若き王とギリシアの動乱
〜フィリッポス5世の即位〜


  • フィリッポス5世、即位する
  • 前221年にアンティゴノスが死ぬと、王位はフィリッポスが継承した。フィリッポスの父デメトリオス2世が没したとき には幼年であったため、デメトリオスのいとこにあたるアンティゴノスが「摂政兼将軍」として任命された。やがて王と なるアンティゴノスは寡婦となっていたデメトリオスの妻と結婚し、フィリッポスの継父ともなったが、その後アンティ ゴノスには新たな男子は産まれることはなく、フィリッポスが唯一の息子となった。なお、フィリッポスの母親については エペイロスの王女フティアとする説のほかにクリュセイスとする説もあるが、フィリッポスが生まれた年は前238/7年頃の ことであり、前236年頃のマケドニア王妃の名前としてフティアと復元した方がよい碑文もあることから、フィリッポスの 母親はフティアであると考えられている。フティアとクリュセイスの関係については、エペイロスと同盟を結ぶ際にフティア とデメトリオスが結婚し、フィリッポスをもうけたが前235/4年頃にフティアが没してデメトリオスが後妻としてクリュセイス をめとり、デメトリオスが没した後にはアンティゴノスが彼女をめとったと考える説がある(同一人物説やクリュセイス母親 説よりも説得力があるため、当サイトの記述もそれに従い、フィリッポス5世の母親はフティアとする)。

    王に即位するまでのフィリッポスについて分かっていることはほとんど無いが、アンティゴノスの死の直前の前222/1年 冬に彼はペロポネソス半島へと送られてアカイア同盟の実力者アラトスともにこの時期をすごし、アカイア同盟諸都市と の関係を強めていった様子が知られている。そして、前221年にアンティゴノスが死ぬと彼は王位につくことになったが、 アンティゴノスは遺言で有力なマケドニア人たちを様々な地位に任命して、マケドニア人内部での権力闘争の防止への配 慮をしつつ、フィリッポスの補佐にあたらせようとした。アペッレスは後見人の一人として、レオンティオスは盾兵部隊 (マケドニア軍の精鋭部隊)の指揮官、メガレアスは書記長、タウリオンはペロポネソスの総督、アレクサンドロスは護 衛隊長といった事が遺言で決められ、彼らはフィリッポスを補佐することになった。このなかでアペッレスが強い力を持 ち、やがてこれらの人々の間で派閥抗争が勃発してしまうことになる。

    アンティゴノスの死とフィリッポスの即位という情報は周辺諸国にも伝わり、マケドニアと長年対立しているダルダノイ 人とその他周辺諸民族はマケドニアに対して攻撃を仕掛けた。フィリッポスが若年であったこと(即位当時17歳)を侮っ ていたが、前220年になってフィリッポスはこれに対して攻撃を仕掛けて北方の情勢を安定させることに成功した。そして フィリッポスが次に軍を率いて遠征することになるのはギリシア本土であった。

  • ギリシアの動乱
  • アンティゴノス朝マケドニアと同じ時代のギリシアには様々な連邦国家が形成されていたが、その中ではアイトリア同盟と アカイア同盟の2つが特に有力だった。この2つの同盟はフィリッポスの父デメトリオス2世に対してはともに手を組んで 戦っていたがその後両者の関係は冷え込み、クレオメネス戦争の時にはアカイア同盟の有力政治家アラトスから救援を求められ てもそれに応じなかったばかりか、アラトスの救援要請に応じてペロポネソス半島へと入ろうとしたアンティゴノス3世の通行 を妨害しようとしていたという(そのために彼は海路で南下した)。そして、アンティゴノス3世が結成した汎ギリシア同盟 (ヘラス同盟)にもアイトリアは加盟していなかった。ただし、アイトリア同盟はアンティゴノス3世と戦って敗れたことも あって、彼が存命中はマケドニアに対して攻撃を仕掛けると言った公然と敵対行為を行うことはなかったようである。

    しかしそのような状況が一変するのはアンティゴノス3世が死去し、17歳のフィリッポスが王となったことが分かったため である。北方のダルダノイ人たちが若いフィリッポスを侮って攻撃してきたが、それと同じようにアイトリア同盟もフィリッポス を侮って活動を活発化させていった。彼らが進出しようとしたのはペロポネソス半島の南部、西部の地域であった。そして、彼ら が狙っていたこの地域では様々な問題が生じていたのである。

