トンマーゾ・カンパネッラ
〜逆引き人物伝第3回〜


逆引き人物伝の第3回目は「ラ」で終わる人名と言うことでトンマーゾ・カンパネッラ(1568〜1639)を取り扱います。 カンパネッラと聞くと、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を思いおこす方が多いと思いますが、ジョバンニとともに銀河鉄道に乗って 旅をするカンパネッラの名前はこの人物から取ったとする説(新潮文庫版「銀河鉄道の夜」)もあります。実際のカンパネッラ はその生涯のかなりの部分を獄中で過ごし、その間に様々な著作を書き残したルネサンス時代の思想家でした。


  • 生い立ち
  • カンパネッラは1568年9月5日、イタリア半島南端近く、カラブリアのイオニア海側の山村スティーロで、靴職人の長男として 生まれました。洗礼名はジョヴァン・ドメニコで、トンマーゾはドミニコ会修道士となったときに付けた名前です。彼は幼い頃から 知能・記憶力に優れ、1582年からドミニコ会に入会し、修道院に入り、14歳から21歳までの間カラブリアのドミニコ会修道院を転々 としながらあらゆる種類の書籍を読みふけります。当時の彼が読んでいた本は幅広く、キリスト教の本、異教の本から禁書まで様々で した。一方この時期に著述活動も開始しており、1587年に処女論文「事物の探求について」を著します。1588年、コセンツァにてベル ナルディーノ・テレジオの著作「事物の本性について」に共感、同年末にはアルトモンテの修道院にてヘルメス主義的傾向の神秘主義の 著作やカバラ、魔術、占星術の本を読みふけり、1589年には「感覚哲学」を著してテレジオ哲学を擁護します(後で告発される原因の 一つになるようです)。同年末、ナポリへと旅立ち、貴族の館に住み、学者や知識人と交流し、自由に議論、研究、実験を行ったと いわれています。ナポリにて「自然魔術」の著者デラ・ポルタと知り合い、処女作「事物の本性について」を完成し、その他いくつかの 著作を残したほか、1589年に著した「感覚哲学」を1591年に出版するなど活発な活動を見せていました。

  • 最初の逮捕
  • 1592年5月に彼はドミニコ会内部で告発、裁判にかけられ、同年8月に下された判決はテレジオ哲学放棄とカラブリア帰還を命じられます。 しかし彼はそれを無視して北方へ向かい、トスカナ、ボローニャを転々としますがローマの宗教裁判所の手が及び、自筆原稿をすべて没収 されてしまいます。このあたりから彼の苦難の人生が始まるようですが、この程度ならまだましといったところです。1593年1月、パドヴァ に赴きスペイン人学生としてパドヴァ大学に入学し、医学を学んでいますが、大学在学時にガリレオと知り合います。ガリレオとの出会い に関しては単なる偶然で出会ったというわけではなくガリレオがトスカナ大公から預かった手紙をカンパネッラに届ける用事があり、その 時に出会ったようです。パドヴァでは1年ほど大学に在籍して自然科学に接した(白内障手術の助手を買って出たり解剖教室にでたりして いたことがしられています)彼ですが、自然科学的な知はこの後の長きにわたる獄中生活のなかでどうやら消えていってしまったようです。 なお、カンパネッラとガリレオの関係ですが後になって彼自身が獄中にありながら、裁判にかけられているガリレオの弁護を買って出るな ど何とかしてガリレオと関わりを持とうとしていますが、ガリレオからするとかなり迷惑な人だったようです。始めの頃は手紙のやりと りもあったのですが、ガリレオが太陽黒点に関して論じたときにカンパネッラがどうやら否定的な答えを送ったらしく、それ以降ガリレオ はカンパネッラからの手紙に対しては一切返事を書かなかったようです。それにもかかわらずカンパネッラハずっとガリレオに手紙を出し 続けていたことがしられています。

