新しい世界


  • マケドニア王家の悲劇
  • アレクサンドロス大王死後の混乱の中で、数多くのマケドニアの王族たちもその犠牲になっていった。 フィリッポス3世アリダイオスとエウリュディケー夫妻はオリュンピアスに敗れてとらえられ、前317年に その生涯を終えた。そのオリュンピアスはカッサンドロスに敗れて、死刑判決を受けて前316年に処刑され た。しかしマケドニアの王家には更なる悲劇が降り掛かった。

    まず、マケドニアのアンフィポリスに事実上軟禁状態におかれていたロクサネとアレクサンドロス4世 が前310年にカッサンドロスの命令をうけた指揮官の手で殺害された。アレクサンドロス4世はカッサンドロス の保護下で名目だけの王となっていたが、彼の存在が邪魔になったカッサンドロスは母子ともども消し去る ことを選んだのであった。さらに、前 310年にはアレクサンドロス大王の愛人バルシネの生んだ息子ヘラクレス も母子ともども殺害された。彼自身は庶子扱いされてお り、王位継承権はなかったが、窮地に追い込まれていた ポリュペルコンが権力奪回のため小アジアからマケドニアへ彼ら母子を動かした。マケドニア人たちがヘラクレス になびくことを恐れたカッサンドロスはポリュペルコンに2人で権力を分け合う密約を交わし、そのひきかえ 条件としてヘラクレスと母親を殺害させた。こうしてアレクサンドロス大王の血を引くものは完全に死に絶えて しまった。

    一方、前321年よりサルデスでアンティゴノスの監視下におかれていたアレクサンドロス大王の妹クレオパトラは 前308年にエジプトに向かおうとしてサルデスの指揮官に阻止されて失敗し、アンティゴノスの命令により 召し使いの女たちを使ってクレオパトラを殺した。なお、殺害を行った女たちは、アンティゴノスによりクレオパトラ 殺害の罪をなすりつけられ、処刑されたという。こうして、カッサンドロスに嫁いだテッサロニケをのぞく マケドニアの王族はことごとく死滅してしまうこととなった。

  • ヘレニズム諸王国の成立へ
  • このようにしてマケドニアの王族に悲劇的な運命が降り掛かっている一方で、世界は着実に新しい方向に進んでいた。 前311年にアンティゴノスとカッサンドロス・リュシマコス・プトレマイオスの間で和平協定が結ばれたことや、その 前後にセレウコスがバビロニアに復帰したことなどは既に触れた。この休戦協定により、つぎのように支配領域が分け られた。

  • プトレマイオス:エジプト、キプロス、キュレネ
  • アレクサンドロス大王の少年時代からの友人で、当初はたいした役職はなかったが、やがて東征が進む中で数々の作戦 活動に従事し、ついには側近護衛官にまで上り詰めたプトレマイオスは、アレクサンドロスの死からまもなくエジプト の支配を固め、反ペルディッカス連合の一員として戦った。ペルディッカスが本国へと運ぼうとしたアレクサンドロス の遺体を途中で奪い取ってエジプトに持って行ったのも彼である。ペルディッカス亡き後、こんどはアンティゴノスと 敵対していくことになる。そしてこの時の和平協定でエジプト、キプロスを勢力範囲とすることになった。

  • リュシマコス:トラキアとその周辺
  • アレクサンドロスの死後、トラキアとその周辺地域の統治権をゆだねられたリュシマコスもまたアレクサンドロスの 古くからの友人の一人であった。東征中の記録はあまり残されていないが、側近護衛官を勤めていたことや、サンガラ 攻略戦で負傷したことがわずかにふれられている。しかし後継者戦争の時代にはいると、プトレマイオスらとともに 反ペルディッカス陣営に加わり、その後は反アンティゴノス陣営に加わっていた人物である。和平協定ではトラキアを 支配することが改めて確認されている

  • カッサンドロス:ギリシア、マケドニア本国
  • フィリッポス2世以来の重臣アンティパトロスの息子であるカッサンドロスは、後継者戦争に参加した武将のなかでただ一人 東征に従軍しなかった人物である。父親と共に本国統治に関わり続けた彼は、この和平協定でマケドニアとギリシアを勢力 範囲とすることが定められた。なお、彼はアレクサンドロス大王に対してはかなり敵意や憎しみのようなものを持っていた と考えられる。アンティパトロスが解任されてマケドニアからオリエントへ向かうことになった折、彼は父親の代わりに 王のもとに弁明に向かって弁明したがことごとく無視されたという。また一説には跪拝礼をする様子を馬鹿にしたところ、大王 から激しい暴行を受け、その後も心の傷は残り、大王の像を見ると口から泡を吹いて卒倒したという。

