グラニコス川の戦い



グラニコス川の戦いにおける両軍の布陣

前334年、ヘレスポントスを超えて小アジアに上陸したアレクサンドロス大王率いるマケドニア・ギリシア連合軍は 小アジア各地のペルシア帝国太守の軍勢との戦いに突入した。ここでは両軍の布陣をまずまとめておくことにする。 アレクサンドロス大王率いるマケドニア軍はグラニコス川の西岸にそって布陣した。

まず右翼にはヘタイロイ騎兵 1800騎が配置され、騎兵隊の前にはアグリアネス人投槍兵部隊(500人)とクレタ人弓兵部隊(500人)が配置された。 右翼のヘタイロイ騎兵部隊や軽装歩兵はフィロータスの指揮下に置かれていた。これの隣にはアミュンタスが指揮する パイオネス人騎兵部隊(150騎)と前哨騎兵部隊(600騎)が並んでいた。なおヘタイロイ騎兵部隊のうち、ソクラテス の部隊(225騎)のみはアミュンタス率いる騎兵部隊と共に先発部隊を形成した。

戦列の中央はマケドニア密集歩兵部隊が陣取り、最右翼には近衛歩兵部隊(3000人)が陣取り、それに続いて密集歩兵部隊 (9000人)が配置された。左翼にはテッサリア騎兵1800騎、ギリシア同盟軍騎兵(600騎)、トラキア人騎兵(150騎)が 配置された。以上がマケドニア軍の陣容であった。ギリシア人傭兵や同盟軍兵士の姿が見られないが、敵にギリシア人傭兵 が数多くいることからあまり信用できなかったためだと言われている。この合戦に限らず、同盟軍歩兵や傭兵は前線で重く 用いられることはなかった。

一方、これを迎え撃つペルシア軍は騎兵がおそらく10000騎程度、ギリシア人傭兵が4000〜5000人であったと考えられている。 古典史料にはペルシア軍が圧倒的多数であったように書かれているが、この合戦でのギリシア人傭兵の犠牲者や捕虜の数から 考えてギリシア人傭兵はこの程度であると推測される。ペルシア軍の騎兵はヒュルカニアやバクトリアなど各地から集められ た騎兵隊であった。ペルシア軍は騎兵を前面に押し出し、ギリシア人傭兵はその後ろに陣取るかたちをとった。

このような布陣でグラニコス川の戦いは行われることになる。グラニコス川の戦いは3つの局面に分けられる。

(1)マケドニア軍右翼の渡河→中央、左翼の渡河
グラニコス川の戦いで先陣を切ったのはソクラテス率いるヘタイロイ騎兵やアミュンタス率いる騎兵隊からなる先発部隊である。 アレクサンドロス率いる本隊はこの先発部隊に続いて川を渡っていった。マケドニア軍先発部隊に対してペルシア軍は投げ槍に よる攻撃を行い、マケドニア軍先発部隊はペルシア軍の攻撃にさらされて劣勢に立たされた。そこに少し遅れてアレクサンドロス 率いる本隊が合流したのであった。先発部隊に攻撃を集中しているその間にマケドニア軍はグラニコス川を渡り、ペルシア軍との 戦闘に突入したようである。そして合流したアレクサンドロス率いるマケドニア軍右翼とペルシア軍左翼の間で激しい戦闘が行 われた。双方の騎兵隊が激しい戦闘を繰り広げ、長い突き槍と剣を使いマケドニア騎兵はペルシア軍に対し優位に立った。また 渡河した歩兵部隊も陣形を整えペルシア騎兵を撃退したに違いない。陣形を整えた歩兵に対し騎兵がそれを単独で突破する能力は 持ち合わせていないと考えられるからである(長槍で武装し陣形を整えた歩兵を打ち破ることは中世の騎兵でも無理である)。

(2)アレクサンドロスの一騎討ち
グラニコス川の戦いの描写のなかで、アレクサンドロスの一騎討ちの場面はかなりの部分を割いて書かれている。

ダレイオス(3世)の娘婿ミトリダテスが戦列から大きく馬を進め、楔形になった騎兵の一団を率いているのを認めるなり、 彼の方もまた他に先んじて馬をとばしてこれに立ち向かい、真っ向からミトリダテスの顔に槍の一突きを加えて、一撃の下に 彼を地上に突き落とした。このときロイサケスが馬を駆ってアレクサンドロスに近寄りざま、手にした偃月刀で彼の頭を激し く斬りつけた。その一撃は彼の兜の一部を跳ね飛ばしたものの、兜その物は打撃を良く持ちこたえた。これに対しアレクサン ドロスのほうは手にした槍で相手の胸甲を心臓まで刺し貫いて、この男もまた地上に倒した。しかしその時既にスピトリダテス が背後からアレクサンドロスに向かって偃月刀を高く振りかぶっていた。この時一瞬早くスピトリダテスの肩先を薙ぎ払って、 その手にした偃月刀もろとも彼の利き腕を切り落としたのは、ドロピデスの子クレイトスだった。

アレクサンドロスに関する諸史料は描写の細部の違いはあれ、アレクサンドロスとペルシア騎兵の一騎討ちの場面をかなり詳しく 伝えている。アレクサンドロスの軍装はかなり目立つものであったために、敵にとってもはっきりと識別できる格好の標的となっ ていた。そのため彼に攻撃が集中し、一騎打ちに入る前から攻撃を受け、胸当てや盾、兜に打撃を受け、激戦の中で槍を折ってし まい近侍やヘタイロイに換えの槍を要求せざるを得ない状況になっていたようである。この一騎打ちに置いて大王の窮地を救った クレイトスはアレクサンドロスより年上の乳母兄弟であり、勇猛剛毅にして頑固一徹な武将であり、後に王の「東方かぶれ」を 論難して刺殺される人物である。当時彼はヘタイロイ騎兵の最精鋭部隊であった王の親衛騎兵隊を率いていたという。

(3)ペルシア軍の敗退
大王が一騎打ちを展開している頃、ペルシア軍はマケドニア軍に押されて既に劣勢に立たされていた。騎兵は密集歩兵を正面から 打ち破ることは出来ないため中央部で劣勢に立たされ、騎兵同士の激突となった右翼に置いてはマケドニア騎兵と騎兵に混ざって 戦うマケドニア軍軽装歩兵により攻撃を受け、やがて撤退を余儀なくされた。右翼でヘタイロイ騎兵の全面に配置されていた軽装 歩兵達は飛び道具(投げ槍や弓)を用いた後は剣を用いて戦うことになるが、騎兵と軽装歩兵が連携して戦うという戦術はすでに テーバイ軍が用いていた戦術であり、マケドニアもそこから学んだのであろう(おそらくフィリッポスが人質になっている時期に テーバイ軍の戦術を学んだものと思われる)。ペルシア騎兵が敗走した後に残されたギリシア人傭兵に対し、アレクサンドロスは 過酷な対応をした。ギリシア人傭兵が身の安全を乞うてきてもその要求を受け入れずこれを包囲して攻撃した。多くの傭兵が戦死 し、残された歩兵は捕虜となりマケドニア本国に送られて強制労働に従事させられることになった。

こうしてアレクサンドロスはペルシア遠征の緒戦であるグラニコス川の戦いに勝利した。この先頭に置いて先発隊を先に送り出し、 それに続いて少し遅れて本隊を送り出すという用兵は敵の注意を引きつけ、なおかつ敵陣を攪乱する効果があったといえる。そして 様々な兵力を一つにまとめ上げて運用する用兵が力を発揮して勝利を収めた。この戦闘における戦死者は騎兵85騎、歩兵30人という ものであり、ペルシア軍に与えた損害が3000〜4000であったことからするとはるかに少ない犠牲者であった。先発隊の騎兵の死者 は25人であり、彼らの銅像を作らせた。その像はマケドニアの都市ディオンに飾られることとなった。この戦闘ではアレクサンドロス の巧みな用兵(先発部隊による攪乱、様々な兵科の統合)が見られる一方、ギリシア人用兵に対する過酷な扱いが後にペルシア軍に いるギリシア人傭兵の激しい抵抗やスパルタ王アギスの蜂起へのギリシア人傭兵の荷担を産むことになる。


古代マケドニア王国の頁へ
前へ
次へ
トップへ

inserted by FC2 system