Three Years in Thebes:テーバイの3年
〜「ヒストリエ」第80話〜


(第80話の概略)

紀元前338年のギリシア中部の要衝カイロネイアにて、フィリッポス2世率いるマケドニア軍とギリシア連合軍が激突しました。 戦いは、マケドニア軍右翼とギリシア軍左翼に陣取るアテネ軍の衝突から始まりますが、この時、テーバイ軍指揮官テアゲネスは フィリッポスがテーバイで人質になっている時にテーベの戦い方などを学び、それをここで用いている旨の発言をしています。 一方、マケドニア軍の真の攻撃部隊は左翼の騎兵部隊にありました。

「ヒストリエ」第80話でテアゲネスがフィリッポスの人質時代のことをちょっと語っていますが、彼はテーバイに人質になっている 時に学んだことを後にいかしていったということはよく言われることです。では、どういう経緯があってフィリッポスは人質になった のか、そしてどのような影響を受けたのかをまとめてみようと思います。


  • フィリッポス、人質となる
  • そもそも、マケドニアの王族フィリッポスがなぜテーバイの人質となっていたのでしょうか。背景にはアミュンタス3世死後の マケドニア情勢が影響しています。まず、王の死後後を継いだアレクサンドロス2世のもとで、西方のイリュリアと和睦 して情勢を一時安定させました。さらに救援要請をきっかけにテッサリアへ進出し、ラリサの町を占領し、さらにクランノン へ進出します。このようなアレクサンドロスの動きに対し、マケドニア王のアレクサンドロスもフェライの僭主アレクサンドロス も望まないテッサリア人たちはテーバイに助けを求め、テーバイからはペロピダスが派遣されてきました。ペロピダスにより マケドニア占領下のラリサは解放されますが、この後ペロピダスはマケドニアへ、アレクサンドロス2世とプトレマイオスの 双方から招かれることになるのです。

    なぜそのような状況が発生したのかというと、マケドニアにおける王位継承をめぐる王族同士の対立が起きていたためでした。 アレクサンドロス2世が国王となったものの、国内では王位を奪おうとするプトレマイオスという王族がペロピダスの力を借り ようとしますが、アレクサンドロス2世もペロピダスに調停を依頼したのです。この時、ペロピダスは両者の仲裁に成功しますが、 アレクサンドロス2世とテーバイが同盟を結ぶことになり、このときに人質として貴族の子弟30人とともに王の弟フィリッポスが テーバイに送られることになったというわけですが、これは前368年頃のことでした。

  • テーバイでの人質生活
  • フィリッポスが人質としてテーバイに滞在したのは前368年から前365年のこととされます。この時代のテーバイはギリシア世界の 覇権を手にしていた時代であり、マケドニアの王位継承問題の仲裁にもはいったペロピダスや、レウクトラの戦いで斜線陣を用い スパルタを打ち破ったエパメイノンダスといった優れた指導者のもとで繁栄の時を迎えていました。エパメイノンダスが前362年 にマンティネイアの戦いで戦死し、ペロピダスも前364年にフェライの僭主アレクサンドロスとの戦いで戦死してしまうため、 テーバイの覇権は短期間で終わってしまいますが、ギリシアの覇権国家に滞在した3年間はフィリッポスにどのような影響を 与えたのでしょうか。

    テーバイ滞在中のフィリッポスはパンメネスという政治家の家に滞在しています。テーバイへ人質として送られる経緯や、 テーバイ滞在中のことについては様々な伝承があり、フィリッポスはエパメイノンダスの家に預けらられたとするものも あるほか(ユスティヌス)、年齢的に見てかなり無理があるがエパメイノンダスとともにピュタゴラス派の教育を受けた というものもあります(ディオドロス)。人質生活中にエパメイノンダスと接点が実際にあったのか定かではありませんが、 状況的に出会っている可能性がないわけではありません。

    フィリッポスはおそらくテーバイで厚遇されたと考えられます。もしマケドニアで何かあった場合には、彼を王とすることで マケドニアに影響力を及ぼすことも出来たでしょうし、そのあたりのことはある程度計算にはいれていたでしょう。結局、 彼を何かの駒として利用することはありませんでしたが、マケドニアからの人質はその後もさらに50人が送り込まれています。 そして、フィリッポスの人質生活は彼の兄ペルディッカスが王となり(ペルディッカス3世)、その時にフィリッポスは帰国 を認められ、3年間の人質生活に終止符を打ちました(なお、帰国後のフィリッポスの扱いについては、地方の統治を兄に 任されたという伝承もありますが、定かではない模様)。

  • テーバイで何を学んだのか
  • テーバイの3年がフィリッポスに対して何をもたらしたのか、これについての見解は研究者により様々です。しかし、 多くの研究者はフィリッポスに対して軍事面で大きな影響を与えたことについては意見が一致しています(なお、そのような 影響を認めない研究者もいます(Ellis,J.R. Philip II and Macedonian Imperialism))。

    では、どのような影響を与えたのかというと、まず真っ先に取り上げられるものはエパメイノンダスがレウクトラの戦いで スパルタ軍を打ち破った「斜線陣」です。レウクトラの戦いで、エパメイノンダスはテーバイ軍左翼に主力を集中し、戦いに おいて右翼の戦力には敵との戦いを極力さけつつ後退するように指示したうえで、密集隊形を斜めになるようにしていきます。左翼が 前に出て、徐々に右翼に向かうにつれ後退するような陣形をとっていきました。これをもちいて、両翼から包囲しようとする スパルタ軍に相対し、スパルタ軍主力が集まる右翼を叩き勝利をおさめました。

    このときのエパメイノンダスのとった斜線陣をフィリッポスが参考にしたということが通説です。もっとも、エパメイノンダスは 左翼に兵力を集中するという当時の戦い方からするとセオリー通りでないことをしているのですが。エパメイノンダスの斜線陣 と類似した戦い方はこの後のフィリッポス2世の戦いでもみられるようになります。イリュリア人のバリュデュリスとの戦いや、 カイロネイアの戦いでも斜めに陣を敷く戦い方をしています。

    そのほか、エパメイノンダスの影響としては歩兵と騎兵の連動、奇襲戦術、そして海軍の活用といったことに加えて、 兵士たちの士気を回復させるための巧みな弁舌や兵士たちに対する訓練といったものも考えられます。さらにテーバイという 覇権国家の最盛期を肌で感じることで軍事的な戦略について学んだり、ギリシアの都市国家についての洞察を深めるなど、 後々の彼に大いに影響を与えることが多かったようです。

    (参考文献)
    Hammond,N.G.L.Philip of Macedon Baltimore,1994
    Hammond,N.G.L."What may Philip have learnt as a hostage in Thebes?" GRBS 38-4(1997),p355~p372
    Müller,S. "Philip II"  in A companion to Ancient Macedonia(Roisman,J. & Worthington, I. (eds.),Wiley-Blackwell,2010),p166~p185
    Worthington,I. Philip II of Macedonia Yale Univ.Press,2008

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