イプソスの戦い


  • ロドス包囲戦争
  • 紀元前306年にアンティゴノス・デメトリオス父子は王を称し、さらに支配領域の拡大をはかった。彼らが次に侵攻 しようとしたのは、先のサラミス沖海戦でやぶったプトレマイオスのいるエジプトであった。アンティゴノス率いる 陸軍と、デメトリオス率いる艦隊が陸路と海路の両方からエジプトに侵攻した。しかしエジプトに向かった艦隊は 悪天候によりその多くが失われ、アンティゴノスの軍勢も攻めあぐねるうちに補給が滞り、アンティゴノスは撤退を 余儀なくされた。

    エジプト遠征に失敗したアンティゴノスが次に矛先を向けたのはロドスであった。ロドスは中立政策をとり、後継者 たちとは個別に友好関係を結び、彼ら相互の戦争に積極的には加担しなかった。アンティゴノスとロドスの関係は 前310年代には近い関係にあったことが前313年にはロドスから軍船をうけとっていることなどから伺える。しかしロドス の人々が最も重要視していたのはプトレマイオスとの関係であった。エジプトはロドスにとって最も重要な交易先で あったからである。そ れをよく思わぬアンティゴノスはロドスからエジプトに向かう商船を襲わせた。ロドスはこれ を追い払ったが、アンティゴノスは自分に対する戦闘行為として言いがかりをつけてきた。ロドスはひたすら低姿勢 で難を逃れようとしたが、それでもプトレマイオスとの戦争には参戦しようとしなかった。ついにアンティゴノスは デメトリオスに大軍と攻城機をつけて送り出した。デメトリオスから、人質を出すことと、港に艦隊を入港させること を要求され、ついにロドスは戦うことを決意した。こうして前305年から1年におよぶロドス包囲戦争がはじまるのである。

    デメトリオスは当初海上からロドスを攻撃しようとしたが、ロドス海軍により艦隊がかく乱されて失敗に終わった。 すると今度は陸上からの攻撃を試み、そこでヘレポリスという巨大な攻城機を投入した。デメトリオスが投入した ヘレポリスは高さ50メートルにもおよぶ巨大な塔で、城壁の前に運んで架け橋をおろし、兵士が場内になだれ込む 仕組みになっており、さらに投石機や弩砲を搭載していた。これに対するロドス側の対応について、ロドスの ディオグネトスという建築家にまつわる逸話が残されている。ディオグネトスは高名な建築家であったが、ある時 カリアスという人物がロドスにやってきて、回転起重機の模型を披露するとロドス市民はディオグネトスの特権を はく奪してしまった。しかしカリアスはヘレポリスを前にしてなにもできず、困り果てたロドス市民はディオグネトス に助言を請うた。当初は拒絶した彼も少年少女たちが神官とともに嘆願にくると、ようやく知恵を貸すことにした という。その方法は、ヘレポリスが近付いてきそうな城壁に穴をあけて水やふん尿を夜陰に乗じてそこから垂れ流 しておくというものであった。そして翌朝近付いてきたヘレポリスはぬかるんだ土地で動けなくなり、ロドス側に 捕獲された。ちなみにディオグネトスの出した条件は捕獲したヘレポリスそのものを褒賞としてうけとることであり、 彼は受け取ったヘレポリスをロドスの広場に奉納したのであった。

    こうしてロドスとデメトリオスが激しい戦いを繰り広げている間に、プトレマイオスやカッサンドロス、リュシマコス たちがロドスに兵士や物資を大量に送り込んできた。また、デメトリオスがロドスを包囲している間、カッサンドロス がギリシアにおいて勢力を盛り返し、アテナイはカッサンドロスに包囲されて危機に陥っていた。そのため、アテナイ はデメトリオスに講和を結ぶことを嘆願し、ほかのギリシア諸都市も同様の要求をしてきた。結局デメトリオスに対して アンティゴノスが、ロドスに対してプトレマイオスが講和を促したこともあり、両者の間で講和が結ばれた。ロドスは プトレマイオスに対する戦争以外ではアンティゴノスの同盟者となること、ロドスは自治を保つこと、人質100人 (公職者以外からデメトリオスが選抜)という条件で講和が結ばれたのであった。こうして1年に渡るロドス包囲戦争は終結し プトレマイオスは「救済王(ソテル)」、デメトリオスは「攻囲王(ポリオルケテス)」というあだ名を与えられる ことになる。

