王都ペラ
〜「ヒストリエ」第44話〜


(第44話のあらすじ)

紀元前337年、カイロネイアの勝利より後のある日、マケドニア王フィリッポス2世は6年前の出来事を思い出していました。その6年前とは カルディアを従属させた年であり、エウメネスがフィリッポスに仕え始めた年でした…。

物語はその後マケドニアで働き始めたエウメネスの様子を描いていくような雰囲気ですが、このときエウメネスがやってきた町がマケドニア 王国の首都ペラでした。マンガでは劇場から王宮、港らしきものまで含めたペラの町の全体図まで描かれているという力の入れようでしたが、 このコーナーでは、マケドニア王国の首都ペラについて扱ってみようと思います。


  • ペラの建設
  • マケドニア王国の首都ペラが作られたのは紀元前5世紀後半のことといわれています。それまでのマケドニア王国の首都はアイガイ(現在の ヴェルギナ)におかれていましたが、ペラはバルカン半島の東西南北のルートを押さえる戦略的に重要な場所であったことから都が移された といわれています。そして、このペラ遷都を行ったときのマケドニア国王はアルケラオスであったと考えられています。ペラ遷都について 具体的な記述があるわけではなく、新都造営をはっきり示す遺構も見つかっていないのですが、アルケラオスの宮廷に招かれた文化人の一人 エウリピデスが晩年を過ごした場所がペラであり、アルケラオスがペラ遷都を行ったと考えた方が良いようです。

    ペラはバルカン半島の交通の要所(ローマ時代のエグナティア街道がそこを通っている)であり、アクシオス川にそって北へ向かうこともでき、 当時はテルマイコス湾が近くにせまっており海にも出られる(なお、ストラボンによるとテルマイコス湾からリュディアス川を120スタディア さかのぼったところにあり、リュディアス湖という湖に面していたといわれています。これが前4世紀かストラボンのいた時代のことかは不明です) 今は海岸線が後退して内陸になっていますがこういった要件を備えていたことからアイガイにかわって新首都として選ばれたといわれています。 また、ペラの近くにパコスという小島があり、前2世紀の頃になるとそこは沼地で守られていてマケドニア王国の宝庫があったというリウィ ウスの記述もありますが、果たしてそれが前5世紀末や前4世紀に存在したのかどうかは定かではありません(やはり典拠がリウィウスなので…)。 そうした島の存在や、海岸線の問題から、海からの攻撃に対しては防衛がしやすかったようです。

    また、ペラが選ばれた理由として、マケドニアの森林資源を有効活用するうえでペラ(特にその港)が大いに役立ったとする説もあります。 王国発展のために木材を独占することの重要性を認識していたアルケラオスが、ペロポネソス戦争も最終局面に入る中で軍艦の材料となる 木材をアテナイが必要としている状況をみてとり、そこでマケドニアの森林資源を運びやすい港としてペラに目をつけ、さらに軍専用の木材 をペラに持ってきたあと、ペラで軍艦の建造を行ったと言うことがその大まかな内容となります。直接それを示す証拠があるわけではなく( 確かにアルケラオスを木材提供の故に顕彰刷る碑文は存在しますが…)、あくまでも一人の研究者の説でしかないものの、なかなか興味深い 説であるとは思います。

    なお、ペラに都が移されたからと言って、それまで都がおかれていたアイガイが放置され全く使われなくなったというわけではなく、アイガイ はこの後宗教儀礼や埋葬などを行う都市になり(フィリッポス2世が暗殺されたのはアイガイですし、ヴェルギナ王墓のおかれている場所は かつてのアイガイであるというのが通説になっています)、ペラがマケドニアの政治の中心都市として発展していくことになります。

