ドナト・ブラマンテ
〜逆引き人物伝第7回〜


ペテロの墓の上に建てられたカトリック教会の総本山サン・ピエトロ大聖堂はルネサンス期に大幅に改修されて現在に至ります。 サン・ピエトロ大聖堂の改修工事にはラファエロやミケランジェロといった人々も関わっていますが、最初にサン・ピエトロ大聖堂の 改修工事に関わったのは盛期ルネサンスを代表する建築家ドナト・ブラマンテ(1444?〜1514)でした。彼は「古代をよみがえらせた人」 (セルリオ)と呼ぶ人もいるほどの人物であり、古代建築の研究をもとに盛期ルネサンスの古典主義建築を創始した人物として現在知ら れています。

  • 誕生からミラノ時代まで
  • ブラマンテについてはミラノで働き始める頃までのことはあまり分かっていませんが、ウルビーノ近郊の出身であると言われています。 彼の家は豊かではなくその生活はかなり苦しかったといわれており、彼が当初画家の道を歩むことになったのも父親が素描に打ち込む彼の 姿を見て画を描かせて稼がせようと考えたためだとも言われています。その辺りの真偽のほどは定かでないものの彼は画家としての修業を おそらくウルビーノにて行い、ピエロ・デッラ・フランチェスカやマンテーニャといった当時すでに様々な作品を残した画家たちの弟子で あったと考えられています。このように彼は当初画家としての修業を積んでいましたがその作品は現存していません。1477年にベルガモで フレスコ画を数点描いた(現在は断片のみが現存)と言うことが知られているものの1477年までの彼の活動はよく分かっていないようです。 しかし若かりし日々に画家としての修業を積んでいたことが後の建築でも活かされることになるのですから何とも不思議な物です。

    その後彼の活動がはっきりとわかるのは1481年に既にミラノにいたとことが知られています。どのような経緯でミラノに移ったのかはわかり ませんが、ウルビーノを発ちロンバルディアの地へ赴き、「できる限りの努力をして仕事を続けながら都市から都市へと遍歴を続けた」 (ヴァザーリより)と言われています。上記のベルガモでの絵画というのもロンバルディア遍歴の時期のことになります。そして1481年には ミラノで活動していたことが知られていますが、これについても2年前の1479年の時点で既にミラノにいたともいわれています。いずれにせよ 15世紀の残り20年間、ブラマンテはミラノで活動し、この時から建築家としての才能を発揮し始めるのです。

    ブラマンテが滞在していた頃のミラノは傭兵隊長あがりのスフォルツァ家が支配していました。当時の君主ルドヴィーコ“イル・モーロ” は他の君主と同様に芸術家のパトロンとして様々な芸術家を保護していましたが、ブラマンテとレオナルド・ダ・ヴィンチというルネサンス の巨星2人がルドヴィーコの保護下にあったということは特筆に値する事ではないでしょうか。またブラマンテにとってもダ・ヴィンチと 同じ時期にミラノに滞在したと言うことはかなり重要な意味を持っていたようです。レオナルド・ダ・ヴィンチというと絵画のみならず 様々な分野に手を出した人物として知られていますが、彼は実際には行わなかったものの多数の建築図面を書き残しています(その際に 彼の解剖学に対するアプローチの方法が建築図面作成にも反映されていると考えられています)。実際には建造されなかったものの彼の 図面や理論の探求はブラマンテの集中型教会堂プランに強い影響を与えたと言われています。そんなブラマンテのミラノにおける最初の 仕事はサンタ・マリア・プレッソ・サン・サティロ聖堂再建でこの聖堂再建にあたり、透視図法を用いて奥行きがあるようにみせていま すが、ブラマンテがかつて画家として修行する中でそのような技法を身につけ建築に応用したようです。その他にブラマンテがミラノで 取り組んだ建造物としてサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂もあり、こちらは1480年代後半に始められて1490年代いっぱい続いたもの の、結局彼がローマに行ってしまったため未完の状態で放置されることになります。ローマへ移るきっかけはミラノがフランスに攻略され ルドヴィーゴが没落したことが原因でした

  • ローマ時代
  • ルドヴィーゴ没落後、ブラマンテはローマへ直行し1499年冬にはにローマに到着しました。ローマにやってきたブラマンテはローマ市と その郊外にある古代建築を実測し、それは彼のローマにおける建築に役立てられていきました。ローマ時代の初期の頃は教皇アレクサンデル6世 のもとでサンタ・マリア・デラ・パーチェ聖堂の小回廊をつくったり、1500年にはテンピエットという小さな聖堂の建設を開始したことが 知られています。テンピエットは古代ローマの円形神殿を模した小規模な建造物ではありますがその後彼が取り組むことになる大事業の計画 の芽を含んでいる物でした。そんなブラマンテがローマ教皇ユリウス2世の主任建築家に任命され、ベルベデーレやサンタ・マリア・デル・ポポロ 教会回廊(1505〜09)を作っていきました。また聖堂以外に重要な建造物として彼の晩年(1512年頃)に作られた「ラファエッロの家」と 呼ばれる建造物を作ったことでも知られています。これは当初は彼自身が住むための家でしたが、その後はラファエッロが住んだことから そのような名前がつけられれています(現存はしていない)。

