マケドニアの騎兵

アレクサンドロスの東征では後に「槌と金床」と呼ばれることもある戦い方がペルシアやポロスとの戦いにおいて見られる。フィリッポス 2世の軍制改革により整備されたサリッサをもつ密集歩兵(ペゼタイロイ)を中心に、両翼に騎兵を展開する布陣をとり、密集歩兵が敵を とらえているうちに騎兵および軽装歩兵が側面や背後を討つという戦い方であるが、そのような戦い方はフィリッポス2世登場前のマケドニア は脆弱な歩兵戦力しか持たなかったためにできなかった戦いかたである。しかしそのマケドニアでは古くから騎兵は歩兵に比べると優れていた ことが知られている。伝統的に優れていた騎兵戦力がフィリッポスの時代にさらに数を増し、アレクサンドロスはそれを密集歩兵と巧みに連動 させて運用することで数々の戦いで勝利を収めたのである。

マケドニア騎兵の戦いについては紀元前5世紀にトゥキュディデスの手によってわずかばかりではあるが残されている。

「マケドニア人達は歩兵で防御に当たろうとせず,上部マケド ニアの同盟国から得た騎兵を加えた騎兵隊を以て,隙をね らっては, 多勢に無勢ながらトラキア軍を襲撃した。馬術において優れ,胸当てをつけた彼らの攻撃に抗しうる者は無かったが,多くの敵兵に囲ま れて,危機に陥ることが往々にしてあったので,この大群に対して命を賭すれば味方の人数がつきると悟って手出しをしなくなった。」 (Thuc.2.100.5)

 トラキアの襲撃をうけた時マケドニアは騎兵を中心とした軍勢を編成して対抗したことが述べられている。同時にこの記述からは 歩兵を有効に利用できていないことや歩兵と騎兵を巧みに連動させて戦う後のアレクサンドロスの軍隊と当時のマケドニアの戦い方 がかなり異なっていたことも窺える。トラキアとの戦いに関する記述の他にもスパルタのブラシダスとマケドニア王ペルディッカス2世 が上部マケドニアのリュンコス(リュンケステース)のアラバイオスと戦った時,その遠征に出発する時の記述にもマケドニア軍の騎兵 についての記述がトゥキュディデスに残されている。

「このときペルディッカースは王領内のマケドニア兵力と王領 内に住居するギリシア人の重装歩兵部隊を率い,ブラシダス は配下 に残るペロポネーソス兵に加えて,カルキディケー,アカントスをはじめとする諸国から各国応分の兵数を徴募して遠征に従えた。ギ リシア人重装兵を合算すると約三千名,騎兵は全部マケドニア,カルキディケー両地方出身であったが,両者合算して一千騎弱,その 他異民族の雑兵多数が参加していた。」(Thuc. 4.124. 1)

 以上二つの史料はトゥキュディデスというギリシア人の目を通してみたものではあるが,紀元前5世紀後半のマケドニアの軍事力 として,騎兵戦力は強力であったが,それと比べて歩兵戦力は整備されていなかったということは明らかである。その状況が変わる のはフィリッポス2世の治世であり、彼の元で密集歩兵部隊が強化されるとともに騎兵に関してもその数は増加していたようである。 フィリッポス2世がイリュリア人と戦ったときにはわずか500騎であったマケドニアの騎兵がカイロネイアの戦いに参加した数だけ でも2000騎、そしてアレクサンドロスが東征に出発したときには1800騎のヘタイロイ騎兵、プロドロモイ(前哨騎兵)900騎(ただし ここに集計された数の中にはトラキア人、パイオネス人の騎兵が含まれる)が従軍して東へと向かっていった。同じ頃マケドニア本国 には1500騎の騎兵が残されていたが、東征が進むにつれマケドニア人騎兵が増援部隊として確認されるだけで800騎が派遣されたよう である。

