第3次マケドニア戦争勃発


  • 開戦までの道筋
  • 第3次マケドニア戦争が始まる前、ローマから1000の兵を伴った5人の使者が派遣され、コルキュラからイリュリア、ペロポネソス、 エペイロス、テッサリア、ボイオティア、エウボイア方面へと分かれていった。そしてギリシア各地の親ローマ派を勇気づけ、各地 からローマに対する支持を取り付けていった。これによりエペイロス連邦やアカイア連邦はローマ側に味方することになり、また ローマ兵を守備隊として受け入れる動きにもつながっていった。使者のなかでマルキウス・フィリップスとアウルス・アティリウス はテッサリア連邦からの支持をとりつけた。この5人の使者がギリシア本土に向けて派遣された際にマケドニアから連絡を取り合う 動きが見られた。

    まず使者たちがコルキュラに到着した際に、兵士を率いてギリシアへやってきたことや都市を占領していることを問いただす ペルセウスからの手紙を受け取ったが、言葉の上だけでの形式的な返答にとどまった。またマルキウス・フィリップスはテッサリア のペネイオス河畔でペルセウスと会見し、マルキウス・フィリップスからはローマに使者を派遣するようにとのアドバイスがなされた。 その言葉通りにペルセウスからローマに使者が派遣されたが、彼らがローマで待たされている間にギリシア各地へ向かったローマの 使者たちは各地で同盟を結んだり、中立を勝ち取っていった。

    さらに同盟を破ってローマの同盟国へ攻撃したことやローマに対する戦争を計画していることといった非難に対し満足のいく返答が なければマケドニアと戦争することが民会にかけられるなど、ローマの対マケドニア強硬姿勢はさらに強まっていた。その状況下で 前171年3月にペルセウスからの使者たちが元老院を訪問したが、ローマ側の返答は使者および他のマケドニア人たちの30日以内の イタリアからの退去であった。ローマはマケドニアとの戦争を戦うつもりであることが明らかになると、ペルセウスはローマとの 戦争を戦うことを決意した。

    ローマとの戦争を戦うにあたり、ペルセウスは同盟者を期待することはできたのか。ペルセウスはエウメネス、アンティオコス、 プトレマイオスへと使者を送って協力を期待したが無駄であった。またビテュニアのプルシアスは中立、カッパドキアのアリアラテス はローマ側についた。ギリシアの都市国家も心情的にはマケドニアのほうに同情する向きもあったが、それと実際にともに戦うことは 別ということで、中立を選択したり、ローマ側について戦うところが多かった。バルカン半島でもオドリュサイ人の王コテュスが 唯一同盟者となったが、それ以外ははっきりしない姿勢をとった。

  • 第3次マケドニア戦争始まる
  • そして、前171年、ローマ軍はギリシアへ向かい、さらにラリサへ向かった。この間にペルガモンの軍勢や、アイトリア、アカイア等 からも増援をうけた。一方、ローマとの話し合いでかなり時間を浪費することになったペルセウスも軍勢を動員してマケドニアから 南方へと向かった。前171年、ペルセウスはカッリキノスの戦いでローマの騎兵を破った。このとき敗退したローマ軍は歩兵、騎兵を 数多く失い敗退した。勝利の後、ペルセウスは和平締結を申し入れたがローマはこれを拒否した。

    紀元前170年の戦いはローマにとっては余りうまくいかなかった。ローマ軍は2度ほどテッサリアを通ってマケドニアへ攻め込もう としたが不首尾に終わった。また、ローマによるヒュスカナ奇襲も失敗した。軍事行動がうまくいかない状況が影響したのか、 ローマ軍による乱暴狼藉もたびたび発生した。友好関係にあるアブデラに対して要求が通らなかったことをきっかけに攻撃を仕掛け、 住民を売り飛ばした。またカルキスでも神殿の略奪だけでなく市民を奴隷に売るという行動が見られた。

    一方ペルセウスはテッサリア北部で反攻を優位に進め、さらに北方でダルダノイ人を打ち破った。冬場から春にかけて北方で行った 遠征のうち、離反したヒュスカナに対する攻撃は成功した。そして、北方のイリュリア人を味方につけるべく、イリュリア人の 有力部族を支配するゲンティオスのもとに使者を派遣し同盟を呼びかけた。しかしモロッソイに対する遠征は失敗した。ローマの 軍事行動もうまくいっていないが、ペルセウス側の軍事行動もすべてがうまくいき、決定的な優位を確立できたというわけではなかった。

    前169年になっても状況が大きく変わることはなかった。マルキウス・フィリップス(かつてフィリッポスの賓客であり、ペルセウス に対しては施設を送るように勧めたあのフィリップスである)が司令官となった。しかしディオンを拠点とするペルセウスがあらかじ め山間の要衝を固めるために配置したヒッピアス率いる軍勢により進軍が阻まれると、フィリップスはオリュンポス山の南麓から ヘラクレイオン付近の海岸まで至る険しい道を進み、ピエリア平原へと入った。