  • セレウコス:バビロニア以東
  • 前311年の和平協定には含まれていないが、バビロニアより東の地域を勢力範囲とすることになったのはセレウコスである。 東征軍においては史料では近衛歩兵部隊指揮官としてしか名前が見られず、おそらく意図的に削られたものと思われる。 また、集団結婚式の場ではスピタメネスの娘アパメを妻として賜り、大王死後には騎兵指揮官の地位につき、後にはエジプト 遠征に失敗したペルディッカスの殺害にも関与した。彼はバビロニア太守領をえたのち、アンティゴノスと結んだが、のちに アンティゴノスによってバビロニアを追われ、前312年になってプトレマイオスの助けを得てバビロンを奪回した。その後も アンティゴノスが執拗な攻撃を仕掛けてくるが、それを耐え抜き、バビロン以東の地域を支配するようになる。

  • アンティゴノス:アジア
  • アレクサンドロス大王死後の後継者戦争で争った武将の多くがアレクサンドロスと同年代であるなか、唯一フィリッポス2世 と同年代の人物であったのがアンティゴノスである。出自については諸説あるが(王族に近い貴族から貧農説まで)、彼は フィリッポス2世のもとでのマケドニア王国の興隆を身をもって体験した人物である。東征軍では当初コリントス同盟軍歩兵 部隊の指揮官であったが、東征開始からまもなく大フリュギア太守に任命され、以後周辺地域の管理も受け持ちつつ、そこから 動くことはなかった。アレクサンドロスの死後、フリュギア太守の地位に留任していたが、ペルディッカスのもとからわずかな 幕僚を伴って脱出してアンティパトロスに野心を告げ、ペルディッカス死後のトリパラデイソス会議では帝国軍総司令官の地位 につき、アジアの支配を一手に握っていった。エウメネスを破った後、さらに東方にも勢力を伸ばしたことから反アンティゴノス 連合が結成されることになり。前311年の和平協定で小アジア、シリア、メソポタミアの支配者となった。


    このような形でアレクサンドロスの帝国は分割された。また、和平協定締結時にアレクサンドロス4世はカッサンドロスの 保護下におくことと、ギリシア諸ポリスの自由・自治がもりこまれた。後者については、後にアンティゴノスがギリシアに 勢力を伸ばすための手段として大いに活用されることになる。しかし、この和平協定による安定は長くは続かなかった。 アジアではアン ティゴノスは前311年から前308年まで続いたセレウコスとの争いに破れ、バビロニア以東の地域から手を引 くことになった。ま た、プトレマイオスはキプロスを拠点として小アジアのキリキア地方を攻撃してこの地域に進出した他、 ギリシア本土にも勢力を伸ばそうとして、前308年にはギリシア人の解放をうたいペロポネソス半島に上陸したが、支持は 得られず、結局カッサンドロスと和平を結ぶに至った。このころはプトレマイオスとアンティゴノスが一時的に歩み寄り、 カッサンドロスとポリュペルコンに対抗しているが、その後また対立するなど、同盟関係はかなり複雑な変化を見せている。

    前307年頃になるとさらに争いが激しくなる。アンティゴノスはプトレマイオスに対抗すべく自らの息子デメトリオスに大軍 をつけてギリシアへと送り出した。デメトリオスはまずアテナイに入り、当時カッサンドロスの支援のもとで寡頭政をしいて いたアテナイの民主政治を復活した。このときアテナイではアンティゴノス・デメトリオス父子をたたえ、従来の10部族制に 新しく2つの部族を加え、彼らを神としてたたえたという。さらにデメトリオスはアンティゴノスの命令によりキプロス島の 奪回に向かい、そこでプトレマイオスを支持する勢力を破り、サラミスへと追い込んだ。さらに前306年には大軍を率いて 救援に駆けつけたプトレマイオスもサラミス沖海戦デメトリオスに大敗を喫し、キプロスから撤退しデメトリオスは全島を 制圧した。この大勝利はエーゲ海におけるアンティゴノスの勢力をさらに確固たるものにしただけではなく、歴史の流れの 大きな転換点となった。デメトリオス大勝利の報をうけ、アンティゴノスは新たに建設した都アンティゴネイアにて戴冠式 をあげ、自ら王と名乗ったうえ、デメトリオスにも王冠を送り王とした。アンティゴノスの王権はマケドニア王族の権威と いう従来重視されてきた裏付けは全くなく、自らの軍事力によって獲得されたものであった。これに呼応するかのように、 前304年頃になるとカッサンドロスやセレウコス、リュシマコス、プトレマイオスらも王を称するようになった。後継諸将たち は、今までは実質的な権力者であっても、王ではなかったが、アンティゴノス父子が王になったことをきっかけに、彼らも名実 共に王となったのである。こうしてヘレニズム諸王国が帝国領土の上に成立し、地中海世界の歴史は新たな段階を迎える ことになる。


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