    1594年始めに彼は逮捕され、自筆原稿を没収され、さらに拷問をうけ、同年10月にローマの獄につながれます。同じ頃ローマの獄には ブルーノやプッチといった人々もいたことがしられています。当時はルネサンス後期で様々な思想が出てくる一方、宗教改革の影響で 異端と見なされた思想を報ずる人はすぐさま捕らえられる時代でした。カンパネッラもそれゆえに逮捕され、翌95年に異端誓絶の刑が宣告 されると彼は自説放棄を誓います。その後彼はアヴェンティーノの丘のドミニコ会修道院に監禁され、監禁中、「ルター派、カルヴァン派 その他の異端を論駁する政治対話」などを著し、教会有力者に献呈しています。この辺は何とかして釈放してもらおうという思いもあって 書き残したのではないかと思われます。彼は96年末に宗教裁判所の手からいったん解放されるも翌97年に再逮捕、投獄され、獄中でプッチ と盛んに対話し、彼の平和主義思想や終末論的期待を吸収したといわれます。また、同年夏にプッチが処刑されるとそれを悼み詩を残した こともしられています。

  • ユートピアと挫折
  • 1597年12月に彼は釈放されましたが著書の大半が禁書とされた上でカラブリアに送還され、スティーロの修道院に住み着きます。しかし 彼はこの時にカラブリアの政治運動に巻き込まれ、再び獄につながれることになるのです。当時のカラブリアはナポリのスペイン副王支配 下で激しい収奪を受け、農業や手工業が衰退、人口も減少し、文化面でも知識人迫害が見られました。治安の悪化、トルコ人による略奪 や破壊にさらされ貧困と沈滞のまっただ中にあるという状況下でスペインと教会の二重支配体制を打破すべく、カラブリアの農民や修道士、 市民、貴族など社会の広い層が政治運動に参加しました。その目的はスペイン支配を打破し、私有財産制度や位階制度を廃し、皆が平等な 民主政治を樹立することで、カンパネッラは新国家の元首兼立法者と目されていた。カンパネッラは1599年6月から積極的に関わり、 蜂起の首謀者とも接触しています。しかし同年8月に計画が露見し、スペイン副王の軍による弾圧を受けて失敗、彼も9月6日に捕らえられ、 11月にナポリに送られ、獄につながれることになります。そしてここから長きにわたる獄中生活が始まるのです。

    1600年1月、彼に対する最初の尋問が行われ、そこでは嫌疑を否認しましたがその後拷問を受けて自白し、反乱計画は否認するが新国家 樹立を望んでいたことは認めます。彼は死刑を逃れて生き延びるために狂人を装い、1600年4月2日よりそれを実行に移します。5月に はいると異端審問の宗教裁判が始まり、ここでも拷問を受けましたが狂人を装い通します。1601年6月には徹夜の刑を受け、40時間に および睡眠を取ることを許されず、激しい拷問を受けました。この時に彼は両肩脱臼の大けがを負ったりしながらもなお狂人を装い続け、 ついに死刑を免れます。このような尋問、拷問、裁判が続く中でも彼は口述による著述を続け、スペイン王国に世界の統一と改革を期待 した「スペイン王国」や「太陽の都」が書かれたのもこのころでした。

    その後彼は1603年10月に脱出を試みて失敗し、1604年夏にはサンテルモ城の地下牢に4年間閉じこめられます。1608年春、いったん別 の城に映されるが1614年10月には再びサンテルモ城に幽閉されます。幽閉中、「ガリレオ弁護」を著し、ガリレオを弁護しています (第1次ガリレオ裁判が1616年に始まります)。1618年にカステル・ヌオーヴォに移され、8年間を過ごしますがその間減刑や釈放の 努力を続け、さらにカラブリアのドミニコ会士たちの嘆願もあり、1626年に獄中生活から解放され、サン・ドメニコ教会の僧院に移り住 みます。獄中生活の前半は狂人を装い死刑を免れたり厳しい拷問を受けるなど苦しい物でしたが、後半になると自由に著述、文通をしたり 訪問を受けることができるようになったそうで、彼の主な著作は獄中で残されています。こうして長きにわたる獄中生活にいったん区切り がついたのでした。

