イッソスの戦い


  • 両軍の対峙
  • 紀元前333年11月、ピナロス河畔にてマケドニア王アレクサンドロス3世(大王)率いるマケドニア・ギリシア 連合軍とペルシア王ダレイオス3世率いるペルシア軍が激突した。これが世に言うイッソスの戦いである。合戦 の舞台となった「ピナロス川」がどの川に該当するのかをめぐっては現在も議論が絶えないが、アレクサンドロスの 従軍史家カリステネスの記録の断片から、ピナロス川の位置はおそらく現在のパヤス川のことであると考えるのが 妥当なようである。

    カリステネスの記録には海から山までの間隔が14スタディオン(約2.5キロ)であること、 ダレイオスが背後に現れたことを知ったのがすでに隘路を通過した後でダレイオスから100スタディオン(約18キロ) 離れていたこと、敵から40スタディオン(約7キロ)離れた位置から戦列を整えて前進したこと、以上3つの数字が あげられている。現在の研究者はこれらの数字から位置を推測している。数字の正確性に関しては、アレクサンドロスが 補給や行軍の必要から測量士を連れており、彼らがこれらの数値を計算したことから、信用してもよいと思われる。

     ピナロス川についてカリステネスの記録では切り立って上るのが困難な崖があるようにかかれ、現在の地形調査でも 下流は土手の高さも1〜2メートル程度だが、中流になると川幅は狭いが土手はかなり険しくなり、上流にはかなり険 しい崖は存在していることが明らかになっている。しかし2000年以上の年月による地形変化を考えるとおそらくイッソス の戦い当時の土手は現在ほど険しくはなかったであろう。そうしたことからピナロス川は下流は騎兵でも渡河が容易だが 中流では難しくなり、上流では浅瀬以外は無理という程度の川であったと想定されている。

    ペルシア軍はアレクサンドロスが北へ反転してきたことを知ると軍を進め、ピナロス川北岸に陣取った(以下ペルシア軍 の数に関しては実際の所は少なかった可能性もあるが、資料を基に数も挙げていくことにする)。北岸に陣取ったダレイ オスは軽装歩兵2万と騎兵3万を前方へ送った。軽装歩兵の方はピナロス川を渡り、マケドニア軍の展開を妨害し、敵最後 尾に回り込むむよう指示され、騎兵の方はマケドニア軍に歩兵戦列の配置を気取られぬように遮断することを目的に送ら れ、後に彼らは合図で呼び戻されて中央へ、さらに右翼へと移動させられたようである(従って騎兵はピナロス川を渡っ ていないと考えられる)。そしてペルシア軍の布陣は海岸側の右翼にはペルシア騎兵(3万)と投石兵および弓兵(2万)、 その次にギリシア人傭兵(3万)、中央から左寄りにカルダケスとよばれる諸民族混交部隊(恐らく重装歩兵のような役割、 6万。ピエール・ブリアンによると、諸民族をペルシア人と同様の教育・訓練を施して編成した「帝国軍」と考えることも できるらしいが定かではない)、左翼にはヒュルカニア人、メディア人騎兵を、騎兵の前には投槍兵および投石兵(6千) を配置した。これに前に渡河した軽装歩兵がアレクサンドロスの右翼に横から対峙するように配置されたほか、様々な民族 の部隊が戦列後方に配置されていた。

    その後ペルシア軍の最終的な布陣には変更が加えられた。始めに前方に送られた騎兵は右翼側に回され、ギリ シア人傭兵を右寄りから中央へ移し、ダレイオス自身も親衛騎兵隊とともに中央へ移った。ギリシア人傭兵はメムノンの甥 テュンダモスと反アレクサンドロス派マケドニア人のアミュンタスに指揮されていた。ギリシア人傭兵が移動して空いた場 所にはカルダケスが移され、彼らは戦列の左右に分かれて配置された。その前面には軽装歩兵が配置された。このような配 置の他にマケドニア軍の渡河を妨害するために逆茂木を並べていた。このような布陣をしいて中央が持ちこたえる間に左右 から敵を突破した部隊が包囲して殲滅するという作戦をダレイオスは立てていたようである。

