傭兵指揮官イフィクラテス
〜「ヒストリエ」第34話〜


(第34話の概略)

ティオス市の有力者ダイマコス率いる軍勢に対し、ボアの村人達はエウメネスの策に従って戦いを挑みます。エウメネスの 策は隊列が整った軍勢を移動型の柵で足止めて一人一人長槍でしとめたり矢を射かけたりするというもので、エウメネスの 策は功を奏し呆気なくダイコマスの軍勢を粉砕し、ダイマコスも討ち取ってしまいます。

この作戦を遂行するにあたり、エウメネスが通常よりも長い槍を導入し、それを導入しようと思った理由としてイフィクラテス という将軍の存在を挙げていました。今回は、イフィクラテスについてかなり軽くまとめてみようと思います。


  • 指揮官イフィクラテス
  • イフィクラテスは靴職人ティモテオスを父として生まれ、その生まれ故に軽んじられていましたが、前4世紀前半に勃発した コリントス戦争の時期に指揮官として活躍することになります。彼はこの戦争で活躍したコノンとなにがしかのつながりがあった ようで、コノンの指揮下でスパルタ艦隊を打ち破った前394年にクニドスの海戦において、彼も活躍しています。それからまもなく、 彼は傭兵の指揮をまかされることになりますが、この時に彼が率いたのが「ペルタスタイ」と呼ばれる兵士達でした。 ペルタスタイの指揮官に任ぜられたイフィクラテスは、前392年のコリントス近郊の戦いやその後のペロポネソス半島での 軍事行動(シキュオン、フィリオス、アルカディアの略奪、前390年のレカイオンの戦いでのスパルタ軍に対する勝利など)に おいて華々しい活躍を見せることになります。前390年のスパルタ重装歩兵を壊滅に追いやるほどの勝利はアテナイにおいて顕彰の 対象となり、像の建立とシテシス(終生国家が振る舞う食事にあずかることができる権利)の授与をうけたほどでした。

    「ペルタスタイ」は元来はペルテーと呼ばれる三日月型の盾を装備し、投げ槍や弓を用いる軽装かつ機動力のある兵力のことを指します。 前390年のレカイオンの戦いにおける「ペルタスタイ」の戦い方はまさにそのような機動力を活かしたもので、スパルタの重装歩兵は 投槍をもちい、側面から攻撃を仕掛けてくる「ペルタスタイ」の前に惨敗を喫しています。 しかし、イフィクラテスの率いた「ペルタスタイ」はそのような軽装歩兵というよりも、重装歩兵を少し軽装にしたり武器の長さを増した、 重装歩兵の変種とでも言えばよい兵士をさすといえる記述があります(ネポス「イフィクラテス伝」)。それによると、イフィクラテスは 歩兵の装備に改良を加え、それはペルテーの使用や新しい靴の採用や胸当ての材質の変更(亜麻布製の物を採用)、刀身の長大化、そして 今回の話の中で取り上げられた槍の長さを伸ばすといったものでした。

    イフィクラテスが軽装歩兵の装備を改良したのか、はたまた重装歩兵の装備を軽くしたのか、そのあたりは何とも判別がつきがたい物が あります(ネポスの記述では装備改良の時期もはっきりはしていません)。ディオドロス(15巻44章)にも装備改良の記述があり(ネポス より詳細な記述。ディオドロスの記述は恐らく前4世紀のエフォロスに由来するらしい)、それがペルシアの戦争の経験を活かした旨を書いて いるので、実際の装備改良はレカイオンの戦いより後のような気もします。そうであったとしても、彼が率いていた兵士が軽装歩兵だったのか、 そうでなく重装歩兵を率いていったのかはあまりよく分かりません。また、イフィクラテスの装備改良が一時的な物であるとする説 もあり、軽装歩兵を連れて行って装備を強化したり(槍と剣を長くした)、 重装歩兵の装備を軽くしたり(盾を変えたり、胸当て を変えた)、色々な装備改良を行ったものの、他地域・後世まで影響しなかったのかもしれません。ただし、そうであったとしても、 イフィクラテスが色々なアイデアを持っていて、それを実行に移した人物であることは確かなようです。

    またイフィクラテスは指揮官として、自分が率いている部隊を厳しく統制し、徹底した訓練を施したことでも知られるようになりますが(それは 陸戦舞台のみならず、艦隊に対しても行われています)、「イフィクラテスの兵士」は最高の名誉を表したも言われています。「イフィクラテスの 兵士」がいつ頃から言われるようになったのかは分かりませんが(ネポスのイフィクラテス伝の叙述の順番では、前370年代にペルシアの傭兵 指揮官となったときの箇所に入れられています)、ネポスの叙述においてかなり強調されているのは、彼が自らが率いる部隊に対してしっかり した訓練を施し、厳しく統率していたという点です。

