混乱から安定へ


  • イプソス以後
  • 前301年のイプソスの戦いの結果、後継諸将(ディアドコイ)のなかで最も強力だったアンティゴノスの王国は解体 され、その領土はリュシマコス、セレウコス、プトレマイオスの間で分割された。リュシマコスはタウロス山脈に至る までの小アジアを領有し、その王国はアジアとヨーロッパにまたがるようになった。セレウコスはシリアとメソポタミア を獲得し、プトレマイオスはキリキア、リュキア、ピシディアの一部と、ダマスカス、アラドス以南の地を獲得した。 そのため、シリア方面ではプトレマイオスとセレウコスが対立するようになった。一方でマケドニア王カッサンドロス は現状維持で満足しつつ、フォキスのエラテイアを再びマケドニアの手に取り返すなど中央ギリシアでの活動を活発に 進めていたようである。しかし前297年にカッサンドロスが死ぬと、マケドニアは以後20年以上にわたり戦乱と混乱の 舞台となる。

    カッサンドロスの死後、彼とテッサロニケの3人の息子の中で最年長のフィリッポスが即位した(フィリッポス4世)。 しかし即位から4ヶ月後に彼が急死すると、次子アンティパトロスと三男アレクサンドロスの2人を王とし、テッサロニケ が摂政とすることがマケドニアの兵員会でも承認された。しかし前294年に彼女がアンティパトロスにより殺害されると アンティパトロスとアレクサンドロスの間で争いが起こった。そしてアレクサンドロスが外部の勢力の支援を要求した ことが、大きな転換点となった。アレクサンドロスは当時エペイロスに帰国し、王位についていたピュロスと、ギリシア 各地にかろうじて拠点を保持しつつ巨大な勢力を持っていたデメトリオスの2人の救援を依頼し、先にやってきたピュロス に和解の代償としてマケドニアの西部領土を割譲した。そして次にやってきたデメトリオスとアレクサンドロスはディウム で会見し、その後ラリサまでやってくると同行していたアレクサンドロスを殺害した。前294年、彼はマケドニア人達により 王として承認されてマケドニアに入り、アンティパトロスを国外に追い出し、マケドニア王となった。

  • デメトリオスとリュシマコス
  • デメトリオスは前294年にカッサンドロス家の内紛に乗じてマケドニア王となった。イプソスの戦い以後、彼はフェニキア 諸都市、エーゲ島嶼同盟、コリントスやメガラ等の都市を保持しつつ、各地で活発な活動を展開した。しかし前290年代後半 にはフェニキアやキプロスを失い、海上での彼の勢力は減少していった。そのころに彼はマケドニアを領土として獲得し、 マケドニアやテッサリアを拠点としてさらなる勢力拡大を図った。しかしデメトリオスにとり、マケドニアの領有はさらなる 勢力拡大への一段階にすぎず、安定した統治を築くことに力を注いでいる様子は見られない。また彼自身の生活様式が華美で 豪奢なものであったことや、マケドニアの伝統的な慣習に対する無理解がマケドニア人とデメトリオスの関係を悪化させた。 デメトリオスは前290年頃からアイトリア人やエペイロス王ピュロスと対立し各地で戦争を繰り返したが、前287年に東から リュシマコスが、西からピュロスが攻め込んできたときにマケドニアを放棄した。ギリシアでもプトレマイオスの艦隊に 支援されてアテナイが蜂起し、デメトリオスの駐留軍を追い出した。結局デメトリオスはコリントスに息子アンティゴノス= ゴナタスを残し、自らは残っていた軍勢を集めて前286年に小アジアのリュシマコス領へ攻め込んだ。しかし、リュシマコス の子アガトクレスに敗れて追いつめられ、飢えと寒さ、兵士の逃亡に苦しめられ結局セレウコスに降伏した。そして ケルソネソスで2年の幽閉生活を送り、前283年に失意のうちに死んだ。享年54歳、父アンティゴノスと共に紀元前4世紀 後半の東地中海世界をまたにかけて活躍した波瀾万丈の生涯であった。