  • ペラの発展と衰退
  • アルケラオスの時代はギリシア文化の積極的な受容が見られた時代ですが、そういった活動もペラを主な舞台として展開され、ギリシア人画家 ゼウクシスがギリシア絵画で屋敷を飾り、ギリシア三大悲劇詩人の一人エウリピデスはアルケラオスのもとで悲劇を書き、その他にパトロンで ある彼をたたえてマケドニア建国伝説を書いた「アルケラオス」という劇も残しています。また、ソクラテスも招かれたと言われていますが、 彼はやってこなかったという話も伝わっています。そして、クセノフォン「ヘレニカ」ではアミュンタス3世の時代のマケドニアでは最大の都市 と呼ばれるほどに発展していきました。

    そして、フィリッポス2世の時代にはペラの町はさらに拡大されていきます。ストラボンによるとフィリッポス2世は今まで小さかった町を拡大 したと言われています。フィリッポス2世の時代、ペラはマケドニアの首都として発展し、マケドニアの勢力拡大とともにギリシア諸ポリスとの 政治交渉の舞台ともなっていきます。アテナイからの使者がペラにやってきて、その時の様子を弁論に書き残したりしています(ただし余りよい 場面でなかったりするのですが)。また歴史家テオポンポスなど文化人も宮廷に滞在するなど、文化的にもマケドニアの中心であったと考えて よさそうです。

    ペラの町の発掘は現代も進められているようですが、ペラの町はカッサンドロスの時代(前4世紀末)に大規模な整備が行われ、ヒッポダモス式 の碁盤目状の都市となったことは判明しましたが、それ以前の構造はわからなくなっています。また、ペラの発掘によって見つかったフィリッポス 2世時代の遺構はあまりなく、彼の時代に造営されはじめた(時期としては前4世紀後半と考えられています)王宮の遺構や、ペラの都市域拡大 とともに東へ移動しした墓域、全長8キロになる市壁(本によって前4世紀半ば説とカッサンドロスの治世説があるのですが…)といったものが 発見されているようです。また、ペラの町には港湾施設が整備されており、それが後にアレクサンドロス大王がナイルやインダス、ユーフラテス の河口に港を作るときの手本となったともいわれています。

    フィリッポス2世、アレクサンドロス大王時代の遺構はあまりなく、その頃のペラの様子はわからないのですが、カッサンドロスの時代に大規模 な整備が行われた後のペラについてはモザイクで床が飾られた貴族の邸宅や、ヘレニズム期のペラにおける政治・経済・文化の中心で都市生活の 中心であったアゴラ(カッサンドロスの時代に設計されてからも改修が続けられた)、その他神域や墓域がみつかっています。現在、ペラの遺跡 として見ることの出来る遺構はその大半がカッサンドロスの時代以降のものです。カッサンドロスの時代以降、混乱期を経てアンティゴノス朝 ができたあと、ペラはマケドニアの首都として繁栄し、アンティゴノス・ゴナタスの時代には彼が文化の保護と発展につとめ、歴史家ヒエロニュ モス(ディアドコイ戦争の歴史を書き残した人です)などが招かれたことがしられています。そんなペラもアンティゴノス朝滅亡の際に略奪され、 その後マケドニアの中心地はテッサロニキに移るなか衰退していきます。そして紀元前1世紀に地震による損害を被ったあとは表舞台からは消えて しまうのでした。

    (参考文献)
      周藤芳幸・澤田典子「古代ギリシア遺跡事典」東京堂出版、2004年(ペラの遺跡の様子や歴史の概略がまとまっている)
      Borza,E. In the shadow of Olympus (Princeton,1990(paperback edition))(アルケラオスの項目にペラの話がまとまっている。なお、ストラボンの記述は信用していないようです)
      Greenwalt,W."Why Pella?" Historia 48(1999),p158〜183 (なぜペラを選んだのかを考察した論文。経済的メリットや海上からの防衛の容易さといったことが述べられており、ちょっと使ってみました)
      Hammond,N.G.L. Philip of Macedon (Baltimore,1994)(ペラの港湾施設の件に言及している)

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