王国再建を目指して


  • ローマの圧力
  • テッサリアやペライビア、アタマニアなどが元老院に働きかけ、ローマから3人の元老院議員からなる使節団が派遣され、彼らは前185年春に テッサリアのテンペに関係者を集めて当事者から話を聞くこととなった。そこでフィリッポス5世自ら彼に対する批判に反論し、自らのローマ への協力や領土的要求の正当さを訴えたが、結論はマケドニアの守備隊を撤退させ、「古い国境」にもどすというものであった。さらに使節団 はテッサロニキへ移動し、そこでペルガモンの使節やマロネイアの使節の訴えを聞き、フィリッポスの反論も聞いたあと、元老院に審理を委ね、 元老院はフィリッポスにマロネイアとアイノスから守備隊を撤退させる命令を下し、新しい使節団を派遣することとした。その使節団が来る前 に、マロネイアがトラキア人に襲撃され多くの市民が犠牲となるという事件が起きた。これに関しても、フィリッポスが企んだという見なされ、 フィリッポスは関与を否定したが聞き入れられず、ローマの使節は2人のマケドニア人(トラキア方面司令官オノマストスと廷臣カッサンドロス) をローマに送るように要求した。結局カッサンドロスが送り出されたが道中で急死し、これもフィリッポスによる毒殺とみなされた。結局、 前183年になってマロネイアとアイノスから守備隊を撤退せざるを得なくなるのであった。

    マロネイアの虐殺からカッサンドロスの死に至る一連の出来事を通じて、ローマのフィリッポスに対する不信感はさらに強まっていき、ローマ とマケドニアの仲違いが公然の物となり戦争の備えも必要であると考え始める一方で、フィリッポスは前185年春以降の様々な告発から自分を 守るために、かつてローマに人質として滞在していた息子デメトリオスに2人の友人(アペッレスとフィロクレス)をつけて派遣した。ローマ ではペルガモンやアタマニア、イリュリア、ペライビアなどの使節から様々な告発がなされたが、ローマはデメトリオスを歓迎してフィリッポス の行動についてかなり寛大な態度を示した。フィリッポスが様々な告発から逃れられたのはローマがデメトリオスに対し好意を持っていたためで あることが明白になった出来事であるが、この頃からローマはデメトリオスをもり立てて、フィリッポスに変わる新しい王にデメトリオスをつけ ようとする姿勢を示していくようになる。

    またこのときにペルガモンからはフィリッポスによるビテュニア支援やマロネイア、アイノス占領に対する訴えがなされ、元老院からはすべて 元老院の指示通りに執り行う(フィリッポスが占領した都市を返却し、トラキア地方について元老院の望むような管理されるようはからう)こと が命じられた。そして前183年になってフィリッポスはマロネイアとアイノスから撤兵し、元老院の他の指示にも服する姿勢を見せた。その後の ローマとマケドニアの関係を見ていくと、ローマの使節からは元老院の希望に一切逆らわぬよう指導され(前183/2の冬)、さらに前182 /1年の冬 にはアペッレスとフィロクレスがローマに外交関係維持のために派遣されたとき彼らはそこでローマがデメトリオスを支持し、彼にマケドニア王 になってもらいたいと思っていることを知るのであった。このようにローマのフィリッポスに対する態度はさらに厳しさを増し、彼の勢力を抑え ようとするとともに、ローマにとって都合の良い王(デメトリオスはかつて人質としてローマにいたことがある)を望むところにまで至った。

  • 王国復興計画
  • このようにローマからの圧力が強まっていく中、フィリッポスは第二次マケドニア戦争終結後、戦争状態から解放されたこともあり王国の復興に 力を注ぐようになっていた。フィリッポスはローマに協力する姿勢をとりつつ領土の回復を図ってきたが、長年続いた戦争、特に第二次マケドニ ア戦争での敗北がマケドニアの人的資源減少を招いていたため、マケドニアの人口を如何に増加させるのか、さらに国家の収入を如何に増大させ るのかといった問題の解決にも取り組んでいた。人的資源に関しては戦死したり捕虜となったマケドニア人が多くいた上、領土縮小(上部マケド ニアのオレスティス地方がマケドニアから離脱している)により著しく減少していたが、これを回復させるために大変な努力が必要となった。 また、1000タラントンの賠償金を課されており、歳入増大のためには実行しうる限りの政策を次々に実施する必要があった。そんなフィリッポ ス が行ったことについて、リウィウスにこのような記述がある。

