ティコ・ブラーエ
〜逆引き人物伝第6回〜


晴れた日の夜に空を見上げると数多くの星が見えます。宇宙には我々人類が暮らす地球もまた宇宙に沢山ある星の一つで、太陽系の 第3惑星であることは皆知っていることです。地球と太陽および他の惑星がどのような位置関係にあるのかと言うことに関しても今 では地球は太陽の周りを回っていると言うことが常識になっていますが、それが常識として定着するまでには人類が文明を築きあげ てからかなりの年月を要しました。古代世界では地球と太陽および他の惑星の関係についてはアリスタルコスのように地球が動いて いるという地動説は出された物の支持を得られずプトレマイオスが提唱した天動説が定着し、以降16世紀まで時々疑義は示されるも のの天動説が長きにわたって信じられていました。それがコペルニクス、ガリレオ、ケプラーといった天文学者が16世紀後半から17 世紀前半に駆けて活躍し、それからようやく地動説が認められるようになったわけです。しかしこれらの人物と比べると目立ちませ んが、緻密な観察を長年にわたり続けて天動説と地動説に関してかなり変わったアイデアを出した人物がティコ・ブラーエです。 彼が集めたデータがなければケプラーの研究はできなかったと言う点でも天文学の発展にかなり寄与した人物です。

  • 天文学者への道
  • ティコ・ブラーエ(1546〜1601)は当時デンマーク領だったヘルシングボリ(今はスウェーデン南部)の貴族の家に生まれましたが、 生まれてまもなく叔父の家に養子に出されています。しかしこの叔父がかなりお金持ちだったようで、このことが彼が後に各地の大学 を遊学するうで大いに役立つことになります。ブラーエは始めから天文学者を志していたわけではなかったようで政治家になることを 望んでいたとも叔父がそのような期待を込めていたとも言われています。いずれにせよそのために13歳から大学に通い、以後各地の 大学で学ぶことになりますが、まずはデンマークのコペンハーゲン大学で哲学と修辞学の勉強をし始めます。しかし大学で勉強を始め て間もないブラーエ14歳の時に彼は日食を目撃します。ある占星家が日食を予言し、それが見事に的中したことに興味を持ったブラーエ はその後天文学に興味を持ちプトレマイオスの天文学を読みふけります。彼の天文学への興味はその後強まりこそすれ弱まることはなく 1562年にライプチヒ大学の法学部に転学したにもかかわらず数学と天文学に熱中していた事が知られています。

    このころになるとブラーエは自ら観測を行い、星座の位置にずれがあることを知るようになっています。当時既にヨーロッパには星図 表が存在し、ブラーエの頃にはアルフォンソ表(13世紀後半に作られた物)にくわえて1551年にはプロイセン表と呼ばれる星図表が作 られていましたが、それらを参照しながら観測し、表に描かれた物と現在の星座の位置にずれがあることを明らかにしています。また 1563年には木星と土星を観察しそれまで用いられてきた惑星運行表に大きな誤差があることを発見したことも伝えられています。ブラ ーエはその後ヴィッテンベルグ大学、ロストック大学で学び、さらにバーゼル、アウグスブルグをまわり、1571年(1573年説も)には 故郷のデンマークに帰国したといわれています。しかしブラーエが数学の知識をひけらかしたことが原因で他の留学生と決闘することに なり、その結果鼻をそぎ落とされてしまったのもヴィッテンベルグやロストックで遊学していた頃のことでした。鼻をそぎ落とされたと いうことはブラーエにとりいたく自尊心を傷つけられる行為だったようで、金と銀を混ぜたパテや真鍮製の模造鼻を用意し、付け鼻が ずれたときにはすぐ修正できるようにのりのような物を常時携帯していたそうです。ブラーエについては横柄な自信家という評価がされ ることがおおいようですが、それは鼻を切られたことによる劣等感の裏返しではないかという指摘が為されています。いくら付け鼻を用意 したり、金銀を使ったきらびやかなパテでつけられるようにしても、所詮それは代替物に過ぎないわけで、劣等感を隠すために傲慢・横柄 になるというのも分かるような気がします(もちろんそれだけでブラーエの行動を説明するのは危険だと思いますが)。