    ペロポネソス半島の南部のメッセニア地方はかつてスパルタに支配されていたが、その後独立し、前3世紀後半には海賊行為や 山賊行為に苦しみながらも栄えていた。そのころアイトリア同盟では、若い指揮官ドリマコスが、アイトリアと同盟関係にあり メッセニアとの境界にあったフィガレイアに派遣されていた。表向きは公務であったが、実際は略奪者を集めてメッセニアに対 する略奪行為を繰り返し行っていたのである。これに対して当時アイトリア同盟と友好関係にあったメッセニアはドリマコス の行為を非難し、ドリマコスはアイトリアへと帰国することとなった。このとき、自らがメッセニアに対して働いた行為は棚 に上げメッセニアから非難された事に対して腹を立てていたドリマコスはアイトリア同盟で軍の指揮権を持つ友人がいたこと から彼を説得し、同盟評議会に諮ることも評議会委員に伝えることも無いままにメッセニアへの戦争を仕掛けることとした。

    そしてアイトリアはメッセニアのみならず、エペイロスやアカルナニア、アカイア、マケドニアに対しても略奪行為を繰り返した。 アカイア同盟のティモクセノスはマケドニアの残した総督タウリオンとともにメガロポリス領内に侵攻したアイトリア軍を撃退 することに成功したが、その後もドーリマコスとスコパスによるメッセニアへの略奪は続いた。このような状況でアカイア同盟の 評議会がアイギオンで開かれ、そこにやってきたメッセニアの使節がアイトリア同盟の非道を訴え、アカイア同盟はメッセニアを 助けてアイトリア同盟と戦うことを決議した。そして決議に従って軍隊を集め、アイトリアに対してメッセニアからの撤退を要求 したが、アラトスは愚かにも彼らが指示に従うと考えて集めた軍勢の大半を解散してしまい、カフュアイの戦いで大敗を喫して しまった。戦いに勝ったドリマコスとスコパスはペロポネソスを通り抜けて各地を略奪してイストモスへと引き上げていった。

    敗れたアカイア人たちはアカイア同盟の評議会を開き、そこで決議したメッセニアを汎ギリシア同盟に加入させることとともに アイトリアへの汎ギリシア同盟による宣戦布告を支持してくれるようにマケドニアやエペイロス、ボイオティア、フォキス、 アカルナニアへと使者を送った。一方アイトリア同盟ではアカイア同盟が味方につけているスパルタとメッセニアを自分たちの ほうにつけようとし、スパルタは表ではアカイアと手を組みつつ裏ではアイトリアを同盟を結ぶこととなった。アカイア同盟と アイトリア同盟の間でこのような事態が起き、やがて同盟市戦争へと発展することになる。

    同じ頃、スケルディライダスとファロスのデメトリオスの2人がイリュリアから船団を率いてキュクラデス諸島やメッセニアを 荒らし回っていたが、このイリュリア人の略奪活動がペロポネソス半島における政争に利用されている様子が史料から窺える。 スケルディライダスのほうは帰航途中でアイトリアのナウパクトスへ立ち寄り、アイトリア同盟と取り決めを交わしてドリマコス 率いるアイトリアの軍勢とともにアカイアへ侵入する事を約束し、彼らはアルカディア地方へ侵入してキュナイタという町を略奪 した(ただし取り決めは守られずスケルディライダスは分け前をもらえなかった)。一方デメトリオスのほうはアイトリアの艦隊 の帰還を妨害しようとしたタウリオンに雇われてアイトリアの沿岸部を略奪して回り、コリントスへと帰還した。

    このようなことが起きているとき、フィリッポスはアカイアを助けるためにコリントスへと向かった。しかし時既に遅かった ため、フィリッポスは同盟参加国に手紙を送ってコリントスへ代表を送るように命じた。さらに前進した彼はテゲアにおいて スパルタの内紛を知ったが、過去のことは水に流してスパルタに対しては同盟の更新をするように使者を送ると、コリントスへ と戻っていった。そしてコリントスで同盟の評議会が開かれ、フィリッポスはそこに出席してアイトリア同盟をどのように扱う かを協議し、アイトリア同盟に対する戦争を行うことが採択された。これによって3年にわたる同盟市戦争が始まったのである。


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