    一方、マケドニア軍は反転して北上していくが、進路の偵察のために騎兵と弓兵からなる偵察隊を先に派遣した。夜になっ て全軍が出発、真夜中に隘路に到着し、朝に隘路を通り始めた。隘路は最も狭い場所では人は4人、馬は2騎が通るのがや っとであったが、何とか昼までには全軍が隘路を通過した。

    平地に出るとマケドニア軍を徐々に展開していった。はじめは 縦32列、やがて16列、8列と通常の隊形へと展開していった。そして十分に広がると右翼にはヘタイロイ騎兵とテッサリア 騎兵を、左翼にはギリシア同盟軍騎兵を配置して行軍した。また側面の山側に陣取ったペルシア軍に対処するためアグリア ネス人投槍兵、騎兵、弓兵を主戦列とは斜めになる形に配置した。ある程度まで陣形を展開すると小休止をとりながらゆっ くりと前進した。

    このときピナロス川南岸の地形がアレクサンドロスに幸いした。ピナロス川南岸は窪地になっている箇所 があり、そこは北岸のペルシア軍にとって死角となり、マケドニア軍の展開を見ることができなかった。アレクサンドロス は川岸へ降りる前に最終的な配置を知りたかったということ、山側の敵部隊への対処を考えるひつようがあったこと、こう したことからゆっくりと行軍した。

    その過程でダレイオスの布陣が右翼に騎兵の大部隊が展開されているのを見るとテッサ リア騎兵を自軍戦列の後方を通って左翼へ移動するように命じた。またこの行軍の間に山側のペルシア軍に攻撃を仕掛け、 これをあっさりと退けた。このあと山側のペルシア軍はマケドニア軍には攻撃を仕掛けてこなかった。これによりアグリア ネス人部隊や弓兵を右端へ移動させることができるようになり、戦列の長さではペルシア軍と互角になった。

  • 両軍の激突
  • 両軍の戦闘は、マケドニア軍右翼とペルシア軍左翼の激突から始まり、アレクサンドロスはこの時も先頭にたって川を 渡り敵陣に切り込んでいった。この時のアレクサンドロスはヘタイロイ騎兵を率いて切り込んでいったとする説と近衛歩 兵部隊を率いて川を渡ったする説がある。後者の説をとる場合には、渡河の場面で駆けると言う意味で用いている言葉が主に 歩兵の突撃に用いられる言葉であるという指摘と川の流れからそのような説を取っている。一方で乱戦のなかで乗馬を渡河さ せることや渡河後にそれに再び乗ると言うことはきわめて困難かつ危険であり始めから乗って川を渡る方がはるかに容易で あるといった騎兵の運用面から前者の説を採る者もいる。

    このように諸説あるアレクサンドロスによる突撃であるが、前者の立場を取るならばヘタイロイ騎兵を率いて一気に川を渡り プロドロモイ騎兵や軽装歩兵などとともにペルシア軍左翼へ攻撃を加えたと考えられるし、後者の説をとるならば、ピナロス川 の流れからいって歩兵の方が騎兵より渡河が容易であるため、歩兵を上陸させて橋頭堡を築き、そこから攻撃を仕掛けるという 形(上陸したマケドニア軍は弓兵、カルダケスに襲いかかり、歩兵の次に上陸したヘタイロイ騎兵隊も陣形を整えて左翼にいた メディア人、ヒュルカニア人騎兵を攻め、またパイオネス人騎兵や前哨騎兵、アグリアネス人部隊や弓兵も川を渡ってカルダケス に攻撃を加えた)になったと考えられている。一方アミュンタス率いるギリシア人傭兵部隊はマケドニア軍密集歩兵部隊2隊と 激突し、ペルシア軍左翼側の傭兵部隊はこれに抗しきれなかった。こうしてマケドニア軍右翼の攻撃によりペルシア軍左翼は 崩されてしまったのであった。川を渡ったアレクサンドロスは左に旋回してダレイオスめがけて突進していった。

    一方、マケドニア軍中央は苦戦を強いられた。密集歩兵部隊は6隊あったがそのうち2隊がアレクサンドロスとともに 川を渡ったことから隙間が生じ、そこをギリシア人傭兵部隊に突かれたためである。通常アリアノスなどの史料において マケドニア軍の戦死者はかなり少なくかかれているが、川の土手におけるマケドニア軍とギリシア人傭兵の戦いではマケドニア 軍に120人の死者が出たという。このような事からもこの場での戦いはかなりの激戦になったことが窺える。しかしこの部分に おける激戦もペルシア軍左翼を打ち破った近衛歩兵部隊と密集歩兵部隊2隊が傭兵軍の側面を突いたことから形成は一気に マケドニア軍優位に展開した。

