パルメニオンとアンティパトロス
 〜マケドニアの将軍たち(1)〜


アレクサンドロス大王の東征軍の中には、フィリッポス2世の時代からマケドニア王国において活躍してきた将軍 たちがみられる。フィリッポス2世時代のマケドニア王国の興隆を肌で感じながら活動してきた将軍たちのなかから、 東征中に大きな力を持った者、アレクサンドロス死後のディアドコイ戦争で主導的立場をとる者があらわれてくる。 まずは、それらの将軍のなかからフィリッポス2世の時代に特に有力であり、アレクサンドロスの東征の時代にも活躍 したパルメニオンとアンティパトロスを取り上げて紹介してみようと思う。

  • パルメニオン
  • フィリッポス2世時代のマケドニアにおいて、軍隊を指揮して戦って数々の勝利を得、またアレクサンドロスの東征に おいても副将格の存在として東征軍中で重きをなした人物であるパルメニオンからとりあげてみよう。彼の生年については 確かなことはわからないが、史料中に見られる記述を元に、前400年頃に生まれたと考えられる。フィリッポス2世よりも 年長の彼は、おそらくフィリッポス2世以前からマケドニアの宮廷で働くようになり、ペルディッカス3世のもとで権力を ふるっていたエウプライオスという人物をフィリッポス即位直後にとらえて殺害したという記述が見られることから、彼は フィリッポス2世が即位した頃には宮廷でもかなりの有力者となっていたようである。

    フィリッポス2世のもとで軍政・財政改革が進んだマケドニアは強国として発展していくが、マケドニア王国の周囲には イリュリア人やトラキア人の脅威がなお存在した。それらの勢力との構想は長く続くが、パルメニオンは前356年にイリュ リア王グラボスと争って勝利を収める等、マケドニア軍を率いてイリュリア、トラキア勢力と戦い勝利を収めた。彼は マケドニアにおいても優れた将軍として知られ、フィリッポスも彼をたたえたという逸話が残されている。それによると 「毎年10人の将軍を得られるアテナイは幸福だが、自分は長い間に一人の将軍しか持っていない。それがパルメニオンである」 と言ったとされている。逸話の真贋はさておき、パルメニオンがフィリッポスから厚い信頼を受けていたことは彼が前346年に アテナイとマケドニアの間で結ばれたフィロクラテス和約を締結する時にマケドニアの代表の一人として派遣されていること からも明らかである。また、前336年にフィリッポスが小アジアへペルシア遠征の先遣隊を派遣したときにも指揮官の一人として 送り出されている。

    このようにフィリッポス2世のもとで将軍として数々の戦いで活躍したパルメニオンはマケドニア軍内部における将兵の支持も 厚く、かなりの影響力を及ぼせる存在であり、彼と姻戚関係を結んでいる有力貴族もいた。フィリッポス2世の7番目の妻とな るエウリュディケー(=クレオパトラ)の叔父アッタロスはパルメニオンの娘婿であり、アレクサンドロスの東征で密集歩兵の 指揮官として活躍するコイノスもパルメニオンの娘婿であった。マケドニア軍内部におけるパルメニオンの影響力は前336年に フィリッポス2世が暗殺され、アレクサンドロスが即位するとさらに強まった。彼はアレクサンドロスの即位を支持し、非情にも 娘婿アッタロスを見捨てることになったが、それと引き替えに軍の主要ポストに自分の一族をつけることに成功した。息子の フィロータスがヘタイロイ騎兵総指揮官となり、ニカノールは近衛歩兵部隊総指揮官に、末子ヘクトルも王の近侍として東征に 従軍し、東征軍におけるパルメニオンとその一族の権勢は比類無きものとなっていった。

    東征軍において、パルメニオンは副将格として従軍し、合戦においては左翼の指揮を任されている。東征に関する史料をみると、 パルメニオンの献策や提案はことごとくアレクサンドロスに蹴られ、合戦の場面でもパルメニオンは劣勢に陥ってアレクサンドロス に救援を求めている姿がかかれているが、これはアレクサンドロスを引き立たせるための修辞であると考えた方がよさそうである。 東征中はアレクサンドロス率いる部隊とは別のルートで進軍して各地を制圧したり、イッソス合戦後には速やかにダマスカスへと 向かってダレイオス3世の財貨と家族の身柄をおさえている。ガウガメラの合戦も終わり、ダレイオス3世を追撃するように なると、パルメニオンは本国との連絡、後方支援、兵站業務を担うようになっていた。