    レカイオンの戦いの後、前388年に彼はケルソネソスへと派遣されますが、この時に彼が率いていた軍勢の多くはコリントスで彼とともに活動 していた兵士達でした。この時彼はアビュドス付近でスパルタの軍勢を打ち破る活躍を見せています。その後のイフィクラテスは、前370年代には ペルシア側の傭兵指揮官としてエジプトで戦い、前373年にアテナイへと戻ることになります。アテナイに戻った後も、彼はアテナイ艦隊を 率いて遠征をおこなったり、アテナイを離れてトラキアに滞在したりと、アテナイというポリスの枠組みから完全に離れるでもなく、 かといってべったりとくっつくでもないように見える行動を取っていますが、アテナイの政界とはかなり密接な関係を持っていたようです。

  • イフィクラテスとエーゲ海北岸
  • 話は遡りますが、コリントス戦争で指揮官として活躍した彼は前373年頃までアテナイへと戻りませんでした。その間主に何をしていた のかというと、エーゲ海北岸を中心に活動し、時にペルシアの傭兵指揮官を務めるといった具合でした。この時期、トラキアのオドリュ サイ王国にとどまって、王位継承を巡る争いで混乱する王国の安定に貢献し、セウテス2世を支援して復位させ、その息子であるコテュス にも仕えることになります。また彼はコテュスの姉妹と結婚し、長男メネステウスを設けたほか、彼はコテュスに厚遇され、トラキア沿岸部 に土地を与えられました。コテュスとの関係は、前365年にアンフィポリス方面での軍事行動の指揮をティモテオスに譲ったあとにコテュス の宮廷に仕え、アテナイとオドリュサイがケルソネソスを巡り対立する中、前360年に彼の元を離れています。しかしコテュスから与えられた 土地は保持しており、コテュス没後まもなくそこへ移り住み、前357年の同盟市戦争勃発まで暮らしていました。 長男のメネステウスは母親がトラキア人でありながら、アテナイ市民として公共奉仕を果たしたり、ストラテゴスに選ばれるなど、普通の 市民と同様の活躍を見せています。ペリクレスの市民権法では両親ともアテナイ市民でなくてはならない決まりであり、当時もそれは 有効だったのですが、なぜ彼が市民となれたのか確実な理由は分からないようです。

    オドリュサイ王国との関係のみならず、彼はマケドニア王国とも密接な関係を持つようになり、マケドニア王アミュンタス3世の養子と なっています。アミュンタス3世(フィリッポス2世の父親)は20年ほどという比較的長い在位年数の王でしたが、彼の時代はイリュリア、 オリュントス、テッサリア、テーバイなど周辺国の外圧のさらされ続け、彼は一時王位を追われた事もあるという、マケドニア王国史上、 苦難続きの時代でした。イフィクラテスがアミュンタスの養子となったのも、このような時代において彼がアミュンタスを支援する行動を 取ったためではないかと考えられています。その後前368年から3年間、アンフィポリス方面でアテナイの艦隊を率いていた時期には、 アミュンタス3世が前370/69年に没した後の動乱期に入っていたマケドニアに軍事介入しています。アミュンタス3世の息子アレクサンドロス2世 が暗殺され、前367年頃、王位を狙うパウサニアスという王族が挙兵し、マケドニアは混乱状態にありました。このときに未亡人エウリュディケ はイフィクラテスに助けを求め、彼もこれに応じて介入し、パウサニアスを追うことに成功しました。

  • アテナイ政界とイフィクラテス
  • イフィクラテスというと前4世紀の傭兵指揮官としてその名が知られている人物ですが、彼の行動はアテナイの対外政策とかなり密接に関連 しているところがあり、アテナイの対外政策に関わるなかでマケドニアやオドリュサイとも関係を持っていたように見える所があります。 では、前373年にアテナイに帰還したイフィクラテスはアテナイの政界とどのように関わっていたのかというと、トラキアに滞在したりして アテナイになかなか帰ってこない時もありますが、アテナイの対外政策(エーゲ海進出等々)にかなり積極的に関わりをもっていたことが知られ ています。そして、主体的に振る舞ったのか、巻き込まれてたまたまそうなったのかはわかりにくいところもありますが、何だかんだと いいながら彼の同時代に活躍した政治家達と比べるとましな死に方が出来たようです。

