流転の王妃 アルシノエ


アレクサンドロス大王の死後のヘレニズム時代にはいると、それまでの時代と比べると女性の活動が目立つようになると指摘されることが しばしばあります。とくに政治の舞台ではヘレニズム期の王妃の活動について記録されることは少なくありません。そう言った史料の持つ性格 についてはほとんどすべてが男性によって書かれており、男性の視点やバイアスが入り込んでいることや政治外交について書く際には女性は周辺 的存在であることがほとんどであるといったことが指摘され、それをふまえて女性について捉え直す研究や、女性について書く際に書き手がどの ように女性を捉え、いかに叙述したのかという事に注目してそこから古代世界における女性のあり方、王権との関係、王権のあり方について考察 する研究が出されています。

それでは、実際の所ヘレニズム期の王妃についてどのようなことが書かれて知られているのかというと、王妃を主体として書いた物はあまりない ということもあって詳しいことは分からなかったりする人物が多いのですが、後継者戦争からヘレニズム諸王国成立にかけての激動の時代を生き 抜いた一人の王妃を取り上げてみようと思います。その人物の名はアルシノエ(エジプト王妃としてはアルシノエ2世)、リュシマコス、プトレ マイオス・ケラウノス、プトレマイオス2世の3人の王と結婚し、ヘレニズム期の王妃としてその資質は注目に値する人物です。彼女について 古典史料ではかなり否定的な記述が目につきます。肯定的な記述はクレモニデスの碑文の記述、まあまあ肯定的といえそうなのがエフェソス脱出 の際の機転(身代わりを立てて脱出)くらいであり、その他に目につく記述はリュシマコスの王国に於いてお家騒動の一方の当事者として動いた 事を示す史料や、悲劇的な結末に終わったプトレマイオス・ケラウノスとの結婚に関する記述であり、ここでは自分の息子の利益を優先させると いう私的な動機が国を混乱や破滅に導いたということ、目先の利益を優先したことが悲劇をもたらしたという描かれ方になっています。

アルシノエの生涯については史料に比較的多く登場するのは紀元前280年代以降のことになり、それ以前のことは分かっていることはきわめて 少 ないですがそれも含めてまとめてみようと思います。生まれた年は紀元前316年頃、父はアレクサンドロス大王死後にエジプトを支配することに なった プトレマイオス(のちのエジプト王プトレマイオス1世)、母はベレニケです。ベレニケについてはプトレマイオスの「愛人」として見られること も ありますが、プトレマイオスがマケドニア王家同様の一夫多妻を実践していた事を窺わせる記述(プルタルコス「ピュロス伝」4.4)もあり、妻 の一人 であったと考えた方が良さそうです。その後のアルシノエについては紀元前300年頃にリュシマコスと結婚したらしいこと、その後3人の子を前 293年 頃までにもうけたようです(長男プトレマイオス、次男リュシマコス、三男フィリッポス)。

アルシノエの名が史料によく見られるようになるのは紀元前280年代に入ってからのことになります。彼女の名が見られる場面はリュシマコス家 の 相続を巡る問題であり、史料ではアルシノエがリュシマコスの息子アガトクレスを処刑するように画策し、実際にリュシマコスがそのようにしたこ と が残されています。アガトクレスは正式な後継者に立てられていた事を示す史料はないものの、小アジアに攻め込んできたデメトリオス1世攻城王 を 破り彼を没落へと追いやる等の活躍をしており、最も後継者に近い立場にあった人物であると思われます。自分とその子供たちの立場を守るために 彼 を排除するべく動きそれに成功したものの、アガトクレスの妻リュサンドラとその子がセレウコスの元へ逃げ、ついにセレウコスの侵攻を招くこと と なるのです。そして前281年、コリュペディオンの戦いでリュシマコスは敗死し、彼の王国は崩壊します。

リュシマコスが死んだときアルシノエはエフェソスにいましたがそこから逃げ、カルキディケ半島のカッサンドレイアに子供たちとともに逃げ込み ます。一方リュシマコスを破ったセレウコスはプトレマイオス・ケラウノスに殺され、ケラウノスがマケドニアにやってきます。彼はカッサンドレ イアに立てこもるアルシノエを説得し、アルシノエは息子のマケドニア王位を確保するため結婚します。しかしケラウノスは約束を守る気はなく、 自分の王位を確保するための結婚にすぎず、結婚後にアルシノエの息子の打ち2人を殺害してしまいます。息子を殺されたアルシノエはサモトラケ 島へと逃げ、それからエジプトへと戻ります(前280年か前279年)。

