第3次マケドニア戦争への道


  • ペルセウスの下での勢力拡大
  • フィリッポス5世が死去した後、ペルセウスが即位し、アンティゴノス朝最後の王となる。ペルセウスはアルゴスの由緒正しい家の 生まれの母を持ち、成長した後はフィリッポスは彼を後継者として考えていたようである。フィリッポスはバスタルナイ人との共同作戦 ではペルセウスに先行部隊の指揮を任せたり、新しく作った町にペルセイスという名前を付けたことからもうかがえる。 前179年にフィリッポスが死去したとき、ペルセウスはトラキアにいた。王の死の知らせは侍医が周囲には秘匿しつつ、ペルセウス には知らせ、それによって彼は早く帰還し、王となることが出来たという。おそらくまずはフィリッポスが主力軍を率いて滞在して いたアンフィポリスヘ戻って軍を掌握し、それからペラへ帰還して即位したことを改めて知らしることになったと思われる。

    彼の素早い行動によって、王が死に、王子がよそにいるという、王位を狙う他の王族からみるとまさに理想的な状況を活用されることは 防がれた。リウィウスによると、アンティゴノス(アンティゴノス3世の甥)という王族がライバルであり、ペルセウスに処刑されたと いうことがかかれているが、これはペルセウスが不当な後継者であるとする文脈であり、そのまま信用することは難しい(アンティゴノス の処刑については、バスタルナイ人との共同作戦遂行に際しての不首尾が原因とする説もある)。

    即位して間もないペルセウスは、フィリッポスの死後マケドニアに侵入してきたトラキアの一派サパイオイ人の王アブルポリスと戦って 勝利し、彼を王位から追放した。また、ローマに使者を派遣し、フィリッポス以来の“友好関係”の更新をもとめ、ローマもこれを認め、 彼をマケドニア王として承認した。さらに、前178年にはセレウコス4世の娘ラオディケと結婚し(このときロドスの艦隊が彼女を護衛した)、 王国をまとめるべく負債帳消しや追放者の呼び戻し、罪人の解放をおこなったという。

    ペルセウスは治世の初期の段階からギリシア諸都市の関係をよりよい物としようとした。彼は中下層民の後援者という姿勢を取ったという。 彼は追放者の呼び戻しや罪人の解放や大赦、負債帳消しを行ったが、この時デロスやデルフォイ、イトニアのアテナ神殿といった所に復帰者 リストを掲げるという事を行った。このような行動がギリシア諸都市の中下層の人々を期待を集める要因となり、アイトリア同盟やペライビア、 テッサリア、ボイオティア同盟諸都市のなかでペルセウスを支持する勢力が出現することになる。マケドニアはデルフォイのアンフィクティオニア のメンバーにもなるなど(前178年にヒエロムネモス(代表)2人がペルセウスから派遣されている)、ギリシア諸都市との関係はかなり改善が 進ん でいたが、小アジアのギリシア人との関係も良いものとなっていた。ビチュニア王プルシアスの娘をめとったのもその現れである。そして、ギリシ ア 北部から中部の勢力と良好な関係を築いていたため、前174年に軍勢を率いてデルフォイやテッサリアへ行く示威行動を取ったとき、妨害される 事がなかったという。

  • ローマから敵視される
  • ギリシアにおいて支持者を増やし、その勢力を増しつつあったマケドニアとローマの関係は、徐々に悪化していった。即位間もないペルセウスが ローマとの関係を更新した後、ペルセウスがギリシア及びエーゲ海世界で展開した行動は、往々にしてローマにも伝えられることがあった。 前177年にはダルダノイ人がバスタルナイ人から攻撃を受けたときに、ペルセウスとバスタルナイ人が同盟関係にあり、今回の攻撃の背後にペル セウス がいると言うことを、ローマに使者を派遣して訴えた。またテッサリアからも使者が派遣されてきたが、ダルダノイ人もテッサリア人も助けを求 め、 ローマから前176年に調査団が派遣された。一方ペルセウスはローマに使者を派遣されバスタルナイ人の軍事行動と無関係であると訴え、ローマ は ローマとの同盟関係をきちんと護っているように見られるよう気をつけるよう命じたという。なお、ダルダノイ人とバスタルナイ人の争いはその後 も続き、 前174年にバスタルナイ人がダルダノイ人への攻撃を行おうとした事があった(この時、ドナウ川の氷が割れ、多くの軍勢が犠牲となったとい う)。 これについても、ペルセウスが裏で絡んでいるという噂が流れている。

    また、トラキア方面におけるペルセウスの行動も後にローマから問題視された。サパイオイ人の王アブルポリスをペルセウスが破り王位から追放し た ことがあったが、アブルポリスはローマと同盟関係にあったらしく、後にローマから非難された。ローマはトラキア方面にも影響を及ぼしていたら しく、 フィリッポス5世存命中の前183年にトラキアのギリシア人都市からマケドニアの守備隊を撤退させるよう迫った頃から結びつきが強まっていた と想定され ている。アブルポリスとも同盟を結んでいたローマは、前179年のペルセウスの行動(アブルポリスを撃退し、さらに王位から追放した)につい ては容認 したものの、それはローマを刺激するには十分な行動であったらしく、前172年に集められ碑文に残されたペルセウスに対するありとあらゆる苦 情と告発 のなかにトラキアを攻撃したことも含まれていた。

    ギリシアにおけるペルセウスの活動はローマも警戒を強めつつあり、前174年にはギリシア各地やマケドニアに使節を派遣している。当時、ペル セウス を支持したのはギリシア諸都市・諸勢力内部の中下層の人々であったが、彼らが力を増すことによりローマ支持の富裕層による支配体制が動揺する こと になるため、何とか手を打とうとした。前174年にはアイトリア同盟、前173年にはテッサリア、ペライビアにおいて騒擾がおきていたが、そ の原因には 負債を巡る問題があり、騒擾を鎮めるためにローマの使節が派遣されたという。各地に親ローマ派、親マケドニア派が形成され、騒擾も発生してい たが、 アカイア同盟においてもマケドニアから国交回復の提案がなされ、それに対し親ローマ派の政治家が反対して提案は拒否されたと言う出来事が起き ている。

    そのような状況下で、ローマにペルセウスが己の勢力拡大を図り、戦争を準備していると盛んに言い立てたのがペルガモン王エウメネスであった。 彼は以前より親ローマの立場で行動していたが、ペルセウスが小アジアやギリシアにおいて様々な工作を進め、その勢力を増していると言うことを 前172年に自らローマヘいって訴えた(そこにはかなりの歪曲もあったと考えられている)。その帰りにデルフォイでエウメネスは襲撃される が、 その襲撃の背後にはペルセウスがいるという風説が流れた。そして、前173年にローマからマケドニアに派遣されていた使節が前172年に報告 した 内容はエウメネスの訴えと一致する物であった。さらに前172年にはトラキア、テッサリア、アイトリアなど各地から使者が到来し、ペルセウス に対する告発が次々となされていった(そして、それはデルフォイに碑文として残されているという)。そして、ローマはマケドニアと開戦する こととなり、第3次マケドニア戦争の幕が開けることとなる。


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