  • 浮き沈み
  • 彼は釈放されて1ヶ月後に宗教裁判所に捕らえられ、ローマに連行、幽閉されます。この時は以前と異なり扱いは寛大であり年金を受け 著述も許されていました。1628年に教皇ウルバヌス8世の命で釈放されますがが、実は彼はローマ教皇のために占星術の著作を書き、 天体の影響による運命を逃れる方法を述べ、教皇のためにその術を行ったり、教皇の詩を注釈したりして教皇の好意を得ていたためだった そうです。獄中生活を送っている間に教会や聖職者に都合の良い本を書いて献呈したりして気を引くことで待遇改善や釈放を勝ち取ると いうのは彼の人生で幾度と無く見られるパターンです。1629年1月には異端の嫌疑も晴れて年金も増額(月10スクードから15スクード)、 神学教授の称号をドミニコ会から送られ、枢機卿職を約束されているという噂も流れるなど、いままでのひどいこと続きの人生から一変、 明るい人生が約束されたかにみえました。

    しかし、地位向上や声価が仲間のねたみや敵意を受けたこと、第2次ガリレオ裁判でガリレオを弁護したことで立場が悪化してしまいます。 さらに1633年8月に弟子の一人が捕らえられて翌年に処刑されましたが、この弟子はナポリをスペイン支配から解放しようとして陰謀を たくらんでおり、その背後にカンパネッラの関与が疑われました。この件はスペイン人の憤激を買うことになりましたが、その他にも色々 あって、当時のカンパネッラがフランスによる世界統一を主張していたことやフランス人との交流が多かったことがスペイン人の怒りを買 った理由であったとも言われています。ナポリはスペイン・ハプスブル家の領地であり、スペインの怒りを買ってしまった彼はフランス大 使のもとに逃げ込み、さらに教皇の進めに従い亡命することになります。

    1634年秋にマルセイユに着き、プロヴァンスでガッザンディと出会ったり12月にパリ到着後にリシュリューに招かれ、翌35年にルイ13世 に謁見したことが知られています。そして彼はフランス貴族、学者、知識人の間で時の人となる。当時スペイン・ハプスブルグ家とフランス は対立しており、スペインの支配のもとで牢獄につながれて苦しんだカンパネッラはスペインの圧政に抗した思想家ということで評判を よんだのでしょう(ただし実際の所は結構寛大な扱いも受けていたし、教会関係者などに釈放嘆願をしたり逃げようとしたりいろいろと やっておりますが)。また、この時期の活動は自著出版と異端に対する対抗運動に力を注ぎ、多くのカルヴァン主義者を改宗させたという 話が残っています。1639年5月、フランスにて死去。彼を埋葬した教会はフランス革命の時に壊され今となっては跡形もありません。

    カンパネッラは獄につながれた思想家ということで古代ギリシアのソクラテスのような見方がされることもあります。しかしカンパネッラの 場合はソクラテスとは少々様子が違います。牢獄での暮らしぶりからしてソクラテスのそれとは異なり度重なる拷問や苦しみに満ちたもので あったでしょうし、そんな状態から抜け出そうとして脱走を計画したり、権力におもねったりすることもありました。しかし危険を顧みずに ガリレオ弁護をおこなったりするところもあります。また、彼自身の思想についてですが近代科学に強い関心を示す一方で占星術を学問として 信用していたり、合理的なところと非合理的なところが同居しているところがありますが、彼のスタンスは様々な知を一つに統合していこうと するものだったようで近代科学も宗教も占星術もすべては「知」の一つであり統合されるべきものだったのでしょう。


    (本項目のタネ本)
    トンマーゾ・カンパネッラ(近藤恒一訳)「太陽の都」岩波文庫、1992年年
    トンマーゾ・カンパネッラ(沢井繁男訳)「ガリレオの弁明」ちくま学芸文庫、2002年
      今回の記事ではこれらの著作の解説を参考にしています。「太陽の都」はカンパネッラのユートピア思想をまとめ上げた著作で あり、その内容は多岐にわたっていますが、丁度この本を読んだ頃世間は某宗教団体の話題で持ちきりで、友人と一緒に「これ ってあれみたい」と言い合っていたのを思い出します。「ガリレオの弁明」はカンパネッラが地動説を唱えて裁判にかけられた ガリレオを弁護する目的で、反ガリレオ派と親ガリレオ派それぞれの論拠を挙げながらガリレオを弁護していく本で、中世以来 の学問とこの時代に新たに発展した科学をいかに調和させるのかという観点からかかれています。

    次回は「ト」で終わる人物をとりあげます。

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