エジプトに戻ったアルシノエは再び王妃の地位へ返り咲くことに成功します。今度は自分の弟プトレマイオス2世と結婚し、エジプトの宮廷に おいて大きな力を持つに至ります。アルシノエが戻ったとき、プトレマイオス2世は既にアルシノエ1世を妻としていましたが、彼女がプトレ マイオスに対して陰謀をたくらんでいるという事が発覚し、離縁のうえコプトスに追放され、その後プトレマイオスは姉のアルシノエと結婚、 彼女がアルシノエ2世となったと言われています。証拠はありませんが、この時もリュシマコスとアガトクレスの時と同様にアルシノエ2世が 一枚かんでいると推測する人もいますが定かではありません。彼女は前270年に46歳で死去するまでの間、エジプトの政治に強い影響力を及ぼ していたとされます。クレモニデスの決議ではプトレマイオス2世が彼の祖先および彼の姉の方針に従いギリシアの自由に対する熱意を示したと 言ったようなことが決議文に書かれており、彼女はギリシアの自由の擁護者として評価されているようです。もっとも、プトレマイオス2世が 軍事や外交面で無能でアルシノエがすべてを決めていたように見るのは考えすぎですが。また生前に彼女をまつる祭儀が始まり死後も続けられた ことがしられています。


アルシノエ2世の肖像を刻んだコイン
【 写真著作権:(c) 2007 Studio Ivy

以上のような生涯を送ったアルシノエですが、彼女の行動を追っていくと後継諸将たちが自己の勢力拡大・維持のためきわめて複雑な政略 結婚を繰り返してきたことが浮かび上がってきます。アレクサンドロス大王が死んだあと、後継諸将は合従連衡を繰り返しましたが、その際に 政略結婚による同盟関係の構築という手段が執られていたことは史料にも見られます。後継者戦争に至る前、ペルディッカスは本国の実力者 アンティパトロスの娘ニカイアと結婚しようとしたことが知られています。ニカイアは後にリュシマコスに嫁ぎアガトクレス、アルシノエ(後 のアルシノエ1世)を生みますが、この結婚はアンティパトロスがトラキアを支配するリュシマコスとの関係強化を考えたために執り行われた と言われています。その他アンティパトロスはエウリュディケをプトレマイオスに、フィラをクラテロスに嫁がせ、有力武将との関係強化を図る とともに、クラテロスが死んだあとはフィラをデメトリオス1世攻城王に嫁がせています。

プトレマイオスはエウリュディケと結婚してプトレマイオス・ケラウノスとリュサンドラ、プトレマイスをもうけましたが、この中でケラウノス とリュサンドラはアルシノエの生涯と後々関係してくることになる人々です。一方でプトレマイオスはベレニケとの間にもアルシノエ、プトレマ イオス2世を設けます。プトレマイオスの宮廷での力関係ですが、前3世紀初頭の段階ではベレニケが最も力を持っていたと伝えるプルタルコスの 記述があります。一夫多妻を実践していた可能性が高いプトレマイオスの宮廷でエウリュディケとベレニケの間で権力闘争があり、結果として ベレニケが優位に立ったことは、ケラウノスがセレウコスのもとに身を寄せ、マケドニア王になるという数奇な運命を辿ったことからも明らかで はないかと思われます(彼らは遅くともプトレマイオス1世と2世の共同統治が始まる前285年にはエジプトを離れていたでしょう)。

一方、アルシノエが嫁いだリュシマコスはアンティパトロスの娘ニカイアとの間にアルシノエとアガトクレスという2人の子をもうけていました。 そしてこのアルシノエは後にプトレマイオス2世と結婚していますし(アルシノエ1世)、アガトクレスはアルシノエの異母姉妹リュサンドラを 妻に迎えていました。このようにプトレマイオス家とリュシマコス家、さらにアンティパトロス家も絡んだ複雑な婚姻関係の中でアルシノエは時 に策を弄し、時に妥協しながら生き残りをかけて能動的に動い、結果として勝ち残ったという点でその資質は高く評価されてしかるべき人物である と思われます。さらに、宮廷で重きをなす存在になることはできた彼女ですが、自分の息子をどこかの支配者にすると言うことに関しても一応の 成功は収めたと見て良いのではないでしょうか。3人の息子の中でただ一人生き残ったプトレマイオスは小アジアのテルメッソスの支配者とな り、 彼の一族が紀元前2世紀までそこを支配していたことが知られています。


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