    話を少し前に戻すと、デメトリオスをマケドニアから追い出した後、マケドニアはエペイロス王ピュロスとリュシマコスの 間で分割されていた。当初は同盟関係にあった彼らだが、デメトリオスがセレウコスに降伏した前285年には両者の関係は悪化 しつつあった。そしてついにリュシマコスとピュロスの戦いが始まり、リュシマコスがマケドニアを一つにまとめてマケドニア の王となった。リュシマコスの支配領域はマケドニア、テッサリア、小アジアに至る広大なものとなった。しかしリュシマコス の栄光も長くは続かなかった。その原因はリュシマコス家のお家騒動にある。リュシマコスは当時プトレマイオスの娘を妻と して迎えていた。最初の妻ニカイア(アンティパトロスの娘)からアガトクレスを得、彼はリュシマコスを良く助け、小アジアに 侵攻してきたデメトリオスを敗北に追いやった。その一方でリュシマコスが後でめとったアルシノエは彼との間に3人の息子をもうけ ていた。そして、史料ではアルシノエは一計を案じてアガトクレスがリュシマコスにより処刑されるようにし向けたという。実際に アガトクレスが後継者として定められていたのか、アルシノエが陰謀を巡らせたのかは定かではないようである。アガトクレスの名は 前280年代の公文書にはみられず、リュシマコスが息子を共同統治者として立てていた形跡は見られないという。一方でアルシノエの 息子3人中で最年長のプトレマイオスがアルシノエの像を奉納しことを記録した碑文が存在し、プトレマイオスの宮廷内での地位が高ま りつつあったとも言われるが定かでない。結局、はっきりとしたことはあまり分からないが、リュシマコス家で後継者を巡る 内紛が起こり、アガトクレスが殺害されたことだけは確かである。

  • 空位時代
  • しかしアガトクレスの殺害が小アジアのギリシア人諸都市に不安と動揺を引き起こした。アガトクレスの死とアルシノエの 3人の息子の間で相続争いが起こることへの危惧がリュシマコスに対する信頼を低下させたのであろう。結局、多くの都市でセレウコス 支持者が増加し、小アジアにセレウコスが侵攻してくることになる。そしてセレウコスとリュシマコスは前281年にコリュペディオンで戦 い、リュシマコスは敗北・戦死し、彼の王国は瓦解した。その後セレウコスもマケドニアに向かおうとするが、トラキアにおいてプト レマイオスの子で当時彼のもとに身を寄せていたプトレマイオス・ケラウノスに暗殺された。この時、エジプトではすでにプトレマイオス 1世が前283年に死去しており、前280年代に全てのディアドコイたちが歴史の表舞台から姿を消し、彼らの次の世代が中心となって歴史が 動いていくようになる。

    セレウコスを暗殺したプトレマイオス・ケラウノスはマケドニアにはいると王として推挙された。彼はコルペディオンの戦い の時にエフェソスいたアルシノエがマケドニアに逃げてくると彼女と結婚した。しかしまもなく彼女はサモトラケ島へと逃げることになる。 一方プ トレマイオス・ケラウノスは当時北方からギリシアへと侵入してきた「ガリア人」との戦闘に敗れて戦死した。ちなみに これによってサモトラケ島から脱出し、エジプトへ帰国できたアルシノエはプトレマイオス2世と結婚してエジプト統治に腕をふるうこと になるが、それはまた別の話である。ケラウノスの戦死によりマケドニア王位は空位となり、しかも北方から侵入した「ガリア人」たち によってマケドニアの国土は蹂躙され、国内は乱れた。「ガリア人」達はトラキアに独立勢力を築いたり、ギリシア本土に侵入して アイトリア同盟と戦ったり、さらには小アジアに渡ってのちにガラティア地方となる地域に定住するなど、広範囲にわたる活動を見せた。 この間、マケドニアでは「ガリア人」に対し有効な手を打つことはできず、無政府状態におちいっていた。王位を窺う王族(アンティパト ロスやリュシマコスの一族)や将軍(ソステネス)らがいたが、一つの国家としてのまとまりを欠いていた。しかしこの状態はデメトリオス の子でギリシア各地の拠点に依って活動しつつマケドニア王を称していたアンティゴノス=ゴナタスにマケドニア奪回の絶好の機会をもたら した。そして前277年にリュシマケイア近郊で「ガリア人」を破ったアンティゴノス=ゴナタスがマケドニア王の地位に推挙され、王と なった。前276年ころにはマケドニアの無政府状態はようやく解消されると共に、イプソス以後の王国分裂状態が確定した。すでに 各王国ではディアドコイの子や孫の世代が王となり、新世代の王達によって支配される各王国がアレクサンドロスの征服地に分立する状況が 前276年に確定したのであった。そして長年安定した支配を打ち立てることが困難であったマケドニアもようやく安定した支配のもとにおか れるようになったのである。


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