  • イプソスの戦いへ
  • ロドス包囲戦争が前304年に集結すると、デメトリオスは再びギリシアへと軍勢を進めた。ロドス包囲戦争中にアテナイ がカッサンドロスに包囲されていたが、アテナイを再び解放し、アテナイに冬の間滞在し、贅沢な暮らしを送っていた。 前303年になると彼はペロポネソス半島や中部ギリシア、にも勢力を伸ばし、ポリスの自治・自由を回復していった。 そして前302年 にヘラス同盟を結成した。かつてフィリッポス2世の時代に作られたコリントス同盟と似た汎ギリシア的 組織がアンティゴノスとデメトリオス父子のもとで復活したのである。この時、カッサンドロスはアンティゴノスに講和 を求めるに至ったが、無条件降伏を求められた彼は対アンティゴノス同盟を呼びかけることとなるのであった。 さらにデメトリオスはテッサリアに攻め込み、カッサンドロスをテッサリアにおいて圧迫した。

    しかしテッサリアで決定的 な優位を確立する前に、リュシマコスがカッサンドロスの軍勢を加えて小アジアに攻め込み、東方からはセレ ウコスが帰還 したため、アンティゴノスはデメトリオスを小アジアへと呼び戻した。結局カッサンドロスとデメトリオスは 和議を結び、デメトリオスは撤退を余儀なくされた。そして小アジアに戻ったデメトリオスとアンティゴノス対リュシマコス とセレウコスの戦いがおこるのである。当時プトレマイオスはシドン包囲中であり、カッサンドロスは増援部隊を派遣 するにとどまり、リュシマコスは小アジア上陸後、セレウコスと合流するまで対決を避けていた。そしてセレウコスと合流 したリュシマコスはアンティゴノスと戦うことになったのである。両軍の決戦の地はフリュギア地方のイプソスであった。

    イプソスの戦いについては、断片的な史料が残っている程度であるが、アンティゴノス軍は歩兵7万、騎兵1万、ゾウ73 であり、リュシマコス・セレウコス軍は歩兵6万4000、騎兵1万5000、ゾウ400、戦車120であった。歩兵と騎兵はそれほど 大きな差はないが、ゾウの数の差がこの戦いの帰趨を決する要因となっていくのである。まず、戦いの流れとしては、 デメトリオスが右翼で騎兵を率い、向かい合うアンティオコス率いる騎兵隊を打ち破った。そこで反転して連合軍の背後 をつくことができれば戦いの結果は史実と逆になった可能性もあるが、現実にはそのようにはならなかった。アンティオコス を破ったデメトリオスは敵を深追いしすぎ、アンティゴノス率いる歩兵部隊との間に隙間を生じさせてしまった。そして その隙間をセレウコスがつれてきたゾウ部隊によって突かれてしまった。デメトリオスは途中で引き返して父の歩兵部隊と 合流しようとしたがゾウに阻まれて合流できず、アンティゴノスは多数の投げやりを受けて壮絶な最期を遂げることとなった。 デメトリオスは生き残り、残った手勢を率いて逃げ延びた。しかしアテナイは彼の入港を拒否し、彼の妻と艦隊、軍資金を 手渡したのみで追い払った。

    生き残ったデメトリオスはなお大艦隊を率い、キプロス島やフェニキア諸都市、コリントスや メガラ、島嶼同盟などを支配下においていた。しかし彼の威信は低下し、ギリシア諸ポリスは離反し、ヘラス同盟は解体された。 アン ティゴノスの領土はプトレマイオスやリュシマコス、セレウコスらの間で分割され、リュシマコスは小アジアの大部分を 支配下におき、ヨーロッパとアジアにまたがる領域を支配した。またプトレマイオスは地中海東岸部に勢力を伸ばした。 こうして後継者の中で最も有力であったアンティゴノスが死んだ。しかしこれ以降も、残された後継者達の間で激しい争い がさらに続くことになるのである。


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