それでは、マケドニアの騎兵にはどのような部隊が存在したのであろうか。東征軍に見られるマケドニアの騎兵は主力部隊となるヘタイロイ 騎兵と偵察や遊撃部隊として用いられたプロドロモイ騎兵があげられる。アレクサンドロスは大規模な合戦や追撃戦、奇襲など様々な戦いで これらの騎兵を組み合わせて用いたり、装備や組織を改編しながら用いていたようである。

アレクサンドロス大王の東征中に行われた数々の戦いにおいて戦いの決定的な局面でヘタイロイ騎兵の活躍がかなり書き残されている。 「ヘタイロイ」という名称はマケドニア貴族のことを指す言葉でもあるが、彼らは騎兵として従軍することを求められていた。そのような 者によってヘタイロイ騎兵隊が構成されており、東征軍には1800騎のヘタイロイ騎兵が含まれていた。ヘタイロイ騎兵は兜と胸当てを身に つけ、武器としては長い突き槍(クシュストン)と剣を装備していたという。彼らは楔形の隊形を組み敵陣の隙間に突撃したり、側面や 背後に回り込んで戦った。

ヘタイロイ騎兵の編成は東征時のことに関してはかなり詳しく伝えられている。東征開始当初は「王の騎兵親衛隊」(グラニコス川の戦い で間一髪の所でアレクサンドロスを助けたクレイトスはこれを率いていた)も含めた8つの「イレー」で編成され、それぞれに指揮官がいたが それらすべてはパルメニオンの子フィロータスにより統括されていた。ヘタイロイ騎兵の編成は親衛騎兵以外は地域ごとの編成であったとされ、 マケドニア軍の騎兵に上マケドニアの騎兵やボッティアイアの騎兵、アンフィポリスの騎兵、アンテムスの騎兵といった部隊が存在したことが しられている。

ヘタイロイ騎兵の編成は東征中に確認できるものだけでも2度変わっている。まず一度目はスサへはいる直前の時期に本国からの 大規模な増援部隊が到着した時にイレーのなかにロコスという区分をもうけ、1イレーは2ロコスからなるようにしたうえで指揮官も王が優れて いると思った者を選抜して任命することや、出身地に関わりなく編成さえるようになったことである。二度目はヘタイロイ騎兵を統括していた フィロータスが陰謀の嫌疑で捕らえられて処刑された後、ヘタイロイ騎兵を2つの「ヒッパルキア」に分割してヘファイスティオンとクレイトス に指揮を任せるというものであった。その後、ヒュダスペス川の戦いでは「ヒッパルキア」が6つあらわれていることから、インドに入る直前 にさらに改編が行われてヒッパルキアが戦闘単位となったようである。それとともに王の騎兵親衛隊も「騎兵のアゲーマ」というものがみられる ようになることや、その後「キリアスケス」により全ヘタイロイ騎兵が統括されるに至ったということもいわれている。

マケドニアの騎兵には主力となるヘタイロイ騎兵の他にプロドロモイ、あるいはサリッソフォロイとよばれる騎兵たちがいたことも知られている。 彼らは哨戒偵察や主力部隊より前に配置されて遊撃部隊として用いられる騎兵であり、バルカン半島のパイオネス人やトラキア人の騎兵とともに 用いられることが多かった。彼らに関しては使用した武器が問題となることが多い。「サリッサ携行兵」という名前ももっているが、当時の騎兵が 鐙や鞍がないことから両腕で長大なサリッサ(5〜6メートル)を使うのは難しいので、実際はサリッサほど長い槍ではないとする説もある一方で、 槍の穂先の反対側にもう一つ替えの穂先を兼ねた石突きがついていれば持ち方次第でサリッサも馬上で使用できた可能性があることを指摘する説も あり、実際の所彼らがどのような兵器を用いていたのか特定することは難しそうである。

プロドロモイ騎兵はグラニコス川の戦いでは先発部隊に600騎いたことが知られ、先陣を切って川を渡ってペルシア軍の戦列を乱す役目を果たした ことがしられている。またイッソスの戦いでは渡河した後にアレクサンドロス率いるヘタイロイ騎兵とともにペルシア軍左翼を攻撃し、ガウガメラ の戦いでは右翼においてスキタイ人やバクトリア人の騎兵と激戦を繰り広げ、結果としてペルシア軍に隙間を生み出してアレクサンドロスに勝利を もたらすこととなったりしている。

