デメトリオス2世の時代


ゴナタス亡き後、アンティゴノス朝マケドニアの王位を継いだのはゴナタスの息子デメトリオス(デメトリオス2世) であった。デメトリオスはゴナタスの息子として、若い頃から後継者としてそだてられていたらしく、クレモニデス戦争 の際には本国マケドニアに残され、マケドニア軍の指揮官として侵攻してきたエペイロス軍を撃退したことがしられている。 彼はゴナタス存命中の時から政治や軍事に関してそれなりに経験は積んでいたと考えられるが、10年間の彼の治世の間、 マケドニアの政治的な発展は見られず、むしろゴナタスの治世末期に生じた様々な困難への対処に追われつづけていたと いうことだけが知られている。

当時、ギリシア本土ではアイトリア同盟とアカイア同盟という2つの政治勢力が強力な力を持っていた。連邦国家として 発展してきたこれら2つの同盟とマケドニアの関係は、ゴナタスの治世末期より徐々に変化してきた。特にアラトス指導下 のアカイア同盟はマケドニアに敵対的な立場を鮮明にしていたが、前239年にはアイトリア同盟とアカイア同盟が反マケド ニアという点で一致し、手を組むにいたった。同じ年に、デメトリオスは姻戚関係を結ぶことによりアカルナニア西部 がアイトリアに脅かされていた隣国エペイロスと同盟を結び、アイトリア同盟とアカイア同盟に対抗しようとした。ゴナタズ 存命中にアンティゴノス朝とセレウコス朝の関係強化を図った際にデメトリオスはアンティオコス1世の娘ストラトニケと 結婚していたが、デメトリオスとの間に子はできず、エペイロスからフティアを妻としてむかえるにあたって彼女と離婚し、 彼女はシリアへ帰ってしまった。彼女とデメトリオスの間には息子フィリッポス(のちのフィリッポス5世)が生まれること になる。そして、遂にマケドニアとアカイア同盟・アイトリア同盟の間で「デメトリオス戦争」ともよばれる10年近く続く ことになる戦争が勃発することになる。

「デメトリオス戦争」と呼ばれる長きにわたる戦いは、正確な出来事の推移については分からず、戦争の概要しか分から ないが、単なるマケドニアとアカイア同盟・アイトリア同盟の戦争ではあってもギリシア各地が戦場となったきわめて大規模 な戦争であった。まず、アイトリア同盟が勢力の拡大を図り、デメトリオスも度々アイトリアと戦っていることや、デメトリオス がボイオティアに侵攻して勝利を収めたことなどがわかっている。また、アカイア同盟がアルゴスを攻撃し、アルゴスを支配 下に置くことは失敗したものの、前235年頃にメガロポリスとそれに従ういくつかのポリスがアカイア同盟に参加し、ペロポ ネソス半島ではアカイア同盟の勢力が拡大したことも知られている。またアッティカ地方もこの戦争中に度々争いの舞台と なり、アイトリア同盟、アカイア同盟の軍勢が攻め込んでいるが、マケドニアの守備隊が防備を固めてそれを防いでいたこと も知られている。この戦争中、デメトリオスはクレタ島のゴルテュンと同盟を結び軍事的な支援を仰いだことや、当時力を のばしてきていたイリュリア人の一派アルディアイ人のアグロンを味方につけ、彼に資金を提供してアカルナニアの都市 メデオン救援に向かわせるなどの活動を行っている。

しかし、このような戦争が続く中でマケドニアのギリシア本土への影響力は以前にも増して弱まっていた。ボイオティアは マケドニアの支配下にあるがほとんど信用できぬ存在であり、王家が断絶し共和政に移行したエペイロスはイリュリア人の 脅威にさらされる中でアカイア同盟やアイトリア同盟と手を組んだ。アテナイやアルゴスはなおマケドニアの拠点として 機能しているがいずれも前229年にはマケドニアの支配を脱し、アルゴスはアカイア同盟に加盟する。テッサリアはアイトリア 人の勢力が伸び、デメトリオス戦争において常に主導権を握っていたのはアラトス率いるアカイア同盟側であった。そのような 状況において、北方においてマケドニアにとり新たな脅威となるイリュリア人の一派ダルダノイ人が力を伸ばしていた。 イリュリア人の一派ダルダノイ人はかつてフィリッポス2世と戦ったバルデュリスやアレクサンドロス大王とも戦ったクレイトス はこの一族の指導者であった。彼らは以前からマケドニアの北方を脅かしていたが、前230年代にはロンガルスに率いられて 力を伸ばしていた。デメトリオスは北方で新たに発生した脅威に対処しなければならなかった。結局北方のダルダノイ人との 戦闘は前230年代末よりデメトリオスが没する前229年までつづき、マケドニアは敗北を喫することになる。

デメトリオス2世が父親であるアンティゴノス・ゴナタスから王位を引き継いだときに、ギリシア本土でデメトリオスを苦しめる ことになる様々な問題はすでに生じていた。さらにそれに加えて新たに北方に脅威となる勢力が出現し、南と北でマケドニアは 苦境に立たされた。そしてそれらの問題が解決されることのないままデメトリオスが前229年に没した。この10年でマケドニアの 勢力はギリシアから後退することになり、デメトリオスが前229年春に死ぬと、同年夏にはアテナイからマケドニア駐留軍が撤退 してアテナイは久しぶりに自由を回復し、アルゴスもアカイア同盟に加盟するという事態が起こるようになる。


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