    しかしこのころからパルメニオンとその 一族を東征軍から排除しようとする動きがおこりはじめ、ついにパルメニオンの息子でヘタイロイ騎兵総指揮官フィロータスが 陰謀をたくらんでいたという罪状で逮捕され、処刑された。フィロータス処刑の後、速やかに解決しなくてはいけない問題として エクバタナの地で大軍を擁し、後方支援に当たっているパルメニオンの処遇がもちあがり、彼はエクバタナの地で暗殺されること になるのである。パルメニオンとその一族を排除した理由として、東征軍内部における権力闘争や、アレクサンドロスの東方化政策 の障害を除去するといったことがあげられている。アレクサンドロスが自らの推進する政策を完遂するためには旧来のマケドニア 貴族のなかで障害になりそうな者を取り除かねばならなかったこと、アレクサンドロスの側近たちの中にもアレクサンドロスと共 に活動して権力の座に預かりたいならば東征軍で強力な力を持つパルメニオンとその一族を排除しなくてはならなかったこと、 こうしたことが原因となって、フィリッポス2世以来の譜代の将軍パルメニオンとその一族は狙われ、そして殺されたのである。

  • アンティパトロス
  • フィリッポス2世の元でマケドニア王国は四方に領土を拡大し、ギリシア世界の覇権を握っていくが、フィリッポス2世は頻繁に 遠征を行い、しかもその遠征が長期にわたることがたびたびであった。その間マケドニア王国には王が不在という事態も起きるが、 そのようなときに王国を支えていたのがアンティパトロスである。パルメニオンと並ぶフィリッポス2世の重臣であった彼は、 アレクサンドロスの治世も王国を支え、彼の死後も様々な争いを切り抜けて生き残った人物である。

    アンティパトロスは前399/8年頃にイオラオスの息子として生まれた。イオラオスについては、一説にはトゥキュディデスの「歴史」 にマケドニア騎兵を率いてポテイダイアに現れた人物であるとも言われ、それが正しいとするならば王家以外では名前の他に業績も 少しわかっている数少ない人物と言うことになる。フィリッポスよりも年上の彼はフィリッポス以前からマケドニアの宮廷で活動し ており、パルメニオンとともにフィリッポス2世を支えることになった。アンティパトロスは前346年にはパルメニオンとともに マケドニアの代表としてアテナイを訪れ、フィロクラテスの和約締結に貢献した。また、アンティパトロスは軍事面でも活躍し、 前347年頃のトラキアのケルセブレプテスに対する戦争では彼も遠征したという。その他、イソクラテスやフォキオンといった アテナイの名士と知己を得たり、前342年のピュティア競技会ではフィリッポスからテオロスに任命されたということもわかっている。

     一方でフィリッポスが遠征するためにアレクサンドロスを摂政に任命したとき、アレクサンドロスの後見としてアンティパトロス が任命されたという。さらに、ペリントスやテトラコリタイへ遠征するなどの軍事活動も行っており、マケドニアの政治・軍事に おいて重要な役割を果たした人物であったことが伺える。アンティパトロスはカイロネイアの戦いの後、アテナイへと派遣されて 和平協議を行い、アテナイからは市民権を付与されたという。アンティパトロスが有能であったため、フィリッポスはかつて 「アンティパトロスが素面でいてくれればたくさんだ」といって飲み会に興じたり(要するに自分が飲んでいたり遊んだりして いても彼がいるからなんとかなる、ということか)、アンティパトロスがいるから安心して眠れるという事をいったという話が 伝わっている。

    アンティパトロスは前336年にフィリッポス2世が暗殺され、アレクサンドロスが即位する際にいちはやくアレクサンドロス支持 を表明して彼を支え、前334年にアレクサンドロスが東征に出発する際にはマケドニアに残って王不在のマケドニアの支配の一部 を任せた。ただし、アレクサンドロスの時代のアンティパトロスは様々な困難に見舞われることになる。まず、マケドニアの支配 に関してはアレクサンドロスの母オリュンピアスもおり、彼女は王国の内政や財政、宗教面をささえていた。アンティパトロス は軍事や外交を担当していた。

    彼はその任務をよく果たし、王から軍の補充要請がくれば兵士を集めて送り出し、ペルシア海軍の 脅威に対しては艦隊を送ってこれを抑え、エーゲ海の制海権を維持した。また、前331年にはマケドニアに対して反乱を起こした トラキアに軍を送ってこれを鎮圧すると、それと時を同じくして発生したスパルタ王アギスの武装蜂起は当初苦戦しながらも、翌年 にはメガロポリスでアギスを破って反乱を鎮圧した。アンティパトロスの働きぶりはめざましいものがあったが、これが原因で オリュンピアスの敵意を買うこととなり、両者は激しく対立するようになった。そして両者の激しい争いは前324年に起きた ハルパロス事件で頂点に達することになる。