  • 様々な発見
  • 1570年代にはティコ・ブラーエは天文学者として活躍するようになっており、その間に色々なことを発見します。その業績は1572年の新星 発見、1577年の大彗星発見(その後ブラーエは20年間で5つの彗星を発見します)というものでしたが、これは当時の宇宙観を揺るがす 大きな発見でした。今までの天文学ではアリストテレスの学説に従い、月より遠くでは何も変化は起こらず永遠不変の天球であると信じ られていました。しかしブラーエは新星発見と大彗星発見がいずれも月より遠くで起きたことを実際に示し、アリストテレス以来の宇宙 観の誤りを示すことになったわけです。かれ自身は古代の天文学者たちの説を支持しようとした人物なのですが、彼の精密な観測はそれ を悉くひっくり返すような結果を示し続けたと言うことは何とも皮肉な話です。

    ロストックを去りバーゼルをへてアウグスブルグへとやって来た1568年から1570年代前半のブラーエの行動についてはアウグスブルグ において金持ちの要請を受けて半径6メートルの大象限儀を1ヶ月間職人を雇って作らせた後の行動で諸家によって違いがあるようです。 ブラーエの天文学上の業績の一つに1572年に新星を発見したという出来事が挙げられますが、新星発見の場所についてはアウグスブルグ 滞在中に見つけたとする説と、故郷デンマークに帰国したときに研究室から外に出て空を見上げたときに見つけたとする説があります。 1573年にコペンハーゲンで「新星について」という論文を書いているので、そのころには既に帰国していることは確かですがその間の事 はあまりわかっていないようです。

    一方私生活の面では27歳の時(1573年)に農家の娘と結婚し(その後9人の子供をもうけることになります)、それが原因で一族内で のトラブルが発生し、ブラーエは故郷を離れてヨーロッパ各地を彷徨います。旅行の目的は天文学の研究とともに住む場所を探すこと だったようですが、この旅行中にヴィッテンベルグでプロイセン表作成者の息子から亡父の原稿を見せてもらったこと、ヘッセンでは 領主ヴィルヘルム4世に天文観測塔を見せてもらったことが知られています。しかしなによりもその後のブラーエにとり大きな転機と なるのはヴィルヘルム4世と知り合ったことで、彼と知り合うことがなければその後の研究活動はできなかったのではないかと思われ ます。故郷デンマークに帰ってきたブラーエのもとにデンマーク王フレデリク2世から天文台建設の申し出が舞い込んできますが、 フレデリックにそうするよう進言したのはヴィルヘルム4世でした。

  • ウラニボリ天文台にて
  • デンマーク王フレデリク2世がブラーエのために天文台建設を申し出、それによりデンマークのフヴェン島に巨大な天文台が作られる ことになります。フヴェン島は現在はスウェーデン領になっていますが当時はデンマーク領で、周囲およそ10キロの小さな島でした。 しかし底に作られた天文台は非常に大規模な物で天文観測所にくわえて書庫、紙漉所、印刷所、工場(天文機器をつくるため)を備え ていただけでなく研究員が泊まるための設備も用意されていました。この天文台は地下から宇宙を観測するつくりになっていますが、 これは当時の天体観測は望遠鏡がなかったために肉眼で行っており、高精度で星の位置を決めようとするとどうしても大規模な設備が 必要になります。地下の観測室はトンネルでつながっており、円形の観測室の中央には視差定規や六分儀などの観測機器が置かれ、壁に そって高度に応じ観測者が位置を変えるための階段が刻んであります。観測者はドーム状の天窓を通して星の位置を測定していました。 当時の観測装置は木製で風に弱く、ブラーエは観測制度を求めた結果地下に観測室を作ることを選んだというわけです。

    天文台はその見た目はあたかも城郭のようであり、ウラニボリ(天の城)と呼ばれるようになります。しかしそれでも後には手狭に なり(助手や作業員の数が増えたため)、別棟がさらにつくられてステルンボリ(星の城)と呼ばれていました。この天文台は1576年 8月に完成して12月には観測を開始し、この天文台でブラーエは精密な天体観測を20年にわたって行って大量のデータを収集することに なります(上述の彗星発見もこの天文台ができてから後のことです)。天文台建設は国庫から莫大な出費(2万ポンド)をおこなうと共 にブラーエ自身も叔父から相続した遺産2万ポンドと自身が製造した怪しい薬の販売収益をつぎ込んでようやく完成し、その維持のため にある地所からあがる収益があてがわれたと言われています。なおブラーエ本人に対しても年金(400ポンド)が支給されています。