    これに対しペルセウスはいったんディオンを引き 払ってピュドナへ移り、ディオンにフィリップスが入るがその後補給に苦しみ撤退すると、ペルセウスがまたしてもディオンを奪回 した。しかしローマ側もヘラクレイオンを陥落させた。その一方でローマの艦隊はマケドニアの沿岸部を攻撃するが失敗した。 また、ペルセウス側ではレンボス船を用いて活発な活動を展開しつつ、マケドニアに向かう穀物輸送船を守りつつ敵の輸送船を 襲撃していた。

    ペルセウスの側ではローマの軍勢を撃退しつつ、同盟者を求めた。アンティオコス4世やエウメネスは協力しなかった。バスタルナイ 人のクロンディコスが騎兵10000を以て協力を申し出たが、結局支援は受けられなかった。しかしイリュリアのゲンティオスはペルセウス に味方することを選んだ。

    ゲンティオスとの同盟、クロンディコスとの交渉失敗については、ペルセウスの吝嗇に関する記述が 残されている。ゲンティオスに対しては当初300タランタを支払って協力させることが約束され、まず10タランタを支払い、残りは あとということになった。しかし全額を支払う前にゲンティオスがローマの使者をとらえローマに敵対した様子をみたペルセウスが 残りの金額を支払わなかったという。またクロンディコスの支援要請に対しては5000でよいという返事をしたことから交渉が不首尾 に終わったという。なお、ペルセウスの吝嗇を指摘する記述は随所に見られるが、クロンディコスに対する出し渋りは自軍騎兵以上 の兵力を入れることへの警戒心、対ローマ戦争を戦う上での軍資金の問題なども可能性として指摘されている。

  • ルキウス・アエミリウス・パウルスの登場とローマ側の攻勢
  • ローマにとり、前169年のペルセウスとの戦いは思うように進まなかった。作戦も決して全てがうまくいっているわけではない 状況にくわえ、ゲンティオスがローマに離反しただけでなく、モロッソイがローマと敵対するようになった。さらにギリシア人 もあまり協力的でなかった。前168年になり、ようやくこの戦争で勝利を得る上で適任な人物が選ばれた。それがルキウス・ アエミリウス・パウルスである。彼の求めにより3人の元老院議員が調査のためイリュリアやギリシア方面に派遣され、 その報告をもとに3つの方針が決められた。当時のローマはマケドニアよりも多い兵を擁し、3方面で作戦行動が可能であった。

    方針1はイリュリアのゲンティオスに対する戦いである。ルキウス・アニキウス・ガッルスはゲンティオス軍を上回る軍勢を 率いてイリュリアにむかい、レンボス船の活動を抑え、陸上の戦いでもゲンティオス軍を破って攻め込み、首都スコドラまで 攻め込まれたゲンティオスは降伏、ゲンティオスと王侯貴族はローマに送られた。イリュリア方面での戦いはわずか一月程度 でローマが勝利を収めた。

    方針2は海上でのローマの活動の強化である。マケドニアはレンボス船を用いた海賊行為をおこなっていたが、グナエウス・ オクタウィウス率いる艦隊が制海権を握り、そのような活動も難しくなり、さらにマケドニアの沿岸部をローマ軍が攻めてくる ときに守りを固めねばならなくなり、ペルセウスも守備のために兵力を割かなくてはいけなくなっていった。

    そして方針3がマケドニア南部へのローマ軍上陸であり、こちらはアエミリウス・パウルスが率いていた。パウルスはヘラク レイオン近くに陣を築いていたすでにマケドニアで戦っているローマ軍と合流すると軍を立て直した。

    前168年春にアエミリウス・パウルスとグナエウス・オクタウィウスが到着したことを知ったペルセウスはエルペウス川北岸に陣を 構え、さらにオリュンポス山のピュティオンとペトラの峠の守りを固めてローマ軍に備えた。一方アエミリウス・パウルスはエルペウス 川南岸に陣を構えてマケドニア軍と相対することとなった。ローマによるゲンティオス撃破の知らせがとどいたのは、両軍が 相対している最中のことであったという

    アエミリウスはマケドニア軍と戦うにあたり、正面のマケドニア軍と対峙しつつ、別働隊をスキピオ・ナシカに率いさせて迂回させ、 ピュティオンの峠を守るマケドニア軍を奇襲させることにした。一方で迂回した軍隊から注意を逸らすため正面のマケドニア軍との 戦闘を開始した。その間にスキピオ・ナシカ率いる別働隊がピュティオンの峠を襲撃し、峠を奪取することに成功した。峠を奪われ、 ペルセウスはエルペイオス北岸の陣を離れてディオンとピュドナの間の海沿いの平野に布陣、ローマ軍はペルセウスの陣の南側に布陣 した。そして前168年の6月21日に月食が起こったことが知られており、その翌日にピュドナの戦いがおこることになる。


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