    ハルパロス事件の発端は、前324年にアレクサンドロスがインドからペルシス地方へと帰還したことにある。当時アレクサンドロス から征服地支配を任されていた多くの人々は、彼が生きて戻ってくるとは思っておらず、綱紀は乱れていた。なかでもバビロンに おいて帝国財政全般と後方支援を任されていたハルパロスはまるで王侯貴族のような豪奢な生活を送っていた。彼はアレクサンドロス の古くからの友人であり、戦闘には不向きであったこともあり後方支援の任務を任されていたが、生還した大王が綱紀粛正のため に取り締まりを厳しくし、高官たちを処罰していることを知ると逃げ出した。処罰を免れることはできぬと思って逃亡したので あろう。その際に傭兵6000人と5000タランタの財貨をもって逃亡し、アテナイに亡命したのであった。

    結局アテナイは彼を拘留した のち国外に追放し、ハルパロスは部下の裏切りでクレタで死ぬことになる。問題が起きたのはハルパロスがアテナイに亡命中 のことであった。アンティパトロスは外交は自らの専権事項としてハルパロス引き渡しを要求したが、同じ要求をオリュンピアス もしてきたため、オリュンピアスとアンティパトロスの対立は決定的となった。この事件の結果、アンティパトロス は解任されてバビロンに召還されることとなった。しかし、アンティパトロス更迭には王国の方針変更が関係しているという。 かつてパルメニオンとその一族が粛清されたように、アレクサンドロスの東方政策を推進するためにはフィリッポス2世以来の 重臣アンティパトロスは最後の障害となっていた。しかし前323年にアレクサンドロスが死んだことで、結局彼は召還される ことなく本国に残ることとなった。

    アレクサンドロスの死後、前323年にアテナイを中心に反マケドニア武装蜂起が起き、大規模な戦争に発展した。 世に言うラミア戦争である。アレクサンドロス大王が前324年に発布した追放者復帰王令が前365年より領有してきたサモス 島をサモス人に変換することを含意するもので、アテナイではこのことに対する不満が高まっていた。そのことに不満を抱いた アテナイはアイトリアを味方に引き込み、さらに他のポリスも味方につけていった。アテナイがアイトリアと接触する際に レオステネスというアテナイ市民が活躍している。彼は恐らく当時数多く存在した傭兵隊長の一人であろう。彼は傭兵を 集めるとタイナロン岬に移動し、そこで傭兵達の指導者に選ばれた。アテナイ市民であるが公職に就いていないレオステネス は自らをアテナイが自由に使える立場におき、アテナイの評議会の支援を受けつつアイトリア人と交渉にあたった。そして アイトリア人を味方に引き込んでいった。そしてアレクサンドロスが死んだ当時レオステネスはアテナイの将軍に選ばれて いたようである。そしてレオステネスは反マケドニア派のヒュペレイデスらとともにアテナイの世論を対マケドニア戦争へと 駆り立て、ついに前323年秋に戦いを開始した。

    アンティパトロスはこれを鎮圧するべくギリシアへ軍を進めたが敗北し、テッサリアのラミアという町へ逃げ込んだ。 戦いの序盤にレオステネスを失ったものの、勢いに乗るギリシア軍はアンティパトロス救援のために軍勢を率いてやってきた ヘレスポントス・フリュギア太守レオンナトスを敗死させた。しかしアンティパトロスはなんとかマケドニアへと逃げのび、 レオンナトスが率いていた軍勢を手許に加え、さらに小アジアから渡ってきたクラテロスとも合流し、前322年夏にクランノン の戦いでギリシア連合軍を敗北させた。ラミア戦争終結後、アンティパトロスはアテナイに対し無条件降伏を要求し、 反マケドニア派政治家をとらえて処刑していった。弁論家デモステネスは亡命したが、そこで自殺した。

    ラミア戦争後、アンティパトロスはアテナイの政治体制を変革し、一定以上の財産を持つ者のみに参政権を与え、ペイライ エウスに駐留軍を置いた。参政権制限や軍の駐留が行われ、アンティパトロスの手によって長きにわたって続けられてきた アテナイ民主制は終焉の時を迎えたのであった。その後アンティパトロスは帝国摂政ペルディッカスと対立し、クラテロス やプトレマイオスらの部将と手を組み彼を倒した。

    ペルディッカスが倒れ、クラテロスがその後の戦いで戦死したことでアンティパトロスは帝国の第一人者となった。そして 前321年にトリパラデイソスの軍会で帝国摂政の地位についた。帝国摂政となったアンティパトロスは後事をアンティゴノス に託すと自らはマケドニアへと帰国し、前319年に死去した。フィリッポス2世のマケドニア王国興隆を支え、東征中の王国 を支えてきたアンティパトロスはパルメニオンのような非業の死を遂げることはなかったが、後継者としてポリュペルコンを 指名し、息子のカッサンドロスを無視した。このような形で彼が自分の後の処置を誤った事が原因で、帝国はさらなる混乱 に陥っていくことになるのであった。


    古代マケドニア王国の頁へ
    前へ戻る
    次へ進む
    トップへ戻る

    inserted by FC2 system