曖昧な決着
〜第一次マケドニア戦争〜


  • ローマ=アイトリア同盟結成
  • 前212年の晩夏、シラクサからリッソスへ向かう使者がローマの艦隊に捕らえられ、フィリッポス5世がイタリアに侵攻しようとしていると いうことが現実味を帯びてきたように感じられた。そこでローマはアイトリア同盟と手を結ぼうとしたが、前212年の時点ではアイトリア側は 乗り気でなかった。しかし情勢は翌年になると大きく変わり、ローマとアイトリア同盟の間で同盟が結成された。その内容は攻守同盟であり、 フィリッポスおよびヘラス同盟を敵とし双方とも単独で相手と講和を結ぶことはしないと言うことになった。しかしこの同盟は自由とかモラル といったことは全くなく、アイトリア同盟はかつてスパルタがマケドニアと戦うためペルシアの援助を仰いだのと同じように、フィリッポスに 勝つためだけにローマと手を組んでおり、ローマもイリュリアをおさえ、フィリッポスを負かすか押さえつけられればよかった。しかしこの 同盟にはフィリッポスとカルタゴの同盟が持たぬ強みがあり、それはローマの持つ艦隊であった。事実、ローマは前211年の秋にはザキュントス を侵略し、オイニアダイ(フィリッポスが海軍の基地としていた)を占領し、コリントス湾全域を支配下に置いたのであった。一方でアイトリア 同盟はテッサリアの襲撃を行っていた。

    ローマとアイトリア同盟が同盟を結んだという知らせを受けた当時フィリッポスはまだペラにいた(前211年晩夏〜冬頃?)。マケドニアと同盟 を結んでいるアカルナニアやテッサリア、エウボイア、アカイアが危険にさらされるため、それらを守るためにフィリッポスは軍事行動を開始 した。まず、ローマの保護下にあるイリュリアのオリコスとアポロニアを攻撃し、さらに北西部へ転進してダルダノイを攻めてシンティアの町を 押さえた。そしてそこから一気に南へとすすみテンペにはいって守備隊を置くとマケドニアを経由してトラキアへ行き、マイドイ人の土地を襲撃 した。さらにマイドイ人の土地の襲撃を続けている最中にアカルナニアがアイトリアに攻められているという知らせを聞き急遽引き返したが、 アカルナニアの激しい抵抗を前にアイトリアが撤退したため危機は過ぎ去った。

    しかし前210〜209年春の間にローマ・アイトリア同盟側に加わる勢力が増加していった。エリス、メッセニア、スパルタが加わり、さらに ペルガモン王国のアッタロスがアイトリア同盟軍指揮官に就任した。そして彼らはフォキスのアンティキュラやアイギナ島を攻略し、前209 年春にはテルモピュレーへの進路を押さえた。同じ時期のフィリッポスはエキノスの町を包囲してこれを占領し、さらに西へいき、冬に本国 へ帰還する前にラミアの港であるファララの支配者となり、海岸沿いのルートを確保していった(前210年)。また前209年にスパルタと アイトリアに攻撃されたアカイアを救援すべくフィリッポスは前年におさえた海岸沿いのルートを下り南へ向かった。その途中でアイトリア と交戦していたそのときに中立国からの使節がフィリポスの元を訪れた(前209年春)。そしてフィリッポスは30日間の停戦を約束し、 その年の夏にアイギオンにて開かれる同盟の協議会で話し合う事とした。

  • 危機と克服
  • しかし、前209年夏のアイギオンにおける協議会はフィリッポス達にとり衝撃的な知らせがもたらされて中断した。ローマがナウパクトスへ、 アッタロスがアイギナ島へと侵攻したと言う知らせがもたらされ、さらにアイトリア同盟がこれで勢いづいてアカイア同盟に対してピュロスを メッセニアへ返還すること、フィリッポスに対してローマにアティンタニアを返還し、スケルディライダスやプレウラトスにアルディアイアを 返還するように要求してきた。このような知らせを受けて交渉は中断し、ローマやアイトリア同盟との戦闘はまだ続くこととなった。ナウパクトス をでてシキュオン=コリントス間の海岸を襲撃したときにはフィリッポスは軍を率いてこれを撃退したが、その後エリスのアイトリア同盟軍を 追い出そうとしてエリスへ進軍しているときにローマ軍と遭遇して敗北した。ローマに敗北した後、フュルコスを攻略して戦利品を分捕り、 それを幾分か埋め合わせることには成功したが、今度は本国がアエロポス指導下のイリュリア人たちがリュクニティス湖のあたり(上部マケドニ ア) に侵入したことや、彼らとともにマケドニアと長年争っているダルダノイ人が侵攻しようとしていることが分かり、急遽戻ったものの上部マケド ニアは彼らの襲撃にあい多数の人々が捕虜として連行されていったという。一方ローマはアッタロスと合流して前209/8年の冬をともに過ごし た。