    彼は農産物への課税や輸出入関税によって王国の収入を殖やしただけではない。見捨てられていた古い鉱山の採掘作業を再開し、多くの場 所で 新しい作業場を開くこともした。その上、戦争の災害で蒙った損失のあと、人口を旧水準にまで回復するために、だれもが子供を産み、子 供を 育てなければならないと固執して、自国民種族の増加を確実にしようとしただけではなく、多数のトラキア人をマケドニアに導き入れた。 相当 期間戦争を猶予されたことは、彼があらゆる注意をもっぱら王国財源を増加させることに注ぐことを可能とさせていた。
    (リウィウス39巻24章2-4節。「ヘレニズム世界」(ウォールバンク著(小河陽訳)、教文館)より引用)

    人口の減少はマケドニアの軍事力に直結するため、外国にいた守備隊(一説にはその数は20000くらいらしい)を引き上げたり、テッサリアか ら 引き上げた人をすませたり、都市の党争で敗れ亡命を望む者を受け入れたり、トラキアからの移民を受け入れて人口の増加をはかったという。 さらに前183年には息子の名前をとってペルセイスという都市を建設してそこに人々を住まわせたほか、同じような都市を各地に建設した可能性 もあるという。また、トラキア人、イリュリア人、ガリア人を沿岸部の平地に農業労働力として移住させることも行い、国内の経済力の上昇を はかった。農業生産の向上を図るとともに王国で算出される様々なもの(木材、鉱物資源および製品など)の輸出も行われていたであろう。 さらに、国内で鉱山の開発をすすめたことで金や銀の採掘もさかんになったようで、フィリッポス5世の時代には金貨、銀貨、銅貨が発行された。 なお、貨幣に関してはいくつかの都市や地域で独自の貨幣が発行され(ボッティアイア人、パイオニア人の名前で発行された貨幣がある)、 王室、地方自治体による貨幣鋳造が盛んに行われていたことがうかがえる。

    このような努力によって、マケドニアの復興がどのくらい進んだのであろうか。話を進める前に、マケドニア王国は他のヘレニズム諸王国と 比べるとあまり豊かでない国であったことは気にとめておいた方がよいと思われる。敗戦時の賠償金ではセレウコス朝はマケドニアの10倍以上 の額をローマに支払っていたり、ローマの支配下に入ったあとの貢ぎ物の額100タラントンがかつての地租の半分であるという記述からは、 それ程豊かな国ではなかったことがうかがえる。しかし、フィリッポス5世の跡を継いだペルセウスが第3次マケドニア戦争を戦うときには マケドニア人の兵士だけで歩兵26000(密集歩兵21000、そのほか2000と3000の精鋭部隊)、騎兵3000を数えるまでに増加し ていた。ま た、 かなり誇張があると思われるがリウィウス(42巻12章8-10節)では3万の歩兵と5千の騎兵に10年供給できるだけの穀物、1万の傭兵を 10年ほど 雇えるだけの財貨、十分な数の武器が蓄えられていると伝えている。ローマに敗れ国力が低下した王国をかなりの水準にまで復興させたその 方策はフィリッポス2世がかつて王国強化のために行った政策と似ており、実際フィリッポス5世がフィリッポス2世の業績をテオポンポスの 著作から学んだという話も伝わっているという。

  • 北方へ
  • フィリッポスはローマに敗れ傷ついた王国を再建するだけでなく、さらなる領域の拡大を目指していた。そしてその方向は主にバルカン 半島内陸部に向けられた。まず前184年にビザンティウム救援のため軍を率い、トラキア人と戦ってこれを打ち破った。その時にオドリュサイ 人の王アマドコスをとらえた。この活動の目的はトラキアの最大勢力を支配下に置くことであった。さらにゲルマン系(ガリア系とも)の バスタルナイ人のもとに使者を送り、トラキア系諸族やダルダノイ人(イリュリア系)に対する同盟者とするため彼らに現住地より西に移住 するように薦めた。彼らとの関係はさらに強化され、前182年にはバスタルナイ人との関係をさらに強めるべく、息子ペルセウスとバスタルナ イ人の王族の娘を結婚させることさえ行った。さらに別のガリア系種族であるスコルディスキ人とも同盟を結ぶなど、バルカン半島の方に力を 伸ばしていこうとした。