    前373年にイフィクラテスが帰還した当時、アテナイではカリストラトスとティモテオスという2人の政治家が力を持っていました。2人とも対 スパルタ戦で戦果を挙げ、市民からの人気を得ていましたが、ティモテオスの父はコリントス戦争で活躍し、かつてイフィクラテスも仕えた コノンであり、そんな彼を何とか追い落とすべくコルキュラ遠征がうまくいかない(資金繰りに苦労し、時間をかなり無駄にした)ところを 攻めどころとして、カリストラトスはティモテオスを告発します。この告発にイフィクラテスも加わっていますが、自らの恩人の息子を告発 して追い落としていったわけです。そしてコルキュラ遠征はイフィクラテスが指揮官となり、成功裡に終わります。その後、前368年より3年に わたりアンフィポリス方面での軍事行動を指揮し、アテナイの海上覇権確立のために戦うことになります(その間にマケドニアにも介入して いますが)。

    しかし話はそこにとどまらず、イフィクラテスはのちに自分が失脚させたティモテオスと婚姻同盟を結んでいます。法廷弁論では、ティモテオス がイフィクラテスに対して市民権詐称の公訴を起こすと脅し、その後に婚姻同盟が結ばれたという記述があるようですが、前373年に失脚した ティモテオスがエジプトで傭兵指揮官として財力を蓄えて帰国し、前367年に将軍職に返り咲くまでの間にティモテオスの娘を長男メネステウス の結婚が行われたと推測されています。イフィクラテス自身が積極的にこの婚姻同盟にのったのか、はたまた弁論で言うように脅されたことが関係 するのか、はっきりしたことは分かりませんが、結果としてこの同盟は彼にとってプラスに働きました。というのも、前366年に遠征失敗が原因で カリストラトスは告発され、無罪にはなったものの、これ以降彼の一派は力が弱まっていき、一方でティモテオスは勢力を増していったためです。その後 カリストラトスとその一派は前360年代末には力を失い、彼は国外へ亡命してメトネやタソス、ビザンティオンへと移っていきます。

    前360年代に巻き返したティモテオスはエーゲ海北岸におけるアテナイの勢力拡大に大いに貢献し、イフィクラテスもそれに関わっていたようで すが(トラキアでの活動はその辺と関係があったようです)、同盟市戦争においてアテナイが敗れる中で、彼らの身にも禍が降りかかってきます。 同盟市戦争の最中、将軍カレスと共同で指揮を執ったティモテオス、イフィクラテス、メネステウスは、エンバタの海戦で敗れます。この時に カレスが負けたのを彼らのせいにし、売国の咎で彼らを讒訴し、カレスと組む弁論家アリストフォンが告発人となって弾劾裁判が行われました。 ここでティモテオスは有罪に問われ、100タラントンの罰金(史上最高額だと言われています)を課せられ、結局それを支払えずに亡命し、没する と言う最後を迎えたのに対し、イフィクラテスとメネステウスはなぜか無罪を勝ち取っています。市民皆から好かれていたと言われているので、 うまく立ち回って無罪判決を勝ち取ったのかもしれませんし(ティモテオスとは一寸違う模様)、それ程政界で重要視されていなくて、たまたま 無罪になったのか、あまりよく分からないのですが、無罪判決を受けてまもなく、彼は天寿を全うしたと言われています。

    彼の正確な生没年は分かっていませんが、前354年から前352年の間頃とか、前353年頃といった時期だと言われています。 漫画の中では、幼年期のエウメネスがイフィクラテスとあっていますが、前357年に同盟市戦争が勃発する直前にイフィクラテスはアテナイへと帰還 してしまっているため、前357年より前のこと、そしてエウメネスが生まれるのが前360年代末(前362年頃)といわれているので、その期間のどこか でイフィクラテスがカルディアに行ってヒエロニュモス家を訪ね、そこでエウメネスにあったという感じになるのでしょう。とはいえ、幼少期に 一寸見たり聞きかじっただけのことを覚えていて、青年期にそれを活かすというのは、一寸超人じみているような気がしますが、その辺はいいん じゃないかとおもいます。

      (参考文献)
      ネポス(山下太郎・上村健二訳)「英雄伝」国文社、1995年
      フェリル(鈴木主税他訳)「戦争の起源(新装版)」河出書房新社、1999年
      ポリュアイノス(戸部順一訳)「戦術書」国文社、1999年
      澤田典子「アテネ民主政」講談社、2010年
      Spence,Iain G. Historical Dictionary of ancient Greek warfare,  Lanham&London, 2003,  s.v. "Iphicrates"
      Savin,P. van Wees,H. & Whitby,M. (eds.) TheCambridge history of Greek and Roman WarfareVol.1,Cambridge,2007
      Stylianou,P. J. A Historical Commentary on Diodorus Siculus, Book 15, Oxford,1999

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