、学者がイタリアから追われるようになってきます。 フェルミの妻ラウラはユダヤ人であったこと、また公の場でファシストから批判されたことなどもあり、彼はイタリアを 去ることを考え始めます。そして、その機会は1938年12月のノーベル賞授賞式への参加という形で訪れました。コペンハーゲン を訪れたフェルミとその家族は授賞式後、アメリカへ渡っていきました。

  • マンハッタン計画
  • アメリカに移住したフェルミは1939年、コロンビア大学の物理学教授となりました。そして、アメリカで彼が着手したのは 核分裂、連鎖反応の研究でした。フェルミ一家がアメリカへ渡っていた頃、オットー・ハーン、フリッツ・シュトラスマン による核分裂の発見が発表され、フェルミもあとで核分裂発見のことを知りました。世界の科学者たちは核分裂の研究に 着手し、核分裂反応の連鎖により莫大なエネルギーが得られるかもしれないが、兵器に利用した時の危険性を懸念する 声もでてきていました。

    そして、アメリカでも1939年以降、アインシュタインの署名がつけられた核爆弾製造への資金提供を 訴える手紙が大統領に渡され、以後資金も提供され始めます。これがいわゆる「マンハッタン計画」のはじまりであり、 1942年9月半ば、軍人のグローブスが責任者に任命されました。この計画に、フェルミも原子炉の開発などで関わっていく ことになります。グローブスは機密管理を徹底し、フェルミの場合はユージン・ファーマーという偽名を使わされたほか、 専属ボディーガードがつけられたり、安全に関する様々な指示をあたえられています。

    アメリカへ渡ったフェルミは核分裂反応の研究に着手しますが、大量のウランと減速材のグラファイトが必要となるため、 コロンビア大学では続けることが困難になっていきました。そして、同様の研究がシカゴでも行われていたことから、 1942年、フェルミの研究をシカゴで行われているものと統合することになりました。

    そして、シカゴで世界最初の原子炉「シカゴ・パイル1号」を完成させ、原子核分裂の連鎖反応の制御に成功しました。 今から考えると、シカゴという大都市の中に原子力の研究施設を作り、核分裂反応をおこさせているわけで、何かあったら 大惨事がおこるような場所で実験が行われていましたが、この時代はそのようなことは考えられていなかったようです。

    そして、マンハッタン計画の責任者グローブスはオッペンハイマーを原爆開発の責任者とし、新兵器開発の場をロスアラモス に設定しました。1943年、ロスアラモスにアメリカ全土から選りすぐられた核物理学者、核化学学者が集められ、その中に フェルミも含まれていました。原子炉開発中よりフェルミはマンハッタン計画に関わっていましたが、ロスアラモスの活動 にも初期の頃から関わっていきました(もっとも、プルトニウム生産パイルがトラブルを起こし、そちらの解決に手間を とられ、本格的にロスアラモスの活動に力を注ぐことができるようになるのは1944年9月以降です)。

    ロスアラモスの研究者たちは爆弾の研究開発にとりつかれたかのような熱意に満ち、当初は必要悪と思い嫌悪感を抱きながら 開発に取り組んでいたフェルミもやがてその熱に飲まれていった様子が伺えます。しかし、1945年の後半にはシカゴ大学に 復帰し、研究や教育に取り組みつつ、原子力委員会に参加するなど、原子力の管理の問題にも関わっていきます。なお、 第二次大戦後にアメリカは水素爆弾を開発することになりますが、彼は諸般の理由から水素爆弾の開発には批判的な意見を 持っていたことが戦後の言動からうかがえます。

    1945年に戦争が終わった時、フェルミは友人に自分の仕事の三分の一を終えたところだと語り、戦後は残りに取り組む予定 だったのでしょう。しかし、彼に残された時間はあまりにも短すぎました。1954年、突如体調を崩し、診断結果は胃ガンでした。 そして1954年に53歳で生涯を閉じることになります。戦争が終わってわずか9年のことでした。もし、彼にもう少し寿命があった ならば、どのような発見がなされたのか、もはや知る余地はありません。


    (本項目のタネ本)

    スティーヴン・ウェッブ(松浦俊輔訳)「広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由」青土社、2004年
    ヘリガ・カーオ(岡本拓司監訳、有賀暢迪・稲葉肇ほか訳)「20世紀物理学史(下)」名古屋大学出版会、2015年
    ダン・クーパー(梨本治男訳)「エンリコ・フェルミ」大月書店、2007年
    ウィリアム・クロッパー(水谷淳訳)「物理学天才列伝(下)」講談社(ブルーバックス)、2009年

    今回はこれらの本の内容を本にまとめてみました。

    次回は「フ」で終わる人物をとりあげます。
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