雌伏の時


  • ローマへの協力
  • 前196年の講和条約によってギリシアと小アジアのギリシア人の自由回復、占領していたギリシアのポリスの引き渡しがさだめられ マケドニアの勢力はそれ以前と比べると大幅に抑えられた。賠償金、人質のさし出し(息子のデメトリオスを送る)、軍鑑保有数制限、 支配領域の大幅な縮小(上部マケドニアのオレスティスやテッサリアを失う)といった条件を飲んでようやく戦争は終わった。その後 フィリッポスは公然とローマと事を構える事はなく、ローマと同盟を結んだようである。ローマの十人委員会の一人からローマに使節 を送り同盟を求めるように助言され、これにフィリッポスが同意したことによってマケドニアはローマと同盟関係を結ぶこととなった。

    マケドニアはローマと同盟を結び、さっそくスパルタ王ナビスに対する戦争でローマに協力するようになった。このときアカイア( 歩兵10000、騎兵1000)、テッサリア(騎兵400)、ペルガモンとロドスの艦隊にまざってマケドニア人1500人がローマ軍に参加し て いたという。かつてアルゴスを与えながら裏切ったナビスとの戦いでフィリッポスは同盟を結んだローマとともに戦ったことが知られ ている。また、フィリッポスはその後ローマがアンティオコスと戦う際にもローマに協力し、フィリッポスが使者を送って戦争にいかに 協力したのかを伝えるのを聞いたあと、ローマはマケドニアの協力に報い、人質として送られたデメトリオスをマケドニアに返すことと 賠償金の支払いについても残りの支払いを免除することを約束したという。しかし、フィリッポスのローマへの協力はそれ以上のものを 期待して行われた物であった。

  • 協力の背景
  • フィリッポスがローマに協力していたのは、少しでもマケドニアの勢力を回復する必要があったためであり、ローマがナビスやアンティ オコス3世、アイトリア同盟といった勢力と戦っているときにこれを助けながら、領土の拡大を図ろうとしていたようである。一方、 ローマの方も時期によってはマケドニアの協力が必要なときもあり、フィリッポスの行動を黙認せざるを得ないところもあった。こうした 状況をうまく利用してフィリッポスは領土拡大を図っていくことになるが、前2世紀初頭の東地中海世界はどのような状態にあったので あろうか。

    前196年の講和条約の内容について、ギリシア諸都市は概ね満足していたが、この取り決めに対して不満を抱いていた勢力がアイトリア 同盟であった。元老院により講和条約の内容が決まる前、テンペにおいてローマ、マケドニア、ギリシア諸勢力の間で会談がもたれ、 そこで戦後の処理について話し合いがもたれていたが、その時にアイトリアはフィリッポスの退位や、マケドニアが支配するいくつかの 都市(テーバイ、ファルサロス、ラリサなど)を自分たちに与えるよう要求していたが会談の場でフラミニウスによって認められず、 元老院による決定でも彼らの要求は認められなかった。そのことに対しアイトリア同盟ではローマに対する不満を募らせた。

    スパルタでは国王ナビスが社会改革を実施して富国強兵を進め、さらにはマケドニアから譲られたアルゴスでも社会改革をおこなって 支持者を増やしてその勢力を強めていた。この動きはローマにとっても脅威であり前195年、ローマは同盟諸国とともにスパルタを攻めて ナビスを敗北させることに成功した。しかしそれ以上の脅威であったのが東方の大国セレウコス朝のアンティオコス3世であった。既に アンティオコス3世は前196年夏以来度々トラキアへ兵を送っていたが、前194年の夏にはエーゲ海北岸の都市を占領してマケドニア付近 に迫るまでになっていた。さらにその前年(前195年)にはカルタゴの名将ハンニバルを迎え入れていたが、ヨーロッパ進出を狙う彼の 動きはローマにとって脅威であった。そして、この状況を見てアンティオコス3世を自分たちの側に取り込もうとしたのがアイトリア同盟 であった。彼らは前192年の同盟総会でアンティオコス3世を呼び入れることを決定した。こうしてアイトリアがアンティオコス3世を味方 につけ、公然とローマに反旗を翻すようになるなかで、マケドニアが実はかなり重要な存在となってきたのである。そして、フィリッポス はアンティオコスがマケドニア影響下の都市を併合したり、彼の非協力的な振る舞いがあったこともあり、ローマとの同盟を維持すること にしたのであった。

  • かなわぬ期待
  • ナビスとの戦争でローマに協力したフィリッポスはアンティオコスとの戦争でもローマに協力し、ローマ軍と共同行動を取ったり、のちに ローマ軍が小アジアに渡るときにはマケドニア領内の進軍を支援したことが知られている。また、アンティオコスとの戦いが始まった当初、 フィリッポスとローマの間ではフィリッポスが獲得した場所はどこであれ領有しても構わないという取り決めが結ばれていたという。このよ うな領土拡大の期待とアンティオコスへの不信がフィリッポスをローマ側にとどめたのではないかと考えられる。そして、フィリッポスはこの 戦いの最中にテッサリアやペライビア、アタマニア方面で領土拡大を図るとともに、デメトリアスを獲り、さらにドロピアやアペランティアと いった地域も占領したほか、トラキア方面でも勢力を伸ばそうとした様子が窺える(ローマによりトラキアのマケドニア領がアイノスとマロネ イア以西に制限されている)。

    しかし領土拡大の期待はかなえられることはなかった。ローマがフィリッポスの活動を黙認したのはあくまでアンティオコス3世やアイトリア 同盟を相手に戦う時、マケドニアを味方に付けておきたかったためであり、フィリッポスの勢力拡大をそのまま認めるつもりはなかったようで ある。アイトリア同盟やアンティオコス3世との戦争が終わった後、テッサリア人、ペライビア人、アタマニア人がローマに使者を送り、元老院 にフィリッポスがペライビア、テッサリア、マグネシアで占領した諸都市の返還を働きかけたのをうけ、ローマは前185年に現地に調査団を派遣 し、さらに関係者を集めて事件を審理し、その結果占領した都市から軍隊を撤退させ、旧来の国境に戻すというマケドニアに不利な裁定が下され ることになった。また、トラキア南岸のアイノス、マロネイアについてもフィリッポスは支配できると思っていたが、それはかなわなかった。 以後、都市内部で親マケドニア派と親ペルガモン(=親ローマ)派の対立が起きるとそれに乗じてフィリッポスは軍隊を送ってこれらの都市を 占領し、マロネイアについては親マケドニア派が権力を握ったという。前185年にローマはこれらの都市からマケドニアが撤退するように命じる と、フィリッポスは部下に命じてマロネイアの親ローマ派を虐殺させたという。このように、フィリッポスの領土拡大の望みはかなえられること はなく、彼とローマの関係が冷え込んでゆくとともに、彼も来るべき時への備えを考え始めるようになる。


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