    さらに前183年夏にはバルカン半島遠征を行い、トラキア中央部を通過し、フィリッポポリスを占領し、オドリュサイ王と協定を結び、さらに ベッソイ人やデンテレタイ人を攻撃した。この遠征によってトラキア中央部の主要な種族を支配下に置いた。さらに前181年にも息子(デメト リオス)を本国に代理として残し、ペルセウスを従軍させてトラキア遠征を行い、ハイモス山で供儀を行ったりデンテレタイ人の領域を攻め たり、ストリュモン河谷を下り都市を包囲し、これを支配下に置くなどトラキアの支配を安定させようとした。

    このようにバルカン半島で積極的に勢力拡大を図るフィリッポスは前179年にかなり意欲的な遠征計画を立てて実行しようとした。以前より 同盟関係にあるバスタルナイ人と協力してダルダノイ人を討とうとし、トラキア諸族の協力も取り付け中央平原の通行を認めさせた。さらに ペルセウスに軍を率いさせて先行させ、自分は主力を率いてテッサロニケを発ち、アンフィポリスへ入った。おそらくその後の予定では バスタルナイ人とマケドニアが共同でダルダノイ人を討つと言うことになったはずであったが、それは前179年にフィリッポスが死去したこと により中途半端な形で終結した。なお、それによって混乱が生じ、バスタルナイ人とトラキア人の衝突、さらにバスタルナイ人同士の争いが 発生したという。

  • 王家の紛争とフィリッポスの死
  • このように第2次マケドニア戦争終結後、フィリッポスは王国の再建、さらなる勢力拡大に積極的に取り組み、それはある程度の成果を上げた。 しかし一方でローマとの関係が悪くなっていく中で宮廷において様々な問題が発生し始めたのもこの時期である。特に、ローマがデメトリオスを 支持し、彼を王位につけようと考えるようになったことが問題を深刻にしていった。

    前183年にはサモス、ピュリコス、アドメトスの3人のマケドニア人有力者がとらえられて処刑された。さらに彼らの子供や親族もとらえられて 処罰された。このような内部の不和がおこるなか、フィリッポスのおそれは彼の息子デメトリオスへと集中していった。デメトリオスは6年間 ローマにて人質生活を送ったことがあり、帰国後に使者としてローマに送られてから後はローマ人の間で彼を支持する者が元老院議員のなかに かなりおり(その中にはフラミニウスもいた)、彼が王位を継ぐことを望んでいた。その一方、フィリッポスはペルセウスを跡継ぎと考えていた ふしがある(ペルセイスという町を作ったり、彼に軍を指揮させたりしている)。そして前182年に軍隊の清めの儀式のあとで彼ら2人の対立が 公然のものとなった。デメトリオスがローマ寄りの立場なのに対してペルセウスがフィリッポスの路線を継承する立場をとっていたという対ローマ 政策を巡る 考えの違いが背後にあったのではないかとも言われている。

    そんな息子たちに対し、フィリッポスはどちらにもそれ相応の努めを与え、前181年に遠征に出る際、ペルセウスは遠征に帯同しデメトリオスは 代理として本国に残している。しかし前180年、デメトリオスはパイオニアに派遣されたときに現地で殺された。デメトリオスの死に関して、 リウィウス(そしてその典拠であろうポリュビオスのもとの記述)では彼は毒を盛られたと言うが、実際の所はよくわからないようである。 その後フィリッポスはデメトリオスの死について苦悩し、後を追うように病死したともいわれているが、煽情的な記述はさておき、フィリッポス の晩年にペルセウスとデメトリオスのどちらを王とするべきか宮廷内で対立があり、デメトリオスが敗れて殺されたということは言えるようで ある。


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