    このように前209年はフィリッポスにとって厳しい状況が続いたが、前208年春にはさらに危機的な状況が訪れた。ローマとペルガモンがとも に エーゲ海で活動し、それにより勢いづいたアイトリア同盟が活発な活動を展開した。さらにマカニタス(スパルタの指導者)がアルゴスを脅かし、 プレウラトスとスケルディライダスがマケドニアの国境付近を脅かし、トラキア方面ではマイドイ人が同様の活動を展開していた。このように ギリシア、マケドニア各地でフィリッポスとヘラス同盟にとり都合の悪い事態が次々に発生していく中でフィリッポスはペパラトス島やボイオティ ア に守備隊を置いて備えたり、ヘラクレイアで民会を開いている最中のアイトリア同盟を襲撃したり、何かあったときの情報伝達手段として灯火信号 を 利用したり(実際これが役に立ったことがあり、灯火信号をキャッチしたフィリッポスがすぐさま軍勢を率いてエラテイアへはいることが可能 になった)、危機的な状況に対してすぐさまうてる限りの手を打ちその状況を脱していった。

    フィリッポスがエラテイアに入った頃、ペルガモンのアッタロスはオプスにおいて活動していたが、フィリッポスにより打ち破られてエウボイア 北部のオレウスへと撤退していった。さらにフィリッポス側についていたビテュニアのプルシアスが小アジアでアッタロスの領土を攻撃したため、 急遽アッタロスはギリシアから小アジアへと引き返すことになった。フィリッポスの軍事行動はさらに続き、ロクリス、フォキスでの軍事行動 は成功を収めた一方、このころカルタゴの艦隊との接触には失敗している。また、フィリッポスはアカイア同盟との間でヘライアとトリフュリア を奪回してやることやメガロポリスにアリフェイラを譲ることを約束し、アカイア同盟とともにアイトリアのエリュトライを襲撃したこと、 エウボイア北部のオレウスを奪回したこと、同じ頃カッサンドレイアにて新たな艦隊作りに取り掛かったことが知られている。本国の方面では ダルダノイ人やマイドイ人と戦ったという。このようにフィリッポスは前208年夏〜秋頃までに危機的な状況を脱していったようである。一方 でローマの活動はあまり活発でなくなっていたと言うこともそのような状況の変化に影響しているようである。

  • 講和へ
  • 前207年に入ってもローマが活発に活動しない状況は続き、その事はギリシアにおけるフィリッポスの優位は陸のみならず海の方でも見られる ようになったと言われる。ローマに占領されていたザキュントスをフィリッポスが奪回したのも前207年の春頃であり、それをアタマニア( テッサリアに隣接する地域)の王アミュナンドロスに与えたという。その目的については一説によるとアイトリア同盟にとり防衛上の重要な 拠点であるアンブラキアを攻めるためのルート確保のためであると言われている。この時期の活動については史料があまりなく、しかも作戦 行動についても研究者間で違いもある(フィリッポスがアンブラキアをいったん攻略した後にローマの援軍によってアイトリアがそれを奪回 し、フィリッポスが前206年の時点で再び取り返していたという説と、ローマの援軍はなかったという説がある)。最終的にアンブラキアは フィリッポスの手に落ち、彼はそこからさらにアイトリアへと侵攻し、アイトリアのテルモンは同盟市戦争に続き再びマケドニアにより略奪 されることになるが、これについても前206年とする説と前207年とする説があるなど、この時期の活動については正確なことはつかみにくい ようであるが、全体としてフィリッポス優位の状況で事態が推移していたことは確かであろう。

    そして、前206年の秋にアイトリアはローマとの同盟に反する形でフィリッポスやヘラス同盟と単独で講和を結んで戦争を終わらせた。 前207年夏にアカイア同盟によりスパルタが敗れ、メッセニアやエリスといったアイトリア同盟側の諸勢力も孤立していた。そのような 状況下で中立国の仲介もありアイトリア同盟とフィリッポスおよびヘラス同盟が講和を結んだのであるが、当然ローマはこの講和に参加 しておらず、ローマとの戦いはさらに続くことになった。しかしローマも総勢11000の軍勢を送り込んではきたものの、アイトリア同盟 は戦争に復帰せず、フィリッポスもローマと真っ向から勝負はせず、ローマもさらなる援軍は望めないという状況になり、結局前205年 にエペイロスの仲介によりフォイニケの和約を結び第1次マケドニア戦争と称される戦争は終結した。ローマもフィリッポスもイリュリア 方面である程度得た物はあったが、この和約にはビテュニアのプルシアス、アカイア同盟、テッサリア、ボイオティア、アカルナニナ、 アッタロス、プレウラトスらも加わっていた。

    イリュリア地方への進出を図るフィリッポスとローマの対立が、やがてギリシアの諸勢力を含めたかなり大規模な戦争になった第1次 マケドニア戦争だが、大規模な会戦はまったく見られず、都市を巡る争い、略奪行動のような形での戦闘の連続であった戦いであった。 同じ頃ローマはイタリア半島でハンニバルとの戦いが続いていたことも会ってか全力を注ぐと言うことにならなかったということも この戦争をそのような形にした一因であろう。フィリッポスはこの戦争中苦境に陥ることもあったがそれを巧みに乗り切り自分が優位 な状態で戦争を終わらせることに成功したが、大規模な会戦による決定的な勝利を得られなかったということが当時のマケドニアの限界 を示しているようにも思われる。


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