    マケドニア軍左翼はペルシア騎兵の攻撃を受けていた。数に勝るペルシア軍騎兵は重装備であったが、左翼に配置された テッサリア騎兵はそれに比べると機動力があり、敵の攻撃をいったんかわして体形を整えて反撃し、最初の攻撃でマケドニア 軍左翼騎兵部隊の一部を蹴散らしたのちに戦列を乱していたペルシア軍はテッサリア騎兵の機動力により粉砕されてしまったと いう。また戦場の狭さもペルシア軍には騎兵の優位を生かせないという点で不利に働いたようである。

    ペルシア軍左翼を打ち破ったアレクサンドロスはダレイオスに迫った。ダレイオスの親衛騎兵とアレクサンドロスの軍の間 で激しい戦闘が行われ、アレクサンドロスも太ももに傷を負った。彼はそれらを打ち破ってさらにダレイオスを追撃する ことになるが、ダレイオスは戦車で逃走し、途中で馬に乗り換えて結局戦場から逃げ延びた。ペルシア軍は左翼で敗走し、さら にダレイオスが逃走し、中央部でも破れた。この影響は海岸の騎兵部隊にも及び、ペルシア軍は潰走した。

    アレクサンドロスが ヘタイロイ期兵とともにダレイオスとその親衛騎兵と戦っていた頃は左翼と中央部が激戦を展開しており、アレクサンドロスも ダレイオスの追撃は控えていた。ペルシア軍左翼と中央部が崩壊してマケドニア軍の勝利が確実になるとようやくアレクサン ドロスはダレイオスを追撃していった。追撃がおくれたことから結局ダレイオスを取り逃がすことにはなったが、イッソスの戦 いはマケドニア軍の大勝利に終わった。この戦いでマケドニア軍の犠牲者は歩兵が300人程度、騎兵150騎というものであったが、 ペルシア軍は騎兵だけで1万の犠牲者を出したという。

  • 何が勝敗を分けたのか
  • 上記のような過程を経て、イッソスの戦いはアレクサンドロスの勝利に終わり、ダレイオスは莫大な財宝や家族を残して逃げ去 ったのであるが、アレクサンドロスがダレイオスに勝利した要因としては、地形を利用したことが大きいと思われる。騎兵の渡河 は上流に行くにつれて困難になることも考えて歩兵部隊を率いて速やかに川を渡って橋頭堡を築いたことや、窪地の死角を利用して テッサリア騎兵を左翼に移動したことなどはそのあらわれであろう。一方で事前情報の扱いにかんしては彼の失敗であるが、その 後で急速に反転して北上しヨナの柱の隘路を確保したことや、周辺を警戒しつつ軍を展開することでペルシア軍に先制攻撃を許さ なかったことも勝因に挙げられるであろう。失敗をしても、そこからの復帰をうまくおこなって勝利したといえる。

    一方ダレイオスの敗因としては、やはりソコイ平原をすてて狭い場所を戦場にしてしまったことで数の優位を生かせなかったこと、 バクトリアやソグディアナの強力な騎兵隊を呼ばなかったこと(この敗戦の影響か、ガウガメラでは呼んでいる)、重装歩兵のような 役割を期待したカルダケスがマケドニア軍によってあっさりと崩されてしまったこと、アレクサンドロスの背後に出たときにヨナの柱 を占領しに向かわなかったことが考えられる。 さらにペルシア軍左翼側の戦力を薄くしたことや山の中腹においた兵士たちが全く機能しなかったことなどもあげられる。このように 後になって見ていくとダレイオスの敗因については様々な要因があるが、何よりも絶好の好機を生かすことが出来なかったということ が大きかったのではないかと思われる。ダレイオスはせっかくアレクサンドロスの背後に出て奇襲をかけられる位置にありながら様々 なミスを重ねたことでダレイオスは敗北してしまったのであった。


    古代マケドニア王国の頁へ
    前へ
    次へ
    トップへ

    inserted by FC2 system