    しかし1588年にフレデリク2世が死去し、クリスティアン4世が王になると徐々にブラーエを取り巻く情勢は変化を見せ始めます。そして ついにフヴェン島の天文台は閉鎖され、ブラーエは1597年に島を去り、1599年にプラハに着くという大変な体験をすることになります。 クリスティアン4世が即位してからしばらくは王室からの支援が続いたのですがそれが次第に途絶えていきます。一説にはブラーエが 製造販売している怪しい薬が医師たちの反感を呼ぶことになり、そこからさらに天文台の有用性が疑問視される事態に至って無用と判断 されたために援助が打ち切られて天文台が閉鎖されたと言われています。一方でブラーエの横柄な人柄が人々の反感を買っており、彼の パトロンであったフレデリク2世の死とともに表に噴出したともいわれています。ブラーエの天文台での態度はウラニボリの壁に歴代の 偉大な天文学者の肖像を並べたときに自分の肖像を置き、さらに彼の後継者の肖像を描かせていたという逸話が伝えられていますし、彼 自身は自室にいながら特殊な伝達機器を使って助手や作業員に指令を下していたために仕事がどんどん進んだとも言われています(この辺は かれの横柄な人柄が大いに役立った?のかもしれません)。

    1599年にプラハに入ったブラーエは当時の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世(この人もかなり代わった人物として知られています)のもとで 天文学者・錬金術師・占星術師として雇われます。プラハ郊外のペテナク城に天文台を構えますが1601年に彼は死んでしまうため新た な発見などはなく、天文学者としてのブラーエは1597年にフヴェン島を出た時点で終わっていたと言っても過言ではないようです。しかし このプラハ滞在が無駄だったのかというと後の天文学発展の点からは重要な出来事でした。それは1600年からブラーエのもとでケプラーが 働き始め、ケプラーはブラーエの死後、彼が蓄えてきた実測データを有効活用しながらケプラーの諸法則を確立することになるのです。

  • ブラーエの宇宙観
  • 長年にわたり天体観測を行い膨大な実測データを残したり(それをケプラーが有効利用していきます)、彗星や新星を発見して従来の 宇宙観に疑義を呈したブラーエですが、彼自身の宇宙観は従来の天動説でした。ブラーエが生まれた年はコペルニクスが死んでから3年 後ですが、彼は長年の観測の結果コペルニクスの地動説ではなく天動説を唱えるに至ります。ただし単純な天動説ではなく、地球以外の 惑星は太陽の周りを回っているが太陽はこれらの惑星とともに地球の周りを回っているというのがブラーエの考え方でした。

    ブラーエがそのような考え方に至ったのは彼が地動説に疑問を持っていたためですが、それについては彼が長年にわたって実測を繰り返し ながらも年周視差がないことから疑問を抱いたというのが一般的ですが、一方で彼が迷信家でありそれ故に地動説を受け入れられなかった とする説明もあります。しかし後者の説明は17世紀の科学者のなかに迷信家な人がいることを思うと少々苦しいと思われます。やはりここ はブラーエがきわめて実証的な天文学者であったことがかえって地動説受け入れの障害になったのだろうとおもわれます。なによりブラーエ の天文台では望遠鏡は用いられておらず、彼が望遠鏡のない時代の天文学者であったことを考慮する必要があると思われます。現在の観測 技術を使えば恒星についての年周視差が測定されますがそれは非常に小さな物で、我々から一番近い恒星で年周視差は最大0.76秒とのことです。 1秒は100キロ先で50センチという角距離にあたり、それは焦点距離10メートルの天体望遠鏡で写真を撮っても乾板上では0.05ミリしか離れて いないということになるようで、それを肉眼で確認することは無理だったわけです。それゆえにブラーエは天動説を支持することになったの です。それもあって彼の存在はコペルニクスやケプラーに比べると余り目立ちませんが、かれの実測データがなければその後の天文学の発展 も無かったわけで、古い時代と新しい時代の橋渡し役を果たしたと言うことはできると思われます。


    (本項目のタネ本)
    海部宣男「望遠鏡 宇宙の観測」岩波書店(岩波講座 物理の世界)、2005年
    日下実男「宇宙観史」東海大学出版会、1980年
    古在由秀「天文学講話」丸善(丸善ライブラリー)、1996年
    佐藤満彦「ガリレオの求職活動 ニュートンの家計簿」中央公論新社(中公新書)2000年
    キティ・ファーガソン「宇宙を諮る」講談社(ブルーバックス)2002年
      今回の記事ではこれらの著作を参考にしています。ブラーエについては天文関係の著作では必ず名前は出てくるのですがちょこっとだけ しかでてこないものがほとんどでした。また望遠鏡登場以前の天文学者であるブラーエの天文台についてはその構造や特徴、図面なども 少しだけですが出てきましたが、天文台というより城と言った方がよい建物です。

    次回は「テ」で終わる人物をとりあげます。

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