このように実際の戦闘では敵の戦列を攪乱したりするために用いられることが多かったプロドロモイ騎兵であるが、 彼らはダレイオス追撃作戦を最後にその名が見られなくなる。かわって騎馬投槍兵という部隊が見られるようになるが、このような変化が起きたのは 東征軍の戦う敵が遊牧騎馬民族などにかわっていくと従来のような長い槍よりも飛び道具の方が有効であると考えられたためであろう。また、それと 同時に組織の改編も行われたためであると言われている。

話はアレクサンドロスが生きた時代から100年ほど先のことになるが、前222年のセッラシアの戦いではマケドニア王アンティゴノス3世はスパルタ 王クレオメネスを撃破した。そのときにアンティゴノスがマケドニアから引き連れてきた軍の構成は別頁でも触れているが、マケドニア密集歩兵部隊 が1万人、軽装歩兵が3000人、アグリアネス人1000人、ガリア人1000人、傭兵歩兵3000人がいるのに対して騎兵は300騎しかおらず、傭兵騎 兵を加えても600騎にしかならないほどにまで軍隊内において騎兵の数が減少している。

さらにフィリッポス5世が同盟市戦争に参戦したときの軍の 構成は騎兵800騎、盾隊5000人、マケドニア密集歩兵10,000人というものであった。その後のフィリッポス5世の軍事活動を見ても冬に本国から テッサリア、コリントスへと向かう時の軍勢には親衛騎兵400騎をつれているが他には青銅盾兵3000、盾兵2000、クレタ人300という陣容である。 そして、前197年のキュノスケファライの戦いでは歩兵約25,000(うちマケドニア人が18,000人程度)に対して騎兵は2000騎(マケドニア人 の数は不明)、前167年のピュドナの戦いではマケドニア王ペルセウスが率いた総数約43,000の軍勢のうちマケドニア人歩兵が26,000人 (21,000が密集歩兵で、残りはエリート部隊だったらしい)、4000騎の騎兵のうち3000騎がマケドニア人騎兵であったことが知られている。

これらの戦いにおけるマケドニア軍の動員をみてみると、マケドニア人騎兵の動員数はピュドナの戦いの時には大幅に増えているもののセッラシア の戦いや同盟市戦争では少数の騎兵しか動員されていないことがうかがえる。また歩兵と騎兵の比率をみると歩兵の比率が圧倒的に多くなっている 事も窺える。歩兵と騎兵の比率がアレクサンドロス大王の東征時(出発時で歩兵32,000に騎兵5100、ガウガメラでは40,000に7000騎)と比 べると歩兵に偏っているが、これはヘレニズム世界における戦闘では密集歩兵同士のぶつかり合いが多くなっていたようであり、そのため騎兵戦力 が昔より少なくとも戦うことができたことと、ギリシアにおける戦闘の場合地形的な問題もあり大規模な騎兵を展開するより歩兵を多数投入した ほうが戦いやすかったことが関係しているためだと説明されることが多いようである。

しかしマケドニア騎兵の動員数がかつてと比べて大幅に減少している理由はそのような戦術的な理由だけではなく、アンティゴノス朝マケドニア は北方のダルダノイ人(イリュリア系民族)の侵攻にたびたび悩まされており、絶えず北方の防備を固めたり侵攻に備えなくてはならないために 全軍を動員してギリシアへ遠征することは難しかったともかんがえられる。事実セラシアの戦いで勝利して間もない頃にアンティゴノス3世は北方 で戦乱が勃発したために急遽スパルタを去らねばならなかったし、フィリッポス5世も同盟市戦争を戦いつつダルダノイ人にたいする戦いを続け ていることから、全軍を率いて南下する事は難しく、軍隊の動員数も少なめになり、結果として騎兵の数も減ったのかもしれない。

