新たなる始まり
〜アンティゴノス3世の 即位〜


前229年のデメトリオスの死はマケドニアにとり深刻な打撃となった。なぜなら、デメトリオスには息子 フィリッポスがいたがまだ幼く、王として国を率いることは無理であったためである。ダルダノイ人が北 方を脅かし、ギリシア方面も決して安定していない状況で国王不在の状況におかれたマケドニアの有力者 たちは、王家の中からその代わりを務められるものを探し、その結果デメトリオスのいとこにあたるアン ティゴノスが「摂政兼将軍」として任命された。このアンティゴノスが後に「ドーソーン」というあだ名 で呼ばれることになるアンティゴノス3世である。彼はさらにフィリッポスの母親と結婚して自らの地位 を固めていった(ただし2人の間に子供はできなかった)。そして「摂政兼将軍」に任ぜられてからしば らくして彼はマケドニア王として即位することになる(即位の年代については前227年説が有力)。

デメトリオスの死の前後〜死の直後にかけて、マケドニアを取り巻く情勢はさらに不安定なものとなって いった。北方では相変わらずダルダノイ人がマケドニアを脅かしていたが、ギリシア方面でもアイトリア 同盟がテッサリアに侵攻して勢力下においたり、マケドニアのギリシアにおける影響力が著しく低下して いった。このような状況下でアンティゴノスはマケドニアにおいて権力を握り、北方の安定を回復し、 アイトリア同盟の勢力をテッサリアから追い出すと、さらにアイトリア同盟との戦争を続けた。アイトリア 同盟との戦争は前228年頃まで続き、結局アイトリア同盟はマケドニアとの間で和平を結び、戦いは終結 した。アイトリア同盟の敗北は、アンティゴノス朝に対抗するためにアイトリアと手を組んでいたプトレ マイオス3世を落胆させたであろう。

しかしボイオティアのマケドニアからの離反や、長年アンティゴノス朝の支配下にあったペイライエウス がアテナイの手中に戻ったこと、さらにアルゴスがアカイア同盟に加入するなど、マケドニアのギリシア 本土への影響力は以前と比べると低下していった。とはいえ、摂政兼将軍として王国の実権をゆだねられた アンティゴノスのもとでマケドニアは安定を取り戻した。そしてアンティゴノスは前227年にカリアへと 向かっている事がしられている。カリアにおけるアンティゴノスの活動については史料も少なく、わかっ ていることは非常に少ないが、カリアにおけるもめ事の仲裁に当たったとする説がある。

プリエネに残さ れた碑文によると、プリエネとサモスの対立の仲裁に当たったとされている。アンティゴノスがカリアに おいて都市間の対立の仲裁役を買って出た理由としては、おそらくエーゲ海におけるマケドニアの影響力を 再び強めていこうという意図があったのではないかとおもわれる。ゴナタスの時代にはエーゲ海において マケドニアはプトレマイオス朝エジプトと海上での勢力争いを続けていたが、ゴナタスの治世末期からデメトリオス の時代にマケドニアがギリシア本土での影響力を失っていくなかで、エーゲ海における影響力も失われていった と考えられる。アンティゴノスは再び影響力を回復するべくカリアへと向かったのであろう。

また、同じ 前227年にアンティゴノスは王として推戴されることとなった。こうして正式にマケドニアの王となったアンティ ゴノスはゴナタスの治世末期とデメトリオス2世の10年間に失われていったマケドニアの勢力を再び拡大すべく 活動しようと考えたであろう。しかし、前227/6年の冬にメガロポリスからの使者がマケドニアを訪れ、それにより 彼は大幅な方針転換を行うことになる。アンティゴノスは治世の大半を費やす事になるギリシア本土における戦争に 関わることになるためである。


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