    しかしローマ教皇ユリウス2世の主任建築家としてブラマンテが取り組んだ建造物の中で最も重要な物はサン・ピエトロ大聖堂でしょう。 サン・ピエトロ大聖堂は15世紀半ばの時点で既に痛みが激しく、教皇ニコラウス5世の時に内陣再建のための資金を募ったことがありました。 しかしニコラウス5世が1455年に没した後半世紀にわたってサン・ピエトロ大聖堂はなにもされずに放置されてきました。その建物をユリウス 2世は改修しようと考え、ブラマンテにそれを任せることになったというわけです。ちなみにユリウス2世とブラマンテの新聖堂の構想に 関して、古い物をすっかり壊して全く新しい物を作ろうとしたといわれています。ペテロの墓の上に立てられたキリスト教世界で最も立派な 聖堂を再建する、そしてそれはルネサンスの時代の美学にふさわしい新しい物でなくてはならないという考えのもとで新聖堂の建設が1506年に スタートしました。

    サン・ピエトロ大聖堂は再建計画が立てられてから完了するまで非常に長い年月と多くの人々が関わっており、その間にブラマンテの計画 から変わった部分がかなりあります。またブラマンテがどのような聖堂を造ろうとしていたのかについてもそれを復元する史料は非常に少なく、 ブラマンテの設計図と呼ばれる羊皮紙に描かれた平面図とユリウス2世が作ったメダルに打ち出された聖堂の図しかありません。しかし彼の 計画についてはギリシア十字形の集中式プランにもとづいていたこと、大ドームが作られる予定であったことは確認されています。集中式 とは、一点に各部分が対称な建物のプランのことで、古代の記念堂や廟につかわれ、中世ではビザンツ世界の聖堂には用いられていたものの カトリック世界では普通洗礼堂に用いられていたものでした。そのプランを用いて聖堂も建造しようという機運がルネサンスを通じて高まり、 数学的秩序の探求を通じて聖堂も集中式で作るべきだという考えが生まれてきたのです。数学的調和を重視した集中式プランを用いて聖堂を つくると儀式がやりにくいという問題もあったようですが、実用性以上に理念が優先された時代だったようです。また大型ドームというもの も数学的調和がかんけいするといわれています。聖堂も宇宙の秩序に似せて作るべきと言う思想自体は東方教会では伝統的に存在していたと いわれていますが、ブラマンテの大ドームも宇宙のイメージとして考えられたもので、半球のドームを作ることを考えていたようです。

    ブラマンテは新聖堂建設にあたり旧教会堂取り壊しと新築工事を進め、1510年には4つの大アーチが完成しました。しかしブラマンテは 古い建物を破壊する事にも容赦が無く、多くの教皇の墓や優れた美術、モザイクを破壊したとも言われています。そのため「マエストロ・ルイ ナンテ」(ぶっ壊しやのマエストロ)というあだ名を付けられたとも言われています。なお、ブラマンテ存命中の1506〜14年の間に莫大な資金 を投下しながらもできあがった物は4つの支柱とアーチのみでした。結局ブラマンテが死んだときにはほとんど工事は進んでおらず、しかも ブラマンテの構想のとおりにつくると柱が細すぎるなどの欠陥も後から明らかになっています。何より後の人間を困らせたのは彼が後継者と してローマに招いていたラファエロ(ブラマンテとは血縁関係にあったと言われています)に決定的な設計案は残しておらず、彼の時代に 作られた柱の礎石やアーチによって後の工事も規定されるというかなり困難な状況のなかで後任の建築家たちは苦闘することになるのです。 しかしブラマンテにより古典主義建築が始められ、彼の弟子や助手たちはイタリア半島各地に散らばっていき、彼の建築理念が各地に広まって いくことになりました。


    (本項目のタネ本)
    ヴァザーリ「ルネサンス彫刻家建築家列伝」白水社、1989年
    石鍋真澄「サン・ピエトロ大聖堂」吉川弘文館、2000年
    マレー(長尾重武訳)「イタリア・ルネッサンスの建築」鹿島出版会(SDライブラリー)、1991年
      今回の記事ではこれらの著作を参考にしています。ヴァザーリの伝記は基本資料として非常に重要なものです(ただし一方で裏付けの 無い記述もかなりあるようですが)。その他の物はブラマンテが関わった大事業であるサン・ピエトロ大聖堂に関する著作と、彼が 活躍したルネサンスの建築に関する著作です。ブラマンテの影響を受けた建築家というのはかなり沢山いたようですね。

    次回は「ド」で終わる人物をとりあげます。

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