北方情勢が不安定であることの他に、マケドニアの人的資源の減少という問題が騎兵の動員数減少にかなり関係しているように思われる。 アンティゴノス・ゴナタスやデメトリオス2世時代のマケドニア軍の動員について詳しいことが分からないため断定することはできないが、 アレクサンドロス大王の東征以来の人的資源の減少がかなり影響を与えているのではないかとも思われる。アレクサンドロス大王は東征で多くの マケドニア人を率いていったが、前331年まではマケドニア本国から増援部隊が送られている。その後の後継者戦争においてマケドニア人将兵は 東地中海世界から高地イランにまで活動の場を広げていたが(その数は一説には4万人ほど)、それらの兵士の多くがマケドニアへ帰ることはなく 東方で入植させられたり戦死したりしたようである。さらにマケドニアは前3世紀前半にガリア人の襲撃により国土は荒廃しているが、そのことも 人的資源の減少に拍車をかけたことは容易に想像できる。

前197年のキュノスケファライの戦いに際してローマ軍を迎え撃つべくフィリッポス5世は大軍を動員しているが、そのときにマケドニア人から 動員できた兵力は歩兵18,000と騎兵2000騎であり、東征時のマケドニア人の兵力(本国分とあわせると歩兵24,000、騎兵が3300〜3900 (プロドロ モイの総数が600とした場合))と比べるとやや少なめである。キュノスケファライの戦いの時点でフィリッポス5世は各地でローマ軍の侵攻を 受けて劣勢に立たされており王国防衛のために全力を注がねばならない状態に追い込まれていたと考えられるため、ここに見られるマケドニア人 将兵の数はフィリッポスが動員しうる最大限の数だったのではないかと思われる。その数がこの程度であったということは後継者戦争やガリア人 の侵入によりマケドニアの人的資源がかなり減少していたためであると考えられる。その後のピュドナの戦いではマケドニア人の兵士が歩兵 26,000と騎兵3000騎にまで増加しているが、これはローマに敗れた後にフィリッポス5世が王国再建に尽力した成果であろう。

アレクサンドロスの東征中にマケドニア騎兵が増援として東方へ送られていき、その後の後継者戦争では東地中海世界から高地イランにまで彼ら の活動範囲が広がっているが、東征で派遣された騎兵たちがマケドニアへと戻ってきた可能性は非常に少ないとかんがえられる。後継者戦争では武将 たちは貴重な人的資源をできるだけ手元にとどめるべく入植などを行っており、その結果マケドニア本国の人的資源の減少を招くことにもなるが、 そのときに優秀な騎兵戦力が外へ流出する事が多かったであろう。当時の騎兵は鐙や鞍を用いずに馬上で長槍や剣を振るい、馬を巧みに操って戦わね ばならないため相当高度な技術が求められるが、その技術を身につけるには幼き頃から訓練を積まねばならないものであり一朝一夕に優秀な騎兵が 増加するとは考えにくい。さらに前279年のガリア人の侵入により国土が荒廃したことも人的資源減少に拍車をかけたであろう。

また、フィリッポス2世やアレクサンドロス大王の時代にマケドニアとたびたび戦ってきたイリュリア人、ダルダノイ人のマケドニアへの侵攻は ヘレニズム期に入っても相変わらず続いており、アンティゴノス朝の諸王にとって辺境の安定は重要な課題であり続けた。彼らは絶えず北方の動向 に目を配り辺境防衛に当たらねばならなかったため、北方の動向を無視してギリシア情勢に全力を注入することはきわめて難しかったであろう。

以上、アンティゴノス朝期のマケドニアの騎兵動員数減少についてつらつらと思うところをまとめてきた。戦術的な問題の他に、アンティゴノス朝 では人的資源の問題と辺境防衛という理由から遠征時に優秀な騎兵を数多くそろえることが難しくなり、動員兵力についても歩兵が1万人ほど動員 できる時に騎兵の数は数百騎程度と歩兵と比べると大幅に